Leaf ーーモモを読む夜
広くて、木で出来た私のお家には、誰かの残した息づかいが聞こえる気がする。それは人ではなくて、私の体に染みついた馴染みのあるもので、換気のためにお母さんが数センチだけ開けて閉め忘れたキッチンの窓からの冷たい風に吹かれても、残り続ける、空気や、匂いや、衣服や、家具で、ここに住んでいるはずの誰かの息づかいを表すものだった。
それは形はないものの、体温という、生きていくには必要な暖かさに似た何かは、上手く説明ができないけれど、私の体を保つには十分すぎるものだった。それでも、それは、油断すると消えて無くなりそうなほどに危うくて、儚さが残るものだった。
一人で留守番をしていると、時計ばかり見てしまう。長い針も、短い針も、動くことをやめたようだった。時計がうまく読み取ることができない私は、自然と外の太陽の動きと、部屋の照度を頼りに時間を測っていた。
畳の和室の障子に映る日の光は、だんだんと元気がなくなっていて、夕方に見せかけた、嘘の光だった。本当は、時間が全然過ぎていないことを、私はもうとっくに知っている。
お父さんは、ずいぶんと家には帰ってこなかったし、お母さんは、いつも仕事で忙しくって、夜を引っ張ってくるように、慌ただしく帰ってくる。
誰もいない私だけのお家の、リビングのテーブルの上には、いつのものかわからない、タバコの吸い殻が、銀色の灰皿の中にぐちゃぐちゃに突っ込まれていて、お父さんの帰りを待っているようで、家を出て行ったきりのそのままの姿だった。
キッチンの流しにあるお母さんが残した、洗いかけの食器からは、醤油なんかの調味料の香りや、野菜の残骸達が、時間の流れのなかで腐敗が進んで行き、私の目や鼻の奥をつんとさせた。
それでも、そんな生活の匂いを、家族のぬくもりを、宝物のように抱きしめる習慣は、私にとって自然なものだった。広すぎるお家を走る、冷たい隙間風で吹き飛ばされないように、私は、体の中に閉じ込めようとした。それでも、それは、簡単に思いすら吹き散らかそうと、息巻いていた。
指先は冷えて悴んで、うまく動かない。私は、エアコンの使い方すらままならなくて、押し入れから1番厚手の毛布を引っ張り出して体に巻きつけた。
ふと目についた、和室の畳の部屋の真ん中には、誰かの後をついてきたのか、茶色くて、赤くて、カサカサで、丸まった葉っぱが一枚だけ落ちていたことに気が付いた。かわいそう、を体に背負ったそれを、私は拾い上げることもせず、まっすぐと見ることもできず、あえてそれを、見なかったふりをした。
この葉っぱは、私なのかもしれない。そんな風に思ったから。
そんな現実から移した視線の先には古いブラウン管のテレビがあり、その横にはスイミーのビデオテープと、一冊の本が、うつ伏せに倒れていた。もうすでに、何度見たのかわからないほどで、画面の映像が切り替わるところも、映像が中断する瞬間も一分一秒の単位で、わかっていたし、お母さんの愛する「ナツメソウセキ」の分太い本を開いては、文章の一行目からとたんに意味がわからなくて、それでも漢字のふりがなを追いながら、ページをめくり続けた。
本を読んでいるふりを続けていると、不思議と何かを書きたいという渇きが溢れてくる。歯車のように、関節の固まった鉛筆削りのボックスには、削りかすが溢れていて、すでに機能を失っていたけれど、6Bの柔らかい鉛筆を突っ込んで、一生懸命にハンドルを回した。不格好に削れた鉛筆を持ち、新聞に織り込まれた、デパートの広告の白い余白に、鉛筆を滑らせながら、私は何かを書き始めた。
写真や目を張るうたい文句の狭い狭い空間に、たくさんの文字を流し込んだ。言葉で表せない気持ちは、イラストに変わり、斜線に代わり、無限の時間の中で物語を描いた。一人ぼっちのスイミーのように、長すぎる「ナツメソウセキ」のように。
雨戸を閉めて、夜を外に閉じ込める時間帯だと、わかってはいたけれど、私は夢中になって、鉛筆の先が丸く、平たくなることを楽しんだ。私は物語を紡ぎ始めた。
物語の主人公は、海の中を漂う、一枚の葉っぱ。それは、赤くて、茶色くて汚くて、丸まった葉っぱだった。
どこから来たのかはわからない、たった一枚の葉っぱ。風の中をゆらゆらと旅しながら、家族からも離れて帰り道を忘れて、海の中にそっと落ちた。広くて、狭い家の中で、心という不確かな存在の中を彷徨う私に、どこか似ている主人公をひたすらに描いた。
家から遠く離れた海の中は、葉っぱの皮膚の上から水分をゆっくりと満たした後に、体重を重くして、どんどんと海の深くに沈んでいく。新しい場所、新しい家、新しい自分は、変わっていく何かを楽しみたいはずなのに、進めるうちに、どんどんと冷たい海の重さが、指先の6Bの鉛筆の先から、全身を襲うようになっていた。怖い。心細い。寂しい。
