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明治天皇すり替え説・替え玉説は大嘘【田布施システムw】

皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、

という説を聞いたことあるだろうか?

それらは根も葉もない虚説である。

以下の根拠を上げる。

まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。

明治天皇として広まっている

この写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。

       伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)

「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)

親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。

伏見宮邦家親王は孝明­天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっており。明治天皇の皇女は、次々­と伏見宮系の王子の妃となられている。

皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に

皇位を移す準備をして­­いた­­­のは明らかであり、

中山忠能や摂政の二条斉敬など、

孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを

支持した人物はいないばかりか、孝明天­皇の

信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。

かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても
皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。

顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。

このような状況下で明治天皇をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。


不当な皇位簒奪によって、正当な皇位継承資格を侵害された他の皇族による異議申し立てが存在しない。よって、明治天皇は正当な皇位継承を行った事は間違いない。

尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、

そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより

他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。

明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸藩出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。

それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり

孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。

北白川宮能久親王

何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。

そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい
幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く

井上毅が関わった旧皇室典範により、世襲親王家を解消し、伏見宮系宮家を含む皇族を永世皇族の枠組みで統一し、皇統の安定を図った。それをすり替わったとする天皇が承認するわけが無い。

当時の明治天皇は成長期である。

成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。

身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。

ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。


それに明治天皇は京都弁を話され、御所言葉も話されており、宮中言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。

普段の明治天皇は「京都弁」を話していたhttps://president.jp/articles/-/28368?page=1
https://president.jp/articles/-/28368?page=2
https://president.jp/articles/-/28368?page=3

御所言葉は宮中内の隠語となっており、他人が成り済ますことなど不可能である。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24117386

フルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うが

フルベッキ写真が明治維新の

立役者が全員そろった写真であるという奇説は、

それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。

さらに、東京歯科大学­法人­類学教室の橋本正次

教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント

別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。

「維新」の根拠となる、天照大神の神裔である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。


明治44年に政府は南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、

光厳天皇から後円融天皇までの5代5人を北朝として正統から外したが、

明治天皇は北朝の五帝の祭祀については

従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等に
おいては天皇として扱われている。

政府は南北朝時代に限って
南朝の正当性を認めたものであり、
そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に

三種の神器を渡し、南北朝が合体した

明徳の和約までを否定するものではない、
後南朝の皇子が絶たれ、三種の神器が取り返され、明徳の和約の両統迭立は履行され得ない。

したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。

南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、

熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。

田中光顕

第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。

三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。

徹底的に日本歴史の誤謬を糺す

安重根は伊藤博文暗殺の犯行動機として伊藤による明治天皇の父である孝明天皇暗殺説について触れている。確かに孝明天皇については毒殺説が流れていたが、当時の伊藤は宮中に入れるほどの身分ではなかった。安の供述からは当時の没情報化社会にあって彼自身が噂に支配されていたことが読み取れる。

安重根と伊藤博文

以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。


虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。

しかるに、「国家安康」、「君臣豊楽」の故事を引くまでもなく、

政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。

かの太閣殿下の堅牢な大坂城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。

このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、

ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。


仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。

宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年~1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。


『中山忠能日記』の真実
奇兵隊の天皇なんて存在しない
明治天皇すり替え説の根拠とされる『中山忠能日記』には
これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記されている。


『中山忠能日記』

http://bit.ly/2npbKwf

『中山忠能日記』
慶応三年 七月十九日
謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之例可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事

※これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇(父帝)と記されている。
「父帝之諒闇之条(孝明天皇の喪に服す期間の件)」

前段の留め書き・箇条書きを繋げて奇兵隊天皇などとは文脈から読めない。
前後の事柄に因果関係はなく、差し迫った出来事を箇条書きしただけと思われる

妄想狂によれば、一世一元の詔が「明治天皇すり替え説」の根拠になるらしい

結論ありき、つまり「明治天皇がすり替えられた」という前提で史料を引っ張ってくるから、こういう捏造をするしかないのだ。

『一世一元の詔』「朕、否徳と雖も幸い祖宗の霊に頼り」
【明治天皇の登位の根拠は
「朕(明治天皇)の先祖である歴代天皇とその霊」】

明治天皇 伏見桃山陵

明治天皇 伏見桃山陵

明治天皇の御陵は天智天皇陵をモデルに
上円下方墳という古墳を模して造られました。

明治天皇の「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」という生前の意志により京都に明治天皇の御陵が造られました。明治天皇は生まれ育った京都を懐かしんでおられ。急速な近代化と西欧化の中であるべき天皇像を模索され、その中で和歌という形で歴代天皇の大御心をしっかりと引き継がれておられた。


