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障害のある教師の声を、教育政策の力に。

 共同通信配信の記事「夢の担任 脳性まひの教諭 新たな春」が、全国の新聞やWebメディアに掲載された。さらに、共同通信英文記事サイトにも掲載され、海外へ向けた発信もしている。ここまで大きく広がるとは、正直、想像していなかった。
 脳性まひのある教師として、私は25年間、学校現場に立ち続けてきた。その中で、ようやく学級担任を務めることができたことを、多くの方々が「夢の実現」として受け止めてくださった。もちろん、担任になれたことは嬉しい。しかし、私自身は、この出来事を「個人の感動的な話」で終わらせてはいけないとも感じている。なぜなら、その背景には、障害のある教師が学校現場で働き続ける上での課題や、これからの教育政策に関わるテーマが数多く含まれているからである。
 実際、文部科学省は令和7年6月、「障害のある教師等の教育関係職員の活躍推進に向けて」という通知を全国の教育委員会に出している。そこでは、障害のある教師が学校にいることについて、「障害のある人への理解が深まる」「障害のある子どもたちのロールモデルとなる」「共生社会について考える機会になる」といった教育的意義が示されている。
 文部科学省の「障害者活躍推進プラン」でも、障害のある教師の存在は、子どもたちにとって「隠れたカリキュラム」になり得ると指摘されている。私は、この考え方に強く共感している。子どもたちは、教師の言葉だけで学ぶわけではない。教師の姿、生き方、人との関わり方からも、多くを学んでいる。違いがある人と自然に関わること。困ったときに助け合うこと。できないことがあっても、別の形で力を発揮できること。
 そうしたことを、子どもたちは日常の中で感じ取っていく。私はこれまで、学校現場でさまざまな経験をしてきた。授業、学級経営、行事、保護者対応、生徒指導、進路指導、学年運営…。教師として必要とされる仕事は多岐にわたる。
 その一方で、「障害がある教師に、担任は難しいのではないか」「修学旅行の引率は難しいのではないか」という空気を感じることも少なくなかった。もちろん、学校現場には安全面への配慮も必要である。しかし、それ以上に、「前例がない」という理由で可能性が狭められてしまうことが、日本の教育現場にはまだ存在しているように感じている。
 実際、文部科学省の推進プランでも、かつて教員採用試験で「自力通勤可能」「介助者不要」といった条件が設けられていた実態が示されている。私は、決して特別な能力を持っているわけではない。できないことも多い。実際、同僚の先生方に助けてもらう場面はたくさんある。

 しかし、それは障害の有無に限ったことではないはずだ。学校という場所は、本来、多様な人が支え合いながら成り立つ組織である。
 私は、生徒に黒板へ円を書いてもらったことがある。荷物を運んでもらったこともある。逆に、私が生徒の悩みを聞き、一緒に考え、励まし続けたことも数え切れないほどある。

「支える側」と「支えられる側」は固定されたものではない。互いに関わり合いながら、支え合っていく。そのことを、私は教室の中で何度も学んできた。だからこそ、障害のある教師が学校現場に存在すること自体に、大きな教育的意味があるのではないかと思っている。

 近年、「インクルーシブ教育」という言葉が広がっている。しかし、インクルーシブ教育は、障害のある子どもが同じ教室で学ぶことだけを意味するのではないと思う。教師自身も、多様であってよい。障害のある教師、高齢の教師、外国にルーツを持つ教師、さまざまな経験を持つ教師…。多様な教師が存在する学校こそ、子どもたちにとって、多様な社会を学ぶ場になるのではないだろうか。

 その意味で、障害のある教師の働き方については、今後、教育政策の中でも、もっと議論されていく必要があるように感じている。
 文部科学省の調査によれば、令和6年度時点で、教育委員会全体の障害者実雇用率は2.41%であり、法定雇用率2.7%を下回っている。さらに注目すべきは、教育職員の実雇用率が1.28%であることだ。つまり、学校現場において、障害のある教師は、まだまだ少数なのである。また、公立学校教員採用選考試験において、令和6年度に採用された障害のある教員は全国で75人。中学校では、わずか9人である。

