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【エッセイ】言葉を捨てたあと、まだ声が残っていた。

言葉の力を、わたしは信じている。それは、理解されることを放棄した者が辿り着く、孤独の果てなのかもしれない。

今月に入り、すでに三度の昇進の打診を受けている。「育てる側に、なりませんか」と。そのたびに、わたしはうっすらと微笑み、静かに首を振る。
看護師という職に従事し、十年を超えようとしていた。転職や引越しを経て、中断と再開を何度も繰り返した。それでも、何故か舞い戻ってしまう看護師という仕事には、何かが宿っているのかもしれない。
辛いことも、楽しいこともある。それでもわたしは働く。一度も休むことなく。「行きたくない」と思いながら出勤しても、素晴らしい瞬間に出会えることがあるから。そんなチャンスを、不意にするなんて、勿体ない。

深夜零時。眠れぬ夜の静寂の中、空には月も星もない。遠くから風に乗って、雨の匂いがかすかに届く。そして五分ほど過ぎた頃、ポケットのスマホがそっと震えた。「明日の朝、話がしたい」信頼する上司からの連絡だった。とはいえ、彼女が管理者の立場になってから、私たちはほとんど会話をしていない。同じ病棟で看護について語り合った日々など、遠い昔のことだ。病院は慈善事業ではない。理解している。医療の制度的圧力が、彼女を変えたのだろう。それが、管理者としての彼女の仕事だ。それでも、いつしか人が金にすり替わったように思えてならなくなった。ある日から、わたしは彼女に口を閉ざした。
綺麗事ではない。それが仕事だ、現実だ。そう理解しようとしている。わたしも大人だから。彼女がわたしより少し遠い位置に昇進してから、いつしかわたしのもとには夥しい数の仕事が舞い込むようになった。
それは、彼女が行っていた仕事の大半が流れ込んできたとも言えるし、医療現場特有の「気づいた者だけが仕事を抱える」というカラクリにもつながる。知らないふりをできる人間は、随分と楽に働いているように見える。少なくとも、わたしにはそう映る。実際のところはわからない。でも、諦めることでしか救いの道はないのだ。
もちろん、わたし自身も対価以上に働くつもりはない。そこにはきちんと線を引いている。それでも、どんな場面でも冗談のように笑い、馬鹿な振りを続けることに、わたしは疲れ果てていた。朝が来る。夜が来る。太陽の動きに振り回されながら、毎日を淡々と過ごす。
昇進は、喜ばしいことばかりではない。それはわたしに対する信頼の証であると同時に、確実に仕事が増え、生活を少なからず脅かす事実でもある。微笑みの中で、それをきちんと理解している。実直であること、狡猾であること。それが、わたしの欠点だ。
早朝勤務を終え、会議室の使用プレートを下げる彼女と久しぶりに目を合わせた。もう、わたしの知っている彼女はどこにもいないように感じる。
余計な言葉を挟まず、彼女は静かに言った。
「前向きに考えてほしい。すぐにでも管理に上げたい」
世間話すら挟まない。余地を削るその強さがある。そして、わたしが彼女をどう見ているのか。それを誰よりも理解している姿に、少し悲しくなる。それでも、わたしは首を横に振った。
「あなたの仕事は、もはや管理の域に入っている。それをお金に変えなさい。ただ働きにするつもりはない。評価を対価に変えること、それしか、わたしにはできない」
はっきりと、彼女は話した。その響きはどこか冷たく、理にかなっている。
わたしと彼女の間にあった信頼関係は、いつのまにか金にすり替わってしまったのだろうか。
理解していても、それを言葉にして声に出すと、若干の落胆を覚える。
それでも、わたしは、彼女に何かを期待していた自分に気づかされた。冷たい時間が流れる。
時計はゆっくりと回り、遠くの廊下では、患者や理学療法士たちがリハビリ室に出入りする楽しそうな声だけが、扉の向こうで響いていた。
「人に指導できるほど、わたしは偉くありません。わたしは、誰に対しても対等でいたいだけです。ただ、責任の所在を問われる時、わたし一人で解決できない案件を振られることには、どうしても憤りを感じます」
「そうね。でも、あなたならそれができるでしょう。それも、卒なく。中途半端な管理に任せるより手っ取り早いの。間違いも起こらないから。
それにね、人からの信頼も厚い。エリが築き上げてきたものよね。誰に対しても対等で、柔らかく入り込めるのは、才能だと思う。それが、どこか自分を殺していることもあるかもしれないけれど、それがあなたの仕事に対するスタイルでしょう。わたしと職員をつなげてほしい。だから、管理者の名前をつけてほしい。結局、今のスタイルと何も変わらない。ただ役職がつき、お金が増える。それだけのこと」
本当に、驚くほど正直な返答だった。働くことは、生きることだ。自分の内面をこれだけ曝け出せる強さには、相変わらず敵わない。
“上手く使いたい。”そう、わたしは今、面と向かって言われている。それでも、どこか人間らしさを感じてしまう。“それが、わたしの生き方なの”そう言われている気がするし、彼女のこういうところは、嫌いじゃかったはずだった。
「やりません」
わたしは、はっきりと伝えた。
彼女の眉間がぴくりと動き、不自然な笑顔がわずかに張り詰める。本音を隠せているつもりなのだろう。わかっているけれど、わたしは気づかないふりをする。
「知ってる。そう言うこと、わかってた」
それでも、どこか懐かしい笑顔を彼女は見せた。
ずるい。悔しい。
「あなたをモデルケースにしたい。埋もれされるわけにはいかないの。もしくは、他所に流出されるつもりもない」
一緒に働いていた時間が、ふと蘇る。誰よりも彼女は、仕事と患者に真摯だった。深夜の病棟で患者を看取る瞬間、大音量のジャズが響いていたあの風景も、鮮明に思い出す。
「聴力は、最後まで残るの。あたたかい空間を作りましょう。奥さん、もうしんみりしちゃって。どこいかれるんです?ちゃんと見届けてあげて。旦那さん、寂しがり屋なの、知ってるでしょう」
ラジカセの音量を迷いなくカチカチと上げ、部屋に鳴り響く音と静かな時間が乖離するように流れた。
「あのぉ、言いにくいんですが、隣の部屋から音量がうるさいってクレーム来てます」
「そうでしょうね。うるさいもの。そんなもん、わたしが全部責任取るから。これが、看護でしょう」
彼女は笑っていた。めちゃくちゃな人だ。そして、だからこそ、大好きだった。今、目の前にいる彼女は、あの頃の彼女ではない。いつから、あの柔らかい表情がこんなに硬くなってしまったのだろう。
「エリ。看護記録、ちゃんと読んでるよ。もうね、患者さんのところには、わたしほとんど行けてないの」
手元の資料をパタンと閉じ、彼女は大きな瞳を微かに揺らした。
「知ってます」
「嫌な言い方ね」
「事実でしょう」
うっすらと扉を開け、ノートパソコンを叩き続ける彼女しか最近は見ていない。笑っていた顔も、温かい手も、同じ彼女のはずなのに、その面影はもう微塵も感じさせない。
「しばらく仕事、ぼんやりしてたでしょ。知ってるよ」
わたしは目を逸らす。指先に微かに力が入るのが、自分でもわかる。あの時、創作大賞に打ち込んでいた。夢中になって小説を書き、若干の後ろめたさが空気になって漂っていたのだろう。彼女は豪快に笑った。
「転職も考えていたでしょう」
「はい。バレてましたか」
その時、わたしは小説と仕事、そして転職活動に奔走していた。自分のやりたいことは何なのか。頭の中をぐるぐると巡る思考の中で、長年あこがれていた「重心看護」の門を叩いていた。重度の肢体不自由と重度の知的障害が重複する子供たちの生活を支援する職種だ。ここに転職すれば、これまで積み上げてきたキャリアはすべて無に返る。それはわかっていた。それでも、どこかに掻き立てられるように、わたしはその施設のホームページを隅々まで見つめ、見学に訪れていた。

