移民問題を語る前に、僕らは「国民」の定義すら曖昧にしたままだった
電車に乗ると、外国語が聞こえてくる機会が増えた。コンビニの店員さんが日本語で接客してくれているけど、名札にはカタカナで書かれた名前がある。近所の公園でたまに見かける家族連れが、どこの国の人なのかよくわからない。
別に、それ自体が嫌なわけじゃない。
ただ、「いつからこうなったんだっけ」という感覚が拭えないのです。
日本は移民を受け入れない国、だったはずじゃなかったっけ。
少なくとも、そういう「物語」の中で育ってきた気がする。鎖国の歴史とか、単一民族とか、そういうワードが教科書に出てきて、日本は欧米と違って移民問題とは距離のある国だ、みたいな空気感があった。
でも現実はどうかというと、2023年末時点で在留外国人の数は340万人を超えている。総人口の約2.7%。「移民国家」と呼ばれるドイツやフランスと比べると少ないかもしれないけど、ゼロに近い数字でもない。しかも技能実習制度という、ほぼ「移民」と言って差し支えない制度が長年続いてきた。
なのに、日本は「移民政策を採っていない」と政府は言い続けてきた。
これ、かなり奇妙な構造だと思う。
そういえば、SNSで移民の話題になると、すごい速さで分断が起きる。
「治安が悪化する」「文化が壊れる」という側と、「差別だ」「多様性を認めろ」という側が、互いを罵倒し合って終わる。見ていると疲れるし、どちらの側にも乗れない。
なぜかというと、両方とも「なぜそうなっているのか」を飛ばして結論だけ言い合っている気がするから。
治安の話をするなら、どの地域で、どういう種類の犯罪が、どの程度増えているのか。それを示さないまま「移民が来ると怖い」と言うのは、感情の表明であって分析じゃない。でも一方で、「差別だ」と言って統計を無視するのも誠実じゃない。
どちらも、自分が信じたいストーリーを補強する材料だけを選んでいる。
「郷に入っては郷に従え」という言葉がある。
日本の移民議論でよく出てくるこのフレーズ、よく考えると結構難しいことを言っている。「郷」が何を指すのかが、今の日本では曖昧になっているから。
たとえば宗教の話。イスラム教徒の人が豚肉を食べないのは宗教的な理由で、それを「郷に従え」で上書きするのは、信仰の話になる。これを「わがまま」と言うのは簡単だけど、じゃあ日本人がアメリカで「土足で家に上がらないでくれ」と言ったら、それも「わがまま」なのか。
文化と慣習と宗教と法律が、全部「郷」という言葉に押し込められている。
なのにその「郷」の内容を、誰も明文化しないまま使っている。
他国の例を見ると、うまくいっていないケースのほうが目立つ。
フランスは長年「同化政策」を採ってきたけど、郊外の移民コミュニティと社会の分断は深刻だし、ドイツは2015年に大量の難民を受け入れた後に政治が揺れた。スウェーデンも同様で、「多文化共生」の理念と現実の間にある溝が、今は保守政党の台頭という形で出てきている。
これを見て「だから移民はダメだ」と言いたいわけじゃない。
ただ、「うまくいった事例」を探すのが思ったより難しい、というのは事実として認識しておきたい。それはなぜか。統合にかかるコストの見積もりが甘かったのか、経済的な便益だけを優先して文化的な摩擦を軽視したのか、それとも人間という生き物がそもそも「他者との共存」をそんなに得意じゃないのか。
たぶん全部、少しずつ。
世間で言われていること:移民を受け入れれば人手不足が解決する。
実際に観察して感じる現実:人手不足は解決しないまま、対立だけが増えていく。
これ、矛盾じゃなくて「そういうもの」なのかもしれない。経済的な合理性と社会的な摩擦は、同時に起きる。企業にとって都合が良くても、生活者にとってストレスになることはある。そのストレスが長期間放置されると、政治的な反発になる。
日本もそのフェーズに入り始めているのかもしれない。
なんか、この問題を考えると毎回「誰が決めたのか」という疑問に戻ってくる。
移民を増やす方向性を、国民が明示的に選んだ記憶がない。気づいたら制度が積み上がっていて、気づいたら街が変わっていて、気づいたらSNSで対立していた。
国民が議論する前に、現実が先行した。
それ自体を批判したいわけでもないけど、「気づいたらそうなっていた」という構造は、移民問題に限らず日本社会の色んな場所にある気がして、なんか落ち着かない。
自分たちの社会がどういう方向に向かうのかを、自分たちで選んでいる感覚があるかどうか。
それが、治安とか文化とか宗教よりも、もしかしたら根っこにある問いなのかもしれない。
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