孝明天皇御陵『文久山陵図』

新人物往来社『文久山陵図』

国学の隆盛、尊皇思想の高まりで皇室儀式から仏教式、道教式が廃され、孝明天皇の御陵から古代の古墳を模して造られ、神式で行われるようになりました。

一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが


『神皇正統記』巻一

「我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の­中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」http://bit.ly/2l55gnW

神皇正統記

神皇正統記には、「傍系継承であっても正系にかえる道があって皇統は保たれてきた」とあり、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。


現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが

北朝側の立場から描かれている史料には

『梅松論』
「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」

『梅松論』
http://bit.ly/2l5kUQ7

“最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。”

一方、『太平記』には

『太平記』

「舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。」

...「古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。」http://bit.ly/2lUOPMj

『梅松論』『太平記』

敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然であり、何ら不思議はない。

楠木正成像

後南朝の真実

http://bit.ly/2kTru9Z

田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。


『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記  後南朝の皇統(川上村伝承)

『昭和史の謎を追う』

後南朝は滅亡しています。

『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」
「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」

http://bit.ly/2l5cCHN

『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」

後南朝の皇子が殺され、最終的には三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。

他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等々以外にはないと思われるが。

それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。

フルベッキ写真は佐賀藩の藩校「致遠館」の学生がフルベッキとともに撮った写真であり西郷隆盛らは写っていない。

「フルベッキ写真」

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒

http://bit.ly/1KKIR3n

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。」

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。


※この写真も明治天皇を写したものではありません

ライムント・フォン・スティルフリート Raimund von Stillfried “Portrait of a nobleman”, Japan 1877

この写真はライムント・フォン・スティルフリート Raimund von Stillfried の “Portrait of a nobleman”, Japan 1877
「貴族の肖像」1877年であり、セットの前で撮られたと推定される扮装写真でこの写真の人物は明治天皇ではありません。


加治将一「西郷の貌」の問題点

http://bit.ly/2jPqjaZ

元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」

テリー・ベネット「Early Japanese Images」

元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」

この写真に西郷隆盛・従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。

元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

「オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」

「島津久治公一行」の写真に写っている「床次正義」の家紋は西郷家の「菊」ではない。

実際に西郷に出会った絵師による西郷隆盛の肖像

実際に西郷に出会った絵師による西郷隆盛の肖像

服部英龍/画(上段左)

肥後直熊/画(上段右)

床次正精/画(下段左)

石川静正/画(下段中央)

平野五岳/画(下段右)

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。

親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。

伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。

キヨッソーネの西郷隆盛の肖像

西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。

キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。

上野の西郷象の公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。

上野の西郷像

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、

亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」

wikipedia.org/wiki/西郷隆盛像

つまり、上野の西郷象の風体、 正装ではなく浴衣で着流しという だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意なのだ。

キヨッソーネの西郷の顔を参考に地元 鹿児島市出身の安藤照が8年をかけ製作した鹿児島の西郷隆盛銅像

鹿児島の西郷像(左)石澤宏太郎(右)
元山形県議会議員の石澤宏太郎氏

鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって鹿児島の西郷像の顔の直接的なモデルはキヨッソーネの西郷の肖像画である。


ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 

※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。

※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。」http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe


西南戦争時、熊本鎮台の指揮官及び幕僚

前列左より福原豊功少佐、中村寺利司契、谷干城少将、樺山資紀中佐、別役成義少佐。後列:小川又次大尉、副島仲謙軍医正、児玉源太郎少佐、林隼之助少佐、塩屋方圀大尉

左 集合写真の児玉源太郎 右 児玉源太郎の肖像写真

昔の写真なので、仮にこのドイツで発見された写真が本当だったとしても、本当の顔が写っているとは言えません。例えば、これは西南戦争の時の写真ですが、この写真の後列の左から三番目が児玉源太郎ですが、影と光で元の顔とは全然違って見え、一見したところでは本人とは別人に見えます。基本的に昔の写真の技術で一人をフォーカスした写真と違って、集合写真を撮って本人の顔を識別する事は写真によってはなかなか難しいと思われます。