母親になりたかったのかもしれない。

自分の女という存在が、煩わしくて仕方がなかった。生涯人間発達論の教科書を、おもむろに捲る日々が続く。アイデンティティは年齢によって変わる。それはすでにエリクソンが解き明かしている。感情の波の多くは、年齢ごとの発達課題を乗り越えることで整理される。人間はそう作られているのだ。言葉にできない蟠りは、アイデンティティがまだ完成していない証拠だと、わたしは俯瞰的に理解している。

その施設で見学していると、ある少年が柵の高いベッドの中からわたしを呼び止めた。
「新しい看護婦さん?」
「いいえ、違います。今日は勉強の一環で参りました。一日見学させていただきます。よろしいですか?」
「いいよ。ここにいる看護婦さんは、みんなのお母さんみたいな人ばっかりだよ」
わたしの胸がズキンと痛んだ。見透かされている。単純に、そう思った。少年の前で、自分の浅はかさに気づいてしまった。無垢な笑顔が、胸に深く響く。彼は体が上手く動かせない。短い手足でiPadを操作し、動かない顔の代わりに、目玉をキョロキョロと自在に動かした。眼輪筋が発達しており、表情は驚くほど豊かだ。肌理は細かく、体は柔らかい。筋肉の代わりに、子供の素材そのものが美しく引き立っている。声も綺麗で、言葉には色がある。わたしはただ、彼の声と言葉に耳を澄ませた。
「ねぇ、聴いて。練習してるの。一緒に歌おう。サンハイ」