 こうした数字を見ると、障害のある教師のキャリア形成が、まだ十分に進んでいるとは言い難い。例えば、「担任は難しい」「校外学習、修学旅行の引率は難しい」と無意識のうちに線引きされてしまえば、障害のある教師は、経験を積む機会そのものを失ってしまう。これは、本人にとってだけでなく、学校現場にとっても大きな損失だと思う。

 私は24年間、学級担任を経験することができなかった。しかし、実際に担任を経験してみると、生徒や保護者との関係づくり、学年経営、学校全体を見る視点など、多くの学びがあった。「経験しなければ育たない力」が、確かに存在する。だからこそ、障害のある教師に対しても、「何ができないか」だけではなく、「どうすれば実現できるか」という視点が必要なのではないだろうか。それは、合理的配慮の問題でもある。

 合理的配慮とは、「特別扱い」ではない。その人が力を発揮できる環境を整えることだと、私は考えている。文部科学省の通知でも、「指導体制や職務内容の配慮」「相談支援体制の構築」「業務支援のための人員配置」「人事異動における通勤への配慮」など、継続して働ける持続可能な体制づくりの必要性が示されている。

 例えば、役割分担を工夫すること。ICTを活用すること。周囲が少し支援しやすい環境をつくること。そうした工夫によって、教師としての専門性を発揮できる場面は、もっと広がっていくはずである。

 私は2008年、国土交通省「子ども向けバリアフリー学習のガイドライン作成に向けた有識者検討会」の委員を務めた経験がある。当時も、「当事者の視点」が政策づくりに必要であることを強く感じた。制度を考える人と、現場で生きる人。その距離が近づくことで、社会は少しずつ変わっていく。教育政策についても、同じことが言えるのではないだろうか。学校現場には、制度だけでは見えてこない現実がある。そして、障害のある教師だからこそ見える景色もある。
 むしろ、障害のある教師が当たり前に教室にいる社会を目指したい。多様な教師が自然に働いている学校が当たり前になる社会を目指したい。そのためには制度も、意識も、現場の仕組みも変わっていく必要がある。
 障害のある教師を採用すること。継続して働ける環境を整えること。キャリア形成の機会を保障すること。管理職や教育委員会が合理的配慮を正しく理解すること。学校全体で支え合う文化をつくること。そして、当事者の声を政策に反映すること。
 それらは、決して一朝一夕に実現するものではない。しかし、前例がないなら、前例をつくればよい。私は、これまでもそう考えて歩んできた。「できない」と言われたことに対して、「どうすればできるか」を考えてきた。周囲の人に助けてもらいながら、一つ一つ道を開いてきた。その積み重ねの先に、今回の学級担任という経験があった。だからこそ、私はこの経験を、次の世代につなげたい。
 障害のある若者が教師を目指すとき、「自分にもできるかもしれない」と思える社会であってほしい。採用後も、「自分の力を発揮できる場所がある」と感じられる学校であってほしい。そして、子どもたちが、多様な教師と出会いながら、「人は違っていてもいい」「支え合って生きる」と実感できる教育であってほしい。

 この機会に、文部科学省における有識者会議、検討会、ヒアリング等の場で、障害のある教師としての現場経験を伝える機会があれば、微力ながら貢献したいと思っている。
 私は、決して「特別な教師」として語られたいわけではない。むしろ、障害のある教師が当たり前に教室にいる社会、多様な教師が自然に働いている学校が当たり前になる社会を目指したい。

「人は、関わりと環境で変わる」

 私は、そのことを、これからも教室で伝え続けたい。そして、教育政策の場にも、現場の声として届けていきたいと思っている。

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