(修正版)漱石「こころ」考察6 「先生の遺書」を公開した理由


※ 以前の記事を修正したものです


夏目漱石の大正三年(1914年)連載開始の小説「こころ」。

この作品には多数の「謎」があり、これまでに幾多の読者・評論家がそれを分析しています。

この記事では

・「なぜ「私」は先生の遺書を公開したのか?

について語ります。


1、遺書の公開は条件付き


1(1)遺書を公開する条件


小説「こころ」の最終段落(末尾)、「先生」は遺書でこう書き残しています。

 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

(「先生と遺書」五十六)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

先生は、遺書を郵送した「私」に対し、「妻が生きている以上は、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」頼んでいます。
しかし「私」はこの遺書を公開しました。

1(2)想定される帰結

この事実から導かれる帰結は以下のどれかになります。

・① 「私」が先生の要望を無視して公開した

・② 既に「静(お嬢さん)」は死去しており、かつ「私」はそれを把握できる立場にあった。静の死去を受けて遺書を公開した

・③ 静は死去はしていないが、病気等により物事を判別する能力を失ったか、社会の出来事を知ることが不可能・困難な状況下にある。かつ「私」はそれを把握できる立場にあった。それで静が知り得ないのであれば遺言に反しないと考え、公開した。


こういったことが考えられます。
しかし私の現段階での想定は上記の3つではなく、以下のものです。

静は遺書に書かれているようなことは既に知っているかもしくは想定できていた。かつ「私」がそのことを知った。「私」は、既に静がすべて知っているのであれば秘密にしておく意味はないと考え、遺書を公開した


2、秘密とは?


2(1)知らせたくないこととは?

先生が遺書の公開に条件を付けた理由は「妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたい」ということです。

具体的な明記はないですが、先生が静に「知らせたくない」こととはおそらく以下の事でしょう。

・①Kも静のことが好きだった
・②先生はKの恋愛感情に対して批判的なことを言って牽制しつつ、自身は静の母に「お嬢さんを私に下さい」と求婚した

この二つです。

あれ? これだけ?
遺書の一番最後でわざわざ「妻には何も知らせたくない」とまで記した秘密が、たったこれだけ?

大昔に高校の授業で「こころ」を読んだ時は、「好きな女性を取り合った友人の自殺」という衝撃的な結末に驚き、冷静な読解ができていませんでした。
いま改めて「こころ」を読んでみると、もちろん物語には引き込まれるのですが、どうも「先生」の言葉は額面通りに受け取ってはいけないと感じます。
この「知らせたくない」もその一つです。

これって、そこまで必死に隠さないといけないほどのことでしょうか。


3、出来事の確認


3(1)物語記載の出来事

改めて、先生が遺書でわざわざ秘密にしたかった出来事の流れを確認してみます。以下の章番号はすべて「下 先生と遺書」のものです。

・Kが先生に静(お嬢さん)への恋心を打ち明ける(三十六)
・Kが先生に「どう思う」と聞く(四十)
・先生がかつてKから言われた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」を言い返す等して牽制(四十一)
・先生と静の母親とが「御嬢さんを私に下さい」→「よござんす、差し上げましょう」と話して婚約成立(四十五)
・静の母からKに、婚約成立について話をした(ことを二日後に先生が知る)(四十七)
・Kが自殺(四十八)
・先生が大学を卒業、静と結婚(五十一)

3(2)出来事を静の視点から

ここで、上記を含めた下宿時代の出来事を、視点を変えて静の側から再構築してみます。

・自宅で母親が下宿をやることになった。すると帝大(東大)の学生で両親の遺産で大金を持っている男(先生)が入ってきた
・しばらくしたらその人の友達(K)も入ることになった。この人は実家からも養家からも絶縁されてお金のない男だ。この人の下宿代は先生が出してくれてるんだって
・この下宿生二人とそれぞれ仲良くしていました。Kと二人で歩いているところを先生に見られたりしました
・母を通じて先生からプロポーズされた。母で了解して婚約成立。
・ん? 婚約のことはKは知らされていなかったらしい。母から伝えたら変な顔をしていたと
・自宅でKが自殺した、、、遺書には私のことはなにも書いていなかったみたい、、、

