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同じ輝きでなくていい。多様な光が、クラスをつくる。

 私は勤務の学年通信を、「きらきら星」と名付けました。この題名には、一人一人の生徒を、夜空に輝く星のように大切にしたいという思いを込めました。夜空を見上げると、たくさんの星があります。ひときわ明るく輝く星もあれば、目を凝らさなければ見付けられない星もあります。雲に隠れて、しばらく見えなくなる星もあります。それでも、星そのものが消えてしまったわけではありません。目には見えない時にも、星はそこにあり、自分なりの光を放ち続けています。生徒も同じと思います。
 人前で堂々と発表し、行事や部活動で目立つ活躍をする生徒がいます。一方で、大勢の前では自分を表現することが難しくても、少人数の中では自分の考えを伝えられる生徒がいます。すぐに答えを出せる生徒もいれば、時間をかけて考えることで、深い考えにたどり着く生徒もいます。周囲を明るく盛り上げる生徒もいれば、困っている友達に静かに寄り添い、そっと声を掛ける生徒もいます。輝き方は、一人一人違います。 
 目立つことだけが、輝くことではありません。毎日、学校に来ること。授業で分からない問題に向き合うこと。忘れ物をしないように前日に準備すること。友達の話を最後まで聞くこと。失敗した後に、もう一度挑戦すること。助けが必要な時に、「手伝ってください」と伝えること。そうした姿の中にも、その生徒にしかない大切な光があります。
 教師の仕事は、子どもたちを同じ形に整え、同じ明るさで輝かせることではありません。一人一人の中にある光を見付け、その光が消えないように支え、本人が自分のよさや可能性に気付けるような環境をつくることです。学年通信「きらきら星」は、学校から家庭へ予定や連絡を伝える文書であると同時に、生徒の一人一人の輝きを記録するものにしたいと考えていました。

 学校生活で起きる出来事の多くは、社会を揺るがすような大きなニュースではありません。家庭学習ノートを全員が提出したこと。以前より少し大きな声で発表できたこと。時間に遅れないように行動したこと。上級生を励ますためにダンスの練習を重ねたこと。海外の文化を知り、日本との違いに驚いたこと。その一つ一つは、外から見れば、ささやかな出来事に見えるかもしれません。しかし、毎日、生徒たちのそばにいる教師にとって、その小さな変化には大きな意味があります。昨日までできなかったことが、今日、少しできるようになる。自分のことだけを考えていた生徒が、仲間や先輩、家族のことを考えて行動するようになる。失敗したことを隠すのではなく、「次はこうしたい」と言葉にできるようになる。友達との違いを笑うのではなく、その違いを受け止めながら、一緒に活動する方法を考えるようになる。その積み重ねこそが成長であり、教育と思います。

 私が担当したクラスは、学校生活の一つの節目を迎える時期でした。教科担任制による授業が本格化し、定期テストが増え、部活動でも先輩や仲間と関わりながら活動するようになります。学校行事では、下級生から見られる立場にもなりました。それまでの学校生活から環境が大きく変わる中で、生徒は多くの「初めて」に出会いました。学習内容が難しくなり、生活のリズムも変わります。部活動では、技術だけでなく、先輩や仲間との関係を学びます。学校行事では、自分の役割を果たすことや、仲間と協力することが求められます。同じ学年であっても、変化への向き合い方は一人一人異なります。新しい環境にすぐに慣れる生徒もいれば、時間をかけて少しずつ慣れていく生徒もいます。学校は、そうした違いを消す場所ではありません。違いがあることを前提として、それぞれが安心して学び、学校生活に参加し、自分の力を伸ばしていける環境をつくる場所です。