“にじがにじが空にかかって
きみのきみの気分もはれてきっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気”

素敵な歌声だった。隣のベッドの子もメロディを口ずさみ、どこからともなく看護師が一人、二人と集まる。小さな発表会が、自然に始まった。わたしも一緒に口ずさみ、驚くほど心が洗われる瞬間だった。
「あっ。ねえ、そろそろ学校に行く時間じゃない」
少年はそう言って、小さくこほんと咳をした。看護師と共にリクライニング車椅子を押し、同じ施設内の小学校へ送り届ける。広く大きな教室には、年齢の幅もさまざまな子供たちが集まり、教員と一緒に授業が始まろうとしていた。
小さな学校では、呼吸器のアラーム音があちこちで響いていた。
わたしは、浅はかだった。理屈では収まらない衝撃が、胸にずしりと落ちる。少年の無垢な声、全身で表現される小さな命の強さ、それを目の当たりにして、知識や理屈を越えて心が震えた。理解ではなく、痛みとして胸に落ちた。これまで背けてきた現実、知らなかった自分の無知、諦めかけていた何か、すべてが一気に押し寄せた。
人間は、生きている。それぞれの生活の中で、生まれ、育ち、そして日々を生きている。そんな、あまりにも当たり前のことが、そこには確かに在った。
「この子たちの笑顔を、私たちと一緒に作り上げませんか」
看護師長は、わたしに笑顔を向けてそう言った。
その笑顔に、どこか既視感が重なった。不思議な感覚だった。自分のできることを、わたしは放棄しようとしていただけなのかもしれない。与えられた環境と、本当の意味で向き合ってきただろうか。頭の片隅で、エリクソンの発達課題がよぎる。「親密性 対 孤立」そして「生殖性 対 停滞」。わたしは、停滞していたのかもしれない。孤立していたのかもしれない。ひとりで、自分を追い込んで。わたしは首を横に振った。
「もう少し、人間的にも成長してから挑戦します」心の中でそう伝えた。どこかで、師長はわかっていたのかもしれない。残念そうに笑いながら、明るく言った。
「看護は広いのよ。キャリアなんて関係ない。呼ばれるようにきたことに、意義があるの。ここの子どもたち、素敵でしょ。明るくって、この笑顔をもっともっと増やしたいの。生まれてきてラッキー!って、そんな日常を私たちは作るの」
わたしは、この後三日間、寝込んだ。身体も、心も、驚くほどに疲弊していたのだろう。

会議室で、彼女は再び、まっすぐにわたしを見つめて話し始めた。
「記録は完璧よ。でも、心がこもってないのがわかったの。でもね、あなたが戻ってくることを、ずっと待ってた。最近いいじゃない。なんか、文章力も上がったし。なにより」
彼女は立ち上がり、わたしの隣に静かに腰を下ろした。
「看護の芯が立ち上がったわね。読めばわかる。あなたの声が」
少しだけ泣きそうになった。
もう言葉を交わすことはなくなったはずなのに、
文章という名の“言葉”が、わたしたちを唯一つないでいた。言葉を捨てたあとに、声だけが残った。
「わたしがぜーんぶ責任取るから、やりなさいよ。管理」
あっけらかんと、彼女は笑った。
「やりません」
わたしも笑った。
「じゃあ、もう少しだけポスト開けておくわ。その代わりといっちゃ何だけど、一個仕事お願いしていい?」
調子のいい人だ。わたしはもう、断る気すら失せて笑った。耳の奥であの時のジャズの音色がわたしを擽る。
「仕方ないですね。今回はもう、それで勘弁してください」
「えへへ」
これで良かったのかは、わからない。多分、何ひとつ解決していない。ただ、仕事がひとつ増えただけ。彼女との間にある小さな溝も、これから先、完全に埋まることはないのだろう。でも、それでもいいのだと思う。わたしは、言葉の力を信じている。

理解されることを諦めた者の孤独の果てに、それでも残るものがあるとすれば。それは、声だ。言葉を捨てたあとに、それでも届こうとする声。わたしは、もう一度、それを信じてみようと思う。

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