漱石「こころ」考察61 叔父は横領していない?(2)「中学の同級生」
夏目漱石の有名小説「こころ」、大正三年(1914年)連載。
前回の記事で、「先生が主張している叔父による横領は、事実無根ではないかと書こうとして、前フリだけで終わってしまった。
それの続きを。
1、「中学の同級生」
先生の、「中学の同級生」・「中学の旧友」が、怪しい。
非常に怪しい。
私は叔父が市の方に妾(めかけ)をもっているという噂を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。友達はその外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう叔父と談判を開きました。
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
叔父が妾(めかけ)を囲った、一度事業に失敗したかのようだったのに、最近急に盛り返してきた。
「先生」の書きようからは、これらは全て「中学の同級生」からの伝聞でしかない。
なにか証拠や他の人からも確認したような形跡が、一つもないように見える。それなのに先生は完全に信用してると。
さらに。「中学の旧友」が出て来る。
「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。(略)
私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。(略)それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないものでした。(略)私は思案の結果、市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形に変えようとしました。旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。(略)
私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐ろにして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。(略)
けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。
・「中学の同級生であったある友達」
・「市におる中学の旧友」
これが同一人物であるとまでは断定できないが、仮に別人だとしてもなんらかのつながりはありそうだ。
そして、先生は「叔父は私の財産を胡魔化した」と断言している。
しかしそれを裏付ける客観的証拠は、なぜかなに一つ書かれていない。
それでいて、先生自身の勝手な思い込みや、友人から聞かされただけで確認もしていないような噂を、叔父を疑う根拠かのように、先生はその遺書(手紙)に書き連ねている。
これらを少し疑えば、べたなストーリーが見えて来る。
・「中学の同級生」とやらが、「先生」の思い込みの激しいポエマーな性格を、十二分に熟知していたと(さらには先生が叔父からの縁談をあっさり拒否したことも耳にしたかもしれない)。
・それで先生に叔父が横領していると疑わせる情報をわざわざ吹き込み、先生を疑心暗鬼にさせ、ついに叔父が横領したと完全に思い込ませることに成功したと。
・その結果、先生と叔父とは対立、決別し、先生は父の莫大な遺産(公債の「利子」の、半分未満だけでかなり優雅な学生生活が送れたほどである)を処分し、現金化することになったと。
・「中学の旧友」はその莫大な遺産を管理・処分することにより、多額の管理費用、手数料・仲介料、転売費用を得て、大儲けをしたと。
この当時の先生は20代前半であろうから、「中学の旧友」も同年代であろう。なので旧友自身というよりは元々旧友の家なり親族なりが処分・転売業をしていたと思われる。そうでなくては田舎で田畑を保管し続け、売却するなどという手続はとれないであろう。
つまり「中学の旧友」が、その親なり親族なりと共謀して、先生の所有する莫大な遺産を処分する大儲けをたくらみ、見事に成功させた。そういうことではないか。
2、先生のポエマー・鈍感ぶりは証拠の提示?
私は何度か、先生の異常なポエマーぶり・逆に異常な鈍感ぶり、かつそれが大人になった以降も変わっていないことをうだうだ指摘してきた。
これらの描写は、「こころ」の作者:夏目漱石による「この『先生』とは、かなり特殊な思い込み - 逆に異常に鈍感な性格をもった、変わった人間なのですよ」との、隠れた説明ではないだろうか。
だから先生は異常な思い込みで、「叔父が横領した」と、客観的証拠はなに一つないのに思い込み、それを確定した事実だと思い込んでしまった。
同時に先生は逆に異常に鈍感で(従妹の縁談を断ったことを全く気に掛けていない)、それで明らかに怪しい「中学の同級生」を完全に信じ込み、莫大な財産の管理処分を任せきってしまったと。
私のこの推測は、他の漱石作品からも裏付けられると思う。
・「坊っちゃん」の主人公:坊っちゃんが思い込みのやたら激しい人間であると示されていること
・「こころ」の前作である「行人」の主要登場人物:長野一郎が、パオロだフランチェスカだ霊だ魂だスピリットだ、永久の勝利者だ永久の敗北者だ、死ぬか気がちがうか宗教に入るかしかない、とやたらとポエムに走っていること
これらの登場人物と同様に、「こころ」の先生もまた、事実と異なる思い込みにとらわれた人間である。そう書かれているのではないか。
その意味や、他作品との対比について、また今後考えたい。