 次期学習指導要領に向けた論点整理では、基本的な考え方として三つの方向性が示され、その一つに「多様性の包摂」があります。不登校児童生徒、特別な支援を必要とする児童生徒、日本語指導が必要な児童生徒、特定の分野に特異な才能のある児童生徒など、多様な子どもを教育課程の外側に分けるのではなく、教育課程の中に包摂していこうとする方向性です。最近、私は、この「多様性の包摂」の中に、「多様な教職員」も明確に位置付けていく必要があると考えています。多様な子どもが共に学ぶ学校をつくろうとするのであれば、その学校で働く教職員もまた、多様であることが自然です。障害のある教職員、子育てや介護と仕事を両立している教職員、異なる文化的背景やさまざまな経験をもつ教職員など、多様な大人が共に働く姿そのものが、子どもにとって重要な学びになります。

 私は、生まれつき脳性まひがあり、電動車いすを使いながら数学教師として働いています。移動や教材の準備、校内での活動など、周囲の教職員に協力を求める場面があります。身体的に難しいこともあります。一方で、道具や環境、役割分担を工夫することによって、できることも数多くあります。私が教室にいることで、生徒は、障害のある人を教科書や映像の中だけで学ぶのではなく、日常的に関わることになります。私が数学を教え、学年通信を書き、時には間違え、笑い、困った時には周囲に助けを求め、生徒と一緒に行事や学年活動に取り組む姿を見ています。そこには、特別な授業だけでは伝えきれない学びがあります。文部科学省の障害者活躍推進プランでは、対話的な学びの実現が求められる中、障害のある教師等との対話は、児童生徒にとって、共生社会に関する自分の考えを広げ、深める重要な教育資源となることが期待されています。さらに、学校現場に障害のある教師がいることは、いわゆる「隠れたカリキュラム」になり得ます。隠れたカリキュラムとは、授業で明示的に教える内容だけではなく、学校の環境や人間関係、日常のルール、教師の行動などを通して、子どもが無意識のうちに学んでいく事柄です。教師が授業の中で「多様性は大切です」「困っている人を助けましょう」と話していても、障害のある教職員が必要な配慮を受けられず、役割から外されているとしたら、子どもは何を学ぶでしょうか。表向きの言葉ではなく、学校の日常に表れている現実を受け取るのではないでしょうか。
 反対に、障害のある教職員が必要な配慮を受けながら、他の教職員と協力して授業や行事を担っている学校では、子どもは、人によって方法や役割が違ってもよいこと、助けを求めることは弱さではないこと、互いの得意なことを生かして協力できることを、日々の生活を通して学びます。

 多様性は、特別な授業の時間だけに教えるものではありません。毎日の学校生活の中で経験するものです。「きらきら星」という学年通信のタイトルにも、子どもだけではなく、学校で働く大人も含め、誰もがそれぞれの光を放つことのできる学校でありたいという願いが重なっていました。
 秋の終わり頃、定期テストの成績ファイルを生徒たちに渡しました。答案が返却されると、どうしても点数に意識が向きます。
「前回より上がった」
「思っていたより低かった」
「この問題は分かっていたのに、間違えてしまった」
 点数を見て喜ぶ生徒もいれば、落ち込む生徒もいます。もちろん、点数は学習の成果を示す一つの指標です。しかし、点数だけを見て一喜一憂して終わってしまえば、そのテストを次の学びに生かすことはできません。 大切なのは、どのような準備をしてテストに臨んだのか、どの問題ができ、どの問題ができなかったのか、なぜ間違えたのか、次のテストまでに何を変えるのかを考えることです。
 学年通信では、生徒の振り返りを紹介しました。
「前回の反省を生かせるように計画を立てたけど、計画通りには勉強できなかった。それでも、前回より苦手教科に力を入れることができた」
「ワークは期限までに提出できたけど、何度も解き直すことは十分にできなかった」
「前回より計画的に勉強することができ、テストでは空欄を少なくすることができた」
 これらの言葉には、結果だけではなく、自分の学習過程を見つめようとする姿が表れています。振り返りは、自分を責めるために行うものではありません。「できなかった。だから、自分は駄目」と結論付けるためのものでもありません。
「今回は、ここまではできた」
「ここは十分ではなかった」
「次は、この方法を試してみたい」