書きながら終わりが見えなくなって、私はそれを書くのをやめた。楽しい冒険の物語のはずだったのに。
障子に当たる光は完全に消えてなくなっていて、重い雨戸を閉めることもできなくて、私はお母さんの箪笥を開いては、早く抱きしめてくれることを想像して、綺麗に折り畳まれた洋服の匂いを嗅いだ。うまく、涙を流せなかった。心の奥が痛くて仕方なかったのに。
夜が到着してからも、私は箪笥の前から動くことができなくなっていた。多分、随分と時間が経っていたのだと思う。夜は、私の体すら全部食べてしまったようだった。
「だだいまー」
と、おもむろに玄関の扉がガチャリという音が、家中に大きく響いた。軽いようで重くて、ギシギシと言う桐の箪笥を1番奥まで押し込めると、赤くなって痺れた膝を立てて、なんとか音のする方に向かった。うまく走れない、そして、心臓が、ドキドキしていた。
「お母さん!」
「もー、部屋真っ暗じゃないの、えっ、エアコンつけてないの?冷たい体して」
お母さんは、両手に下げていた買い物袋を床に置くと、私の手を両手で包んだ。帰ってきたお母さんは、手袋をしていなくて、帰り道寒かっただろうな、とそんなことを、柔らかくてガサガサとしたふくよかな手に包まれながら考えていた。
あんなに会いたかったはずなのに、暗くて怖かったと、言いたかったはずなのに、キッチンの開いた窓に手が届かなくて、とっても寒かったよと伝えたいはずだったのに。それでも、私は、お母さんの手袋を忘れて自転車を漕ぐ姿を想像した。
さっきはエリの体が冷たいと言ったけれど、お母さんのほうが手が冷たいじゃない。心の中で、そう呟いた。
「エリ。今日は、クリスマスだね」
お母さんの言葉に、ハッとする。あ、そうだった。今日は、クリスマスイブ。お友達のちーちゃんが言ってたっけ。イブとクリスマスは、何が違うのだろうと考えていると、お母さんはニコニコと笑って話し出す。
「エリ。プレゼント、もう欲しい?」
「うん!」
お母さんの革張りの黒くて大きなカバンから、それはひょっこりと顔を出した。プレゼントと、呼ばれるそれには、包装紙も何にもついていない、一冊の本だった。
―――――――――ミヒャエルエンデ。モモ。
「本だ!」
「うん、エリには、少し早い気もしたけど、強くてかっこいい女の子がでてくるよ」
私は、本をうけとると、玄関に灯るオレンジ色の電球に近づけて、同じ色の表紙をした本に暖かみを重ねた。
うちには、私が知っている限り、ずいぶんと、いや、一度もサンタクロースが来た気配は、ない。それでも、お母さんだけは、ちゃんとクリスマスを覚えていて、私にプレゼントを届けてくれる。私には、サンタクロースなんていらなかった。夜を引っ張って帰ってくるお母さんがいれば十分だったから。
人の姿と暖かさを、取り戻す、木で出来た大きなお家。夜を追い出す蛍光灯と、人を受け入れるリビング。人の息づかいを吸い込んで、木造の家はパチパチって、伸縮をして、喜びの声を上げた。
「あ、窓閉め忘れたー」
12月の冷たい風を追い出すように、お母さんはキッチンの窓を音を立ててやかましく閉めた。
食卓に並ぶ、ふたりだけのご馳走ではない、いつものお夕飯。冷たい夜をやっと跳ね除けることのできた雨戸。
どう考えたって、私には読むことが早すぎる、分厚くて、固くて重い、「モモ」。
オレンジ色の表紙には、ボサボサ頭の裸足の女の子。私には、ぴったりな気がした。
畳のある和室の部屋に戻り、その真ん中に落ちている、茶色くて赤い、干からびて丸くなった葉っぱを、今度はそっと拾った。栞にしたら、粉々になるかもしれない。それでも、私の大切な贈り物の中で、一緒に暖めてあげたかった。帰り道を忘れた、茶色くてカラカラな一枚の葉っぱを、ティッシュで挟んで、「モモ」の1番最後のページにそっと挟む。私がこの本を読んで、強くてかっこいい女の子になった時に、また出会えるように。
私は、ページを開く。
”むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたころにも、 あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。”
時間どろぼうと ぬすまれた時間を 人間にとりかえしてくれた女の子の物語。
あれから、随分と時間はすぎた。
いまでも、クリスマスに、「モモ」のページを優しく読み込みながらめくっていく。そして、あの最後のページの一枚の葉に会いにいく。
強くてかっこいい女の子のワンピースを纏って。
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あなたにもそっと、届きますように。