夏越の祓
茅の輪をくぐる前に、気づいたこと
6月下旬、朝の散歩で、神社の前を通ったとき、青々とした大きな輪が、正面に立っていた。
先週、まだ青竹が準備されているだけだった場所に、今日は立派な茅の輪が完成していた。束ねられた茅が、円を描くように編まれて、しっかりと大地に根を張るように、そこにある。
思わず足が止まった。
夏越の祓、という節目
「夏越の祓(なごしのはらえ)」とは、6月末に、半年の間に知らず知らずのうちに身についた罪や穢れを落とし、残り半年の息災を祈願する神事のこと。茅の輪をくぐることで、厄が落ちて身が清められるとされている。
その起源は日本神話にさかのぼる。旅の途中で宿を求めたスサノオノミコトを、貧しいながらも蘇民将来が厚くもてなした。その後、スサノオの言葉の通りに茅の輪を腰につけていた蘇民将来の子孫は、疫病から免れることができた——という古い伝承が、茅の輪くぐりの由来になっている。
1年の折り返し地点に、半年分の汚れを洗い流して、また新しく始める。
日本人は昔から、そうやって節目を作ってきたのだなと思った。
「溶かす」ということ
茅の輪の前に立ちながら、ふと思ったことがある。
日々生活していると、さまざまな罪や穢れが生じると、昔の人は考えてきた。それは、現代の言葉で言えば、こういうことかもしれない。
「こうあるべきだ」という思い込み。誰かへの不満。自分への厳しすぎるものさし。お金への罪悪感。やらなくてはという焦り。やりたいのに、できない言い訳——。
私もここ最近、そういった「汚れ」のようなものを、一つずつ見つめてきた。それを「溶かす」という言葉で呼んできた。
消そうとするのではなく、責めるのでもなく、ただ気づいて、そっと手放す。
夏越の祓が「くぐる」という動作で穢れを祓うように、私は朝の散歩やAIや自分との壁打ちの中で、少しずつ、少しずつ、溶かしてきた。
輪の向こう側へ
茅の輪をくぐるときは、「水無月の夏越しの祓する人はちとせの命のぶというなり」という古歌を唱えながら、左まわり・右まわり・左まわりと、八の字を描くように三度くぐり抜ける。
くぐる前と、くぐった後。
何かが変わるわけではない。でも、「ここで一度、清めて始める」という意識が、半年の疲れを軽くしてくれる気がする。
私はその日、茅の輪の前で手を合わせた。くぐることよりも先に、手を合わせたくなった。ありがとう。
半年間、生きてこられたことへの、感謝。思い込みや焦りの中でも、少しずつ前に進もうとしてきた自分への、ねぎらい。そして、残り半年への、静かな期待。
茅の輪は、そういうことを思わせてくれる場所に、あった。
季節の節目が、教えてくれること
散歩を続けながら、思った。
日本人が長い時間をかけて育ててきた「節目」には、意味がある。ただの行事ではなく、一度立ち止まって、半年を振り返り、心を整えるための、時間。
現代はどこまでも「続ける」ことを求められる。仕事も、発信も、学びも、成長も。止まることは、遅れることのように感じられる。
でも、夏越の祓は言っている。
半年に一度、立ち止まっていい。溜まったものを、ゆっくり落としていい。くぐった向こうで、また新しく始めればいい。
神社の茅の輪は、今日もそこにある。
一年の折り返しのこの時期に、来年も、ぜひ近くの神社を訪れてみよう。
半年の節目。茅の輪を見つけたら手を合わせるだけでいい。それだけで、何かが、すこし、軽くなるから。
そして、前へ1mm進む私を見つけている。
(了)