 そのように、自分の現在地を知り、次の一歩を考えるために行うものです。これは、多様性を包摂する教育にも通じます。同じ課題を、同じ時間に、同じ方法で行い、同じ結果を出すことだけを求めれば、そこからこぼれ落ちる生徒が生まれます。学習の目標を共有しながらも、目標に至る方法には違いがあってよいです。文章で考えをまとめる生徒がいてもよい。図や表で整理する生徒がいてもよい。友達との対話を通して考える生徒がいてもよい。タブレット端末を活用することで、考えを表現しやすくなる生徒もいます。すぐに答えを出すことは難しくても、時間をかければ自分の考えをまとめられる生徒もいます。教師の役割は、「もっと頑張りなさい」と繰り返すことだけではありません。何を、いつ、どのように学習すればよいのか。どこでつまずいているのか。どのような方法であれば、その生徒が学習に参加できるのか。それを一緒に考えることが大切です。
 冬には、家庭学習のリレーノートを始めました。A4判のノート一ページに家庭学習を行い、そのノートをクラスの中で順番につないでいく取組です。自分の番になると、先に取り組んだ友達の学習を見ることができます。数学の問題を丁寧に解いている生徒、英単語を見やすく整理している生徒、間違えた問題を赤で直している生徒、社会科の内容を図や矢印でまとめている生徒、授業で分からなかった部分を教科書や資料を使って調べている生徒がいました。家庭学習には、その生徒の考え方や工夫が表れます。
 リレーノートの目的は、字の美しさやページの華やかさを競うことではありません。友達の学習を見て、「この方法は自分にも使えそうだ」「こういうまとめ方もあるのか」と気付き、自分の家庭学習を見直すことにあります。学年通信には、実際の家庭学習ノートを写真で紹介しました。そこには、問題を解くだけではなく、自分で考え、整理し、間違いを修正しようとする姿が残っています。学習は、自分で取り組むものですが、一人だけで完結するものではありません。
 教室には、さまざまな学び方をする仲間がいます。得意な教科も、苦手な教科も異なります。集中しやすい時間帯や、覚えやすい方法も違います。だからこそ、友達の取組を見ることには意味があります。誰かの学び方を、まねる必要はありません。よいと思った部分を取り入れ、自分なりに調整すればよいのです。これは、誰かと競争して優劣を決めるための学びではなく、多様な学び方を認め、互いの方法から学び合う取組でした。自分とは異なる方法を否定するのではなく、「その方法もある」と受け止める経験です。
 家庭にリレーノートが回った際には、保護者の方からもサインやコメントをいただきました。忙しい中でノートを見ていただき、「頑張っているね」「丁寧に取り組んでいるね」と声を掛けてもらうことも、生徒にとって大きな励みになったと思います。 そしてある日、家庭学習ノートを全員が提出しました。朝の会で学習委員が「今日は全員提出しました」と報告すると、教室に拍手が起こりました。
 提出することは、当たり前と言えば当たり前かもしれません。しかし、クラス全員で一つの目標を達成し、その喜びを拍手で分かち合えたことに意味がありました。得意な生徒だけが達成したのではありません。それぞれに事情や課題を抱えながら、全員が同じ目標に参加し、達成できました。この日の拍手も、私が「きらきら星」に残したかった光の一つでした。
 大きな大会で優勝した時だけが、拍手に値するのではありません。日々の学習を継続し、全員で一つのことを達成した時にも、心から喜び合える学年でありたいと思いました。多様性の包摂とは、単に同じ教室に多様な子どもがいることではありません。全員がその場の一員として参加でき、達成感や喜びを共有できることです。ただ同じ場所に座っているだけでなく、自分の役割があること。自分の取組を見てもらえること。自分の成功を仲間が喜んでくれること。失敗した時にも、集団から排除されず、もう一度挑戦できること。そのような学級や学年をつくることが、包摂する教育の具体的な姿だと思います。
 同じ時期に、スクールカウンセラーの先生から、「ストレスと上手につきあうためには」というテーマで講話をしていただきました。思春期は、心も身体も大きく変化する時期です。学習内容が難しくなり、定期テストや成績への不安も生まれます。部活動では、試合やコンクールに向けた練習があります。友人関係に悩むこともあります。家庭では、保護者から少しずつ自立しようとする一方で、まだ支えてほしい気持ちもあります。表面上は元気に見えても、心の中に不安や悩みを抱えていることがあります。講話の中では、「人によって、ストレスの感じ方は異なる」「自分なりのストレス対処法を開発しよう」「ストレスは小さなうちになんとかしよう」という言葉が伝えられました。
