漱石「こころ」考察42 静はその人を先生と呼んでいた?
夏目漱石の有名作品「こころ」、大正三年(1914年)連載。
ヒロイン・静(お嬢さん)が、先生をどう呼んでいたのかが気になったので確認してみます。
1、「私」登場以降
まず有名な「こころ」の冒頭を再確認。
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
このように「こころ」は、「誰が、誰を、どう呼んでいたか」の話から始まっている。
そうであれば、「静」はその人をどう呼んでいたのかを確認すべきであろう。
まずは物語記載順にそって、「上」・「中」を見る。
1(1)「貴夫」(あなた)
静が先生を呼ぶ最初の場面
ある時私は先生の宅で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍で酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑み干した盃を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは綺麗な眉を寄せて、私の半分ばかり注いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね」
「お前は嫌いだからさ。しかし稀には飲むといいよ。好い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でも貴夫(あなた)は大変ご愉快そうね、少しご酒を召し上がると」
まず静が直接先生に呼び掛けた際は、「貴夫(あなた)」と。
1(2)「あの人」
次に、静がその場に先生がおらず、「私」に対して先生を指した際の呼び名
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「あの人」と。
ちょっと気になったのは呼び名の跡がそれぞれこう続いていること。
・貴夫(あなた)は大変ご愉快そうね
・あの人は駄目ですよ
大変ご愉快そうな、ダメな人。
それが「私」からは「先生」と呼ばれていると。
1(3)静も「先生」と呼んでいた
さらに途中から、「私」につられたと解してよいのだろうか、静もまた先生を「先生」と呼び始める。
これもその場に先生のいない、「私」と二人での会話。
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
(略)
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚れになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
さらに静は「私」に向かって、先生を「先生」と呼び続ける。
「みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾液を呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
もはやなんのためらいも不自然もなく、静は夫を「先生」と呼び出している。
これを私は「静はそうやって「私」と言葉を合わせて親近感を与えてる女だ、と示すための描写」と解釈してしまう。
1(4)先生のいる前でも「先生」
さらに静は、その場に先生本人がいる時ですら、自身の夫を「先生」と呼ぶようになった。
先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜いとして、あなたはこれから何か為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
先に引用したのでは「ご愉快そう」「駄目ですよ」と続けられていたが、ここでは「ごろごろばかりして」と。
どうも静が先生を呼ぶ際は、否定的な表現がセットになっている。
さらに、同じ章の中で「先生」呼びと「あなた」呼びがどちらも出て来る。
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお父さんやお母さんなんか、ほとんど同じよ、あなた、亡くなったのが」
(略)
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍おっしゃるの。後生だからもう好い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。縁喜でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「先生」呼びが「あなた」に変わっている。
しかも「あなた」に続く言葉は「死んだら」である。
ここでもう一度、静が作中で最後に発した言葉を思い出しておこう。なにかつながりが見えてこないだろうか。
では殉死でもしたらよかろう
(この確認続ける予定です。)