こういった流れです。

この展開であれば、普通に考えて
『ああ自殺の原因は自分の結婚だなと、出し抜かれたのがショックで、それでどこか外ではなく、わざわざこの家の中で自殺したんだな、、、』
いくらなんでもこれぐらいのことは、想像がつくのではないでしょうか。
Kが自殺したタイミングは婚約を知った直後、自殺をした場所は我が家。
この二点だけで、なにも推察は不要ではないでしょうか。

無論先生がどのような言動でKを牽制していたのかの詳細は、静には不明です。しかし母を通じて、先生が婚約についてKに伝えなかったことは静も当然知るでしょう。この事実だけでも、察することは十分可能です。

間違いなく、静は知っているのです。


4、では遺書の意味は?


4(1)ダイイングメッセージ

では遺書に戻りますが、私の推察のように静が全てを知っていたとして、先生がわざわざ遺書で秘密にするよう念押ししているのは、どういう意味でしょうか?

先生は静がまったくなにも知らない・なにも想像できていないと本気で思っていた? さすがにそれはないと思います。

これの詳細についてはまたどこかで語りたいと思いますが、現時点での私の回答はこれです。

先生が「私」に対して「この女(静)は、この遺書に書かれていない秘密を持っている」と伝えようとした。ダイイングメッセージ

4(2)先生の嫌味

「こころ」の中盤、先生が「私」の前で静への嫌味ともとれる発言をしています。
「私」が無事に大学を卒業した当日の夕食

 私はその晩先生の家へ御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
 食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊の硬い卓布テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返していた。先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。
カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層始めから色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ

(「先生と私」三十二)

「こころ」全体の調子や、漱石作品の傾向からして、これは単なるテーブルクロスの好みの話ではないでしょう。
はっきり言えば、女の好みでしょう、「先生」の。私はそう思います。

現代では憚られる表現であろうことを承知ですれば、上記の台詞はこう言い換えられるでしょうか。

「他の男を知ってる女と結婚するなら、いっそ離婚した人妻か未亡人、芸者や娼婦あがりのほうがいい。娘と結婚するならば生娘でなくちゃ」

4(3)嫌味を言う理由


上記のテーブルクロスの話を「静への嫌味」と解釈すると、似たような意味に聞こえる話が前半にあります。
「私」と先生とが二人で外を歩いている時の会話。

私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」
 私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然いう事ができない。けれども先生の態度の真面目あったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。

(「先生と私」十)

ここで私を含めた読者は、「私」が提示した疑問に引っ張られ、「幸福に生まれた人間の一対であるべきはず」の、「あるべきはず」に注目してしまいます。
しかしここで、先生は他にも気になることを言っているのです。自分と静とを対比させて。

・先生 - 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない

・静  - 「私(先生)を天下にただ一人しかない男と思って」いる

どう思いましたか。
たとえば老夫婦が「私は女を妻一人しか知らないんだ、妻のほうも男は私一人しか知らないと信じてるよ」と語ったら、いい話に聞こえます。

しかしここで先生は、「自分は妻しか女を知らない」旨を言いながら、「妻も同じです」とか、「妻も男は私一人しか知らないのです」とかは、言っていないのです。

微妙に表現を変えています。ななめ読みしてしまうと上記の老夫婦の例えのように見えてしまいますが、ちゃんと読めば、自分と同じだとは言っていないことがわかります。

つまり先生は、こう言っているのです。

妻は私以外にも男を知っています

と。

5、「こころ」の末尾


勝手な推測を重ねてきましたが、ここまで想像したことを踏まえて、もう一度、「こころ」の末尾を見てみます。
やはり違う意味に聞こえてくるのです。

妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

(「先生と遺書」五十六)

どうですか。「なるべく」純白に保存して「おいてやりたい」と。
この表現って、「実際は純白じゃないけどな」との言葉が、裏にみえてこないでしょうか。完全に純白なものに対しては「なるべく」とは言わないでしょう。
また「保存しておいてやりたい」も、真に純白なものに対する表現というよりも、なんだか人為的な操作を加えるように、見えてきました。

勝手な解釈を重ねてきました。
しかし、これで一応説明がつけられます。「私」が先生の遺書を公開した理由が。

「私」は、こう思ったのでは。
「先生、先生が遺書に(密かに)書いたことの意味がわかりましたよ。わかったから、公開しますね」


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