 同じ出来事でも、受け止め方は人によって違います。ある人にとっては気にならないことが、別の人にとっては大きな負担になることがあります。その違いを、「考え過ぎだ」「弱いからだ」と決め付けてはいけません。生徒は、「自分に合うストレス解消法を見付けたい」「何でもネガティブに考えるのではなく、少しでも前向きに考えられるようになりたい」と振り返っていました。学校は生徒が頑張る場所であると同時に、安心して「疲れた」「困っている」「助けてほしい」と言える場所でなければならないと思います。助けを求めることを、依存や甘えとして捉えてしまえば、生徒は困っていても声を上げられなくなります。必要な助けを求めることは、自分の状態を理解し、自分を守るための力です。

 これは、私自身が障害のある教師として働く中でも大切にしてきたことです。私は、何でも一人でできるわけではありません。校内での移動、重い物を運ぶこと、机や機器の配置、校外活動への参加など、周囲の協力が必要な場面があります。その時に、何も言わずに我慢したり、最初から諦めたりするのではなく、「このような方法であればできます」「ここを手伝ってください」と伝える必要があります。
 私が助けを求め、同僚が応じ、役割を調整しながら一緒に仕事をする姿も、生徒が日常の中で目にする学びです。誰かに助けてもらう人と、助ける人が固定されるわけではありません。ある場面では私が助けを求めますが、別の場面では私が生徒や同僚を支える側になります。人は誰でも、支えられる存在であると同時に、誰かを支える存在でもあります。共生社会とは、一方的に「してあげる」関係によってつくられるものではありません。互いに必要な時に支え合い、それぞれの力を生かし合う関係によってつくられるものです。
 秋には、総合的な学習の成果を発表する機会がありました。各班が、これまで調べ、考え、まとめてきた学習成果を発表しました。学年通信の写真には、電子黒板に資料を映し、原稿を手にしながら説明する生徒の姿が残っています。全ての班が、自分たちなりの方法で学習成果を伝えました。発表を準備する過程では、意見が合わないこともあったでしょう。自分の考えをうまく言葉にできず、困ったこともあったと思います。それでも、班で一つの発表をつくり上げるためには、自分の意見を述べるだけでなく、相手の意見を聞き、折り合いを付けることが必要です。対話的な学びとは、話すことが得意な生徒だけが活躍する授業ではありません。話す前に考える時間が必要な生徒もいます。直接発言することは難しくても、文章やタブレット端末を使うことで考えを表現できる生徒もいます。聞き役として仲間の考えを整理したり、発表資料を作ったりすることで力を発揮する生徒もいます。
 対話は、声の大きさや発言回数だけで評価されるものではありません。異なる表現方法や参加方法を認めながら、それぞれの考えを持ち寄り、学びを深めていくことが大切です。そして、障害のある教師との日常的な対話も、対話的な学びの一つです。私がどのような場面で困るのか、どのような工夫をすれば参加できるのか、生徒から尋ねられることがあります。私は、できる限り自分の言葉で説明してきました。
 障害について、知識だけで理解しようとするのではなく、当事者との対話を通して考える。相手を勝手にかわいそうな存在と決め付けるのではなく、本人の考えや希望を聞く。何ができないかだけではなく、環境を変えることで何ができるようになるかを考える。そうした対話が、生徒たちの共生社会に関する考えを広げ、深めていくのだと思います。

 冬には、受験に向かう最上級生を励ます会が行われました。私の担当した学年は、全員でダンスに取り組みました。最初から動きがそろっていたわけではありません。振り付けを覚える速さも違います。人前で踊ることが得意な生徒もいれば、恥ずかしさや不安を感じる生徒もいます。代表の生徒を中心に練習を重ねる中で、少しずつ全員の動きがそろっていきました。