この写真は「ライムント・フォン・スティルフリートが、造船ドックの岸壁にいる天皇一行を、近くの船の帆に隠れ撮影したもの」

この写真は「ライムント・フォン・スティルフリートが、造船ドックの岸壁にいる天皇一行を、近くの船の帆に隠れ撮影したもの」

(100)明治天皇盗撮された<幻の写真>
- 神奈川 - 地域 朝日新聞、2018年2月24日。
http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20180226150280001.html
「明治天皇紀」は、1872(明治5)年元日に明治天皇が横須賀造船所の開所式に行幸したと伝え、その際に「諸臣等と記念の撮影を為(な)し」たが、それは「蓋(けだ)し聖体を撮影せしめたまへる始なるべし」と記している。

 史上初めて天皇が撮影されたとの記録だが、その写真が一般の目に触れたことはなかった。」

「外交問題に発展し、横浜で発行された英字新聞などが報じていたからだ。スティルフリートは売り出すとして新聞に広告も載せていた。日本側は驚いたが、治外法権のため直接、手は出せなかった。最終的にはオーストリア側がネガとプリントを没収。一般に流通することはなかった。」

「日本はネガや写真の買い取りを考えたが、盗撮の横行を助長することになるとの批判で取りやめていた。」
 
「盗撮を契機に〈君主像〉はどうあるべきかという近代的課題に日本は直面し、軍服姿の〈ご真影〉が誕生することになったともガートランさんは指摘する。」

TOPMUSEUM 東京都写真美術館 ※1872年(明治5年)

写真と絵で見る明治天皇(1852 - 1912)の生涯


ガーター勲章( Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。

ガーター勲章をコノート公爵アーサーより伝達される明治天皇(1906年)

日英同盟の関係から1906年(明治39年)に明治天皇が東アジアの国の元首として初めて贈られた。

明治天皇以後の歴代天皇も授与されている。大正天皇は1912年、昭和天皇が1929年にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、1971年10月の訪英時に復帰した。明仁上皇も天皇在位中の1998年、イギリス訪問時に叙勲された。なお、天皇もエドワード7世以降の歴代イギリス君主に対して、日本の最高勲章である大勲位菊花章頸飾を授与している。ー

騎士団の正装をした日本の大正天皇(1912年頃撮影)

天皇の国籍が英国という事実はない。名誉称号の授与は国籍を意味しない。明治以降の日英同盟など、外交や文化的つながりなどから。大正天皇が1918年に、昭和天皇が1928年に英国王ジョージ5世から名誉的な「陸軍元帥(Field Marshal)」の称号を授与されたが、それは日英の友好関係を象徴する外交的儀礼によるものであり。この称号は実質的な軍事指揮権や英国籍を伴うものではない。あくまで両国間の絆を強調する名誉職である。ベルギー王やスペイン王等々、他の欧州の国王も「Field Marshal」称号を受けたが、その事でベルギー王やスペイン王の戸籍や国籍が変わった事実はない。

これは、外交儀礼の一環であり、同様に英国王室メンバーが日本の名誉勲章を受ける場合も、日本の戸籍や国籍を取得を意味するわけではない。日本では、天皇や皇族に戸籍法の適用外とされ、代わりに皇統譜という特別な記録で系譜や身分が管理されている。
ちなみに他国の君主12人が英国の儀礼的な陸軍元帥(Field Marshal)を授けられたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ1世、昭和天皇は両世界大戦でイギリスと同盟国の敵国となったことで、元帥位を剥奪されている。

自称「大室天皇」の誕生
「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」
山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」

http://bit.ly/2kTdpcF

熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき

「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 

大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。

大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904~1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。

「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」

 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。
 その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」


大室近祐
リチャード・コシミズ
鬼塚英昭

苫米地英人と対談するなどの活動もしていた
竹細工職人の
鬼塚英昭

陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。

朴­甲東

成甲書房

http://ja.wikipedia.org/wiki/成甲書房
朴甲東によって1979年日本で設立。朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。

戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。

1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった


鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。

そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。

太田竜

太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。

鹿島昇

「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の
大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で
大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が
睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、
大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました
大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされませんでした。
しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。」

