first drip
6:00am
大きなハナミズキの角を曲がり、やたらうるさい番犬を起こさぬように、大学生の湊は息を切らして駆け抜けていく。車輪の回転が、冷たい空気の最初を巻き込み、錆びたブレーキ音が朝の静けさに刺さる。
タン、タン、と鼓動に重なる足音。そのまま一段飛ばしにアパートの階段を駆け上がる。春の朝は気持ちが良い。預金残高だけは、変わらないが。湊はそう一人で口元を上げた。
階段の途中で、一粒の雫がぽつりと頬に落ちる。
ポケットの中で跳ねた鍵が転がり、チカッと光る。拾い上げた指先には、深夜の匂いだけがまだ残っていた。
扉の向こうに、いつもの景色。
湊は、口を開く。
声は、まだ落ちてこない。
6:00am
同じ家の、別の窓。
パソコンを閉じ、15ミリの音圧をそっとほどいた咲は、窓に手をかけた。
カーテンを揺らす湿った風が頬を撫で、重い瞼の奥で春が鳴る。イヤホンの中では、まだ誰かの言葉が流れていた。飲み込みきれなかった言葉の屑が、耳の奥でゆっくりと滲み、絡んでいく。
階段を駆け上がる、見覚えのある足音が届いた。
今なら、ちゃんと話せる気がしたのに。
まだ名前のない時間が、ひとつずつ、落ちてくる。
窓枠から滑り落ちた雨粒が指先に触れ、その冷たさがじわりと広がると、透明な鉢の中で、金魚がひらりと向きを変えた。
硝子の宇宙と、その向こう側。水草が揺れ、陽が差し込み、敷き詰められたビー玉が夜の魔法を溶いていく。
そうしてようやく、「今日」が彼女の中に染みてきた頃、咲は金魚鉢に、コツンと指を弾いた。
「まぁ、いっか」
咲は、硬くなった身体を伸ばして窓を閉めた。
その隙間で、誰かが水に触れる気配がした。
6:00am
階下の庭先。
環は使い込まれた如雨露を置き、サンダルをきちんと揃える。階段を駆け上がる若すぎる足音と、窓の開く音。それらを生活の拍動として受け止めながら、静かに息をついた。
「ごめんなさいの、一言なのにね」
昨日、言い過ぎてしまった一言の苦さを、朝の冷気に少しずつ溶かしていく。揺れる花を眺めながら、落ち着くというより、ゆっくりと均されていくような感覚に身を預ける。
昨日の雨は、まだ土の中に残っているのに、お腹いっぱいの花に、それでも如雨露を傾けてしまう。彼女にとってこの時間は、世界中のため息を静かに沈めるための、小さな癖だった。
シュンシュンと鳴りはじめたケトルの蒸気が、窓の曇りをなぞる。挽きたての粉に湯を落とせば、それは命を吹き返し、やわらかな円を描く。
ひとつの雫が、落ちる。
朝だけが、まだ落ちてこない。
6:00am.
この家のどこかで。
first drip.
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