ダンスの中心を務めた生徒は、
「とても緊張しました。振り付けを間違えないで踊ることができて、とてもよかったです。僕たちのダンスを見て、最上級生が受験勉強を頑張ってくれたらいいな」
と話していました。誰かを励ますために、自分たちが練習する。誰かのために力を合わせる。その経験は、相手のためだけにあるのではありません。励ます側の生徒も、その過程で成長します。学校行事の教育的な価値は、行事の華やかさだけにあるのではありません。得意な生徒が苦手な生徒に教えたり、失敗しても責めずにもう一度練習したり、気持ちがそろわない時に声を掛け合ったりする過程にあります。
 「きらきら星」には、行事で目立った生徒だけではなく、練習を支えた生徒、仲間に声を掛けた生徒、緊張しながらも最後まで参加した生徒の姿も残したいと思っていました。写真に写る一瞬の後ろには、たくさんの努力や迷い、仲間との関わりがあります。その過程も含めて、子どもたちの輝きだからです。冬休みを前に、生徒は「生活面」「学習面」「家族の一員としての役割」という3つの視点から目標を立てました。家族の一員としての役割には、「雪かきをする」「風呂掃除をする」「皿洗いをする」などの目標が書かれていました。
 学年通信「きらきら星」は、教師から家庭へ一方的に情報を届けるものではなく、生徒、家庭、学校をつなぐものと考えていました。生徒が学校でどのように過ごしているのかを家庭に伝え、家庭での声掛けや対話につなげる。家庭から寄せられた思いや情報を受け止め、学校での支援に生かす。その往復の中で、生徒の成長を共に支える関係を築きたいと思いました。
 翌年度に予定されていた海外修学旅行に向けた準備も始まりました。複数の学年が合同で、現地の担当者とつながるオンラインセミナーを実施し、生徒は、現地の食事、交通、トイレ、生活スタイルなどについて学びました。
「車が日本とは反対側を通行する」
「公共交通機関で飲食すると罰金を取られることがある」
「道路にはバイクが多いので、横断する時には注意が必要である」
「同じ漢字でも、日本と読み方や意味が異なることがある」
 生徒は、日本との違いに驚きながら、熱心に話を聞いていました。海外修学旅行の学びは、現地に着いてから始まるのではありません。事前準備から始まっています。自分たちの常識が、他の場所では常識ではない場合があると理解すること。違いを面白がるだけでなく、その背景を考えること。現地のルールやマナーを尊重すること。その違いを、優劣ではなく多様性として受け止める。自分の当たり前をいったん横に置き、相手の立場から考えることは、海外の人と関わる時だけに必要な姿勢ではありません。同じ教室の中でも育った環境や考え方、得意なこと、苦手なことは一人一人異なります。
 多様性の包摂とは、違いのある人を、既にある多数派の仕組みに合わせることではありません。その人が参加しにくくなっている原因を、環境や制度の側から見直し、必要に応じて変えていくことです。年末には、生徒たちと教職員が、その一年を漢字一字で表しました。
「目」「瞬」「早」「初」「挑」「楽」「笑」「重」「努」「戦」「幸」「自」「嬉」。
 選ばれた漢字は、一人一人異なりました。定期テストの目標を達成したから「目」。一年が一瞬のように感じたから「瞬」。初めての経験が多かったから「初」。新しいことに取り組んだから「挑」。勉強や部活動で努力を積み重ねたから「重」や「努」。楽しいことが多くたくさん笑ったから「楽」や「笑」。
 同じ学校で、同じ学年として一年を過ごしても、心に残ったことは違います。それぞれの経験を振り返り、自分なりの一字を選ぶことで、生徒たちは自分の一年を言葉にしました。この違いこそが、クラスの豊かさだと思います。全員が「努力」や「成長」といった、教師が望むような漢字を選ぶ必要はありません。「楽しかった」と感じた生徒もいれば、「疲れた」と感じた生徒もいました。順調だった一年だけが、価値のある一年ではありません。病気や悩み、思うようにいかなかった経験も含めて、その生徒の一年です。 