桓檀古記

20世紀に作られた
朝鮮半島偽書

韓国の超民族主義者の聖典である桓檀古記―国粋的歴史観を持つ韓国人を卑下してファンパというが、この書から生まれた言葉である。 ファンパという言葉は、韓国の在野史学で韓民族(朝鮮民族)の過去の歴史を語るときに根拠とする『桓檀古記(환단고기、ファンダンゴギ)』に由来する。つまり桓檀古記の内容を非常に信頼して、韓民族の初代国家である古朝鮮の領域は黄河以北の大陸全般をカバーしていたと信じている。

鹿島昇は新国民社を設立後。

1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。

他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。

1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。

その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。

松重楊江

もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。
松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、こ­とに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民­族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一­助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」
http://bit.ly/2ltuGw6
『 韓国と日本の歴史 』について
http://bit.ly/2lgWem2
このような認識の共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。

幸徳秋水

幸徳秋水(1871年 - 1911年)は
日本のジャーナリスト、思想家、共産主義者、社会主義者、無政府主義者(アナキスト)
明治天皇の暗殺計画を準備したとされ、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。


明治天皇すり替え説が広まった流れとして、大逆事件、幸徳秋水「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」→南北朝正閏問題→南朝正統論→第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔父(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。


血統妄想 [ Descent delusion ]

血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。
血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。


血統妄想の場合は、自分をより偉く、より強く見せるという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースに至ることが多いようです。

ただの思い込みのレベルではなく、実際にそうである者として行動、言動を行うという点に問題があります。

周りの人から見れば、やはりそれは「危険な人」という認識をせざるを得ないでしょう。

血統妄想は、天皇陛下の隠し子であるとか、織田信長の生まれ変わりとか、そのような思い込みが多いようです。

つまり、現状の自分で満たされない部分を、血統という安易なステータスの向上によって補うというものです。

http://bit.ly/2kTv9nZ


見沢知廉
『天皇ごっこ』

一かつて新右翼の活動家・見沢知廉は小説
「天皇ごっこ」で、精神病院に入院している
患者たちがこぞって「我こそは天皇」と言い募るさまを描いた。
医学的には、こうした症状を「血統妄想」という。

出典

精神病と日本人の“無意識” 『天皇の近親者である」という“妄想”はなぜ生まれるか?

| サイゾー premium

『精神医学の世界では、自身が高貴な者、もしくは
高貴な者と関係があると妄想する『血統妄想」という症例がある。

日本では、この血統妄想の対象として、天皇や皇族が
しばしば選択される。
「私は天皇の隠し子である」「皇族の血筋を継いでいる」といった類いの妄想である
「天皇ごっこ」では、精神病院で、天皇を題材とした演劇を企画して治療を試みる様子や、自身を天皇と称し、世界の建て替えて建て直しを主張する患者の様子などが描かれている。」

葦原金次郎

葦原金次郎(1852-1937)

誇大妄想症を発病した明治後半から昭和にかけての自称天皇
明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。

高岡藩士の三男として加賀国金沢に生まれ、埼玉
県深谷で櫛職人として働いていたが、
24歳頃に誇大妄想症を発病した。

1882年に明治天皇への直訴未遂事件を起こし、
狂院(1889年に巣鴨病院と改名)へ東京府癲狂院へ入院した。
数度の脱走を繰り返した後1885年に再入院。彼の
誇大妄想は日露戦争の戦勝とともに肥大化し、
いつしか将軍を自称するようになった。
さらに、昭和の頃には天皇を自称するようになった。

1919年に松沢病院へ転院、 以後1937年に88歳
で亡くなるまで松沢病院で過ごした。
病院に来る新聞記者や見物人に勅語を乱発して
は売りつけたりした。
乃木希典との会見や、伊藤博

文に金を無心して無視された事もある。
また、明治天皇が巡幸した際に、 「やあ、兄貴」と
声をかけたこともある。
日露戦争時、『相撲取りの部隊を出してロシア軍
のトーチカを破壊せよ」と発言するなど、奇嬌かつ
過激な言動は格好のゴシップとなった。

熊沢 寛道

熊沢 寛道
(1889年12月18日 - 1966年6月11日)
第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張し
た「自称天皇」の代表的存在である。

熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に
始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に
『西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、
その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王
(南天皇)であるとする
昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要
求したが拒否される。

歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、
反熊沢キャンペーンを展開、さらにCHQの昭和天皇
利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷
やかになっていった。

情勢を打開すべく、 1947年(昭和22年)3月政治
団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、
同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で
候補者を立てるが失敗する。

その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで
見捨てられた。
サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の
熊沢への関心も次第に薄れていった。
その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。



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