 私は「希」という字を選びました。生徒と一緒に授業をしたこと、さまざまな活動に取り組んだこと、たわいもない会話を交わしたこと、教室で笑い合ったこと。学校生活は、特別な行事だけでつくられているのではありません。朝、教室で顔を合わせること。「おはようございます」と言葉を交わすこと。授業中に一緒に考えること。休み時間に何気ない話をすること。できなかった問題ができるようになって喜ぶこと。友達の成功に拍手すること。その日常の中に、たくさんの思い出があります。生徒の笑顔に、私は何度も元気をもらいました。生徒の存在そのものが、私にとっての希望でした。だから、私は「希望」の「希」を選びました。
 「希」という一字と、「きらきら星」という学年通信の題名は、私の中でつながっています。生徒は、私にとって希望の星でした。教師として、私が生徒を支え、励ましているつもりでも、実際には私の方が、生徒たちの笑顔や言葉、成長する姿から力をもらっていました。教師は、生徒を教え、支える立場にあります。しかし、教師だけが一方的に何かを与えているのではありません。教師と生徒は、立場や責任は異なりますが、同じ時間を過ごし、互いの存在から影響を受けながら、共に成長していく関係でもあるのだと思います。
 冬休みが明けると、生徒たちは新しい年の決意を漢字一字で表しました。「勝」「努」「挑」「両」「頼」「充」「発」「達」「健」「気」「一」「力」「笑」
 前年を振り返る漢字が、自分の歩いてきた道を表すものだとすれば、新年の漢字は、これから進みたい方向を表すものです。ただし、目標への向かい方も、一人一人違ってよいのです。毎日決まった時間に学習する方法が合う生徒もいれば、その日の予定に応じて学習時間を調整した方がよい生徒もいます。人前で発表することを目標にする生徒もいれば、まずはグループの中で考えを伝えることを目標にする生徒もいます。
 多様性を包摂する教育では、全員に同じ高さの階段を同じ速度で上らせるのではなく、その生徒が今いる場所から、次の一段に進めるように支えることが必要です。
 1年を振り返った学年通信に、
「足を引っ張るのではなく、手を取り合って活動する姿」
を、この学年のよさとして記しました。集団の中には、いろいろな人がいます。行動が速い人もいれば、慎重に考えてから動く人もいます。人前で話すことが得意な人もいれば、少人数の中で力を発揮する人もいます。計画を立てることが得意な人、周囲に声を掛けることが得意な人、黙々と作業することが得意な人がいます。全員が同じである必要はありません。むしろ、違いがあるからこそ、集団には多様な力が生まれます。大切なのは、誰かができない時に責めることではありません。その人が参加するために、どのような方法があるかを一緒に考えることです。早くできる人が、遅い人を置いていくのではなく、声を掛ける。困っている人がいたら、勝手に決めて手伝うのではなく、何が必要かを尋ねる。失敗した人を笑うのではなく、次にどうすればよいかを一緒に考える。それが、「手を取り合う」ということだと思います。学年通信「きらきら星」に込めたのは、一人一人が単独で輝くことだけではありませんでした。
 星と星を線で結ぶと、星座になります。一つ一つの星は離れていても、結ばれることによって、新しい形や物語が生まれます。一人一人が自分の光を放ちながら、仲間とつながり、支え合うことで、一人ではつくることのできない学年の姿が生まれます。誰かの光が強い時には、その光に励まされることがあります。自分の光が弱くなっている時には、仲間の言葉や支えによって、もう一度前を向くことができます。逆に、仲間が困っている時には、自分の得意なことや経験を生かして支えることができます。
 「きらきら星」という名前には、一人一人の個性や可能性を大切にするとともに、その光がつながり、互いを照らし合う学年になってほしいという願いを込めていました。

「できないことがあっても、役割をもつことができる」
「方法が一つでなくてもよい」
「助けを求めてもよい」
「人は互いに支え合いながら働いている」
「環境を変えることで、参加できる人が増える」
 そうしたことを、生徒は教師の日常から学びます。学年通信「きらきら星」は、生徒の成長の記録であると同時に、私自身の教育実践の記録でもありました。教師は毎日、生徒と向き合っています。しかし、忙しさの中で、目の前の課題や問題にばかり意識が向き、生徒の小さな成長を見落としてしまうことがあります。
 学年通信を書くために一週間を振り返ると、
「今週は、この生徒が自分から発表した」
「以前より、仲間への声の掛け方が変わった」
「クラス全体で喜びを分かち合う場面があった」
 と気付くことができます。記録することは、見ることです。生徒の姿を見て、その意味を考え、言葉にする。その営みを通して、教師自身も教育の価値を再確認します。
 学年通信に生徒の言葉を掲載する時には、その生徒のよさを家庭や仲間に伝えたいという思いがありました。学校では当たり前のように過ぎていく一週間の中にも、確かな成長があります。それを言葉にして届けることで、生徒自身にも、自分の変化やよさに気付いてほしいと思いました。
 誰かに見てもらい、認めてもらうことで、自分では気付かなかった光に気付くことがあります。
「先生は、自分のことを見ていたんだ」
「自分の言葉を大切にしてくれたんだ」
 そう感じられることは、自己存在感につながります。「きらきら星」には、「あなたは、この学年にとって大切な一人です」というメッセージを込めていました。成長は、いつも右肩上がりではなく、できるようになったと思ったことが、またできなくなる日もあります。頑張ろうと決めても、気持ちが続かないことがあります。友達とぶつかることも、失敗することもあります。それでも、立ち止まり、振り返り、必要な助けを求め、もう一度歩き始めることができます。一日一日の小さな成長の積み重ねが、やがて大きな成長につながります。
 教育の成果は、すぐに数字で表れるものばかりではありません。今、教師が掛けた言葉が、何年も後になって、その生徒の心に届くことがあります。学校行事で経験した協力の意味を、大人になってから理解することもあります。友達に助けてもらった経験が、将来、誰かを支える行動につながることもあります。障害のある教師と共に過ごした経験も、すぐに言葉として表れるとは限りません。
 学年通信「きらきら星」に残されているのは、完成した生徒たちの姿ではありません。悩みながら、失敗しながら、仲間に支えられながら、少しずつ成長していく途中の姿です。それでも、一人一人の中には必ず光があります。教師が先に諦めてはいけません。

 次期学習指導要領に向けて掲げられる「多様性の包摂」が、子どもたちだけを対象とする言葉にとどまらず、学校で働く全ての人を包摂する考え方へと広がってほしいと願っています。多様な子どもたちと、多様な教職員が、同じ学校で学び、働き、対話する。困った時には助けを求め、互いの得意なことを生かし、方法を工夫しながら、一緒に学校をつくっていく。

 「きらきら星」という学年通信の題名には、生徒一人一人が、自分の光を信じてほしいという願いを込めました。同時に、仲間の光にも気付き、互いを照らし合う学年になってほしいという願いを込めました。教師としての私も、その星空の外側にいるのではありません。私もまた、生徒や同僚に支えられながら光を放つ、一つの星です。
 歩いて教室に向かう教師もいれば、電動車いすで教室に向かう教師もいます。素早く身体を動かして役割を果たす教師もいれば、計画を立て、記録し、言葉を通して集団を支える教師もいます。誰もが同じ方法で働く必要はありません。それぞれの光が認められ、互いにつながることで、学校という星空は豊かになります。
 あの1年、「きらきら星」と共に歩いた日々。そこにあったのは、特別な誰かだけの物語ではありません。一人一人の違いが認められ、小さな挑戦がつながり、仲間と支え合いながら、一つの学年をつくっていく物語でした。  
 誰かの光を奪うのではなく、互いの光を認め合う。誰か一人を明るく輝かせるために、ほかの誰かを暗闇に置くのではなく、全ての人が自分なりの光を放つことのできる環境をつくる。それが、私が「きらきら星」に込めた思いです。今日の小さな一歩が、明日の大きな可能性につながることを信じて。多様な子どもたちと多様な教師が、それぞれの光を放ち、互いを照らし合いながら共に歩む学校を目指して。

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