支援員は、人生で関わる人全員とずっと調整し続けているのか?
ユリは、福祉サービスの計画相談支援員、数人との面談を重ねる中で、ある空気を感じるようになった。
それは、
「まず話し合いましょう」
「調整していきましょう」
という言葉が、ほぼ前提として扱われていることだった。
ユリも、調整そのものを否定したいわけではない。
ただユリはずっと違和感があった。
支援員は、本当に人生で今まで関わった全員と、調整を続けながら生きてきたのだろうか?
ユリは支援員に聞いてみたくなった。
これまでの人生で、
距離を置いた人はいないのか。
関係を終えた人はいないのか。
「この人とはもう関わらない方がいい」と判断した経験はないのか。
もしあるなら、それはどうやって決めてきたのか。
本当に“すべて調整で解決してきた人生”なのか。
自分は関係を切るけど、利用者にだけ調整を薦めるのだったら、ダブルスタンダードだ。
ユリは実際に、複数の支援員に対して、次女のデイサービス終了の経緯を時系列で説明した。
事実として起きたことを並べた。
それでも返ってきた反応の多くは、
「もう一度話を聞いてみましょう」
「調整していきましょう」
「本人の気持ちも大事です」
というものだった。
支援員5人中4人が、その方向だった。
その時ユリは、感覚がズレているのを感じた。
ユリが伝えているのは「意見」ではなく「経過」だった。
それでも扱いとしては、まだ“感情のある保護者の主観”の中に入れられていくように感じた。
ある支援員にユリはこう聞いた。
「話しても前提が共有されない経験はありませんか?」
返ってきたのは、
「皆さん一生懸命です。特に親御さんは。」
という言葉だった。
その瞬間ユリは、
“今まさに前提が共有されていない”と感じた。
ユリが知りたかったのは、
努力の話ではなく、
「ズレが埋まらない関係をどう扱うのか」という現実だった。
しかしその問いは、
一般論の中にきれいに回収されていった。
しかもそのやり取りの中で、
ユリには、この支援員に、親は「一生懸命だけど調整がうまく進まない要因」として見られる前提があるように感じられた。
つまり、支援員は俯瞰で、利用者は感情的、という前提のようなものがあるように感じた。
それ自体が”支援者側の見方の偏り(支援者バイアス)”として作用しているようにも思えた。
その支援員は終始穏やかな表情だった。
ユリにはその穏やかさが、
こちらの消耗や限界の重さを、十分に想像できていないようにも感じられた。
同時にユリには、
「私は調整できます、あなたとは違う」
という前提で見ている余裕にも感じられた。
ユリはもうひとつ強く感じたことがある。
それは「子ども本人の気持ち」が非常に強く優先される空気だった。
もちろんユリも、それ自体は大事だと思っている。
ただ現場では、
親と子どもの意見が違った時に、
親の判断は“理解不足の側”に置かれやすい場面があった。
さらに本来は保護者とサービス側で行うような担当者会議にまで、子ども本人を参加させようとする流れもあった。
そこには、
「本人参加=正しいこと」という前提があるように見えた。
ユリはそこに違和感を持った。
それは“子どもを尊重していない”という話ではない。
むしろ逆で、
子どもが責任を引き受けられない領域まで、子どもを判断の中心に置いているように見えた。
そしてユリは思った。
「まず話し合いましょう」という前提と、
「子ども本人を最優先にしましょう」という前提には、
共通する見落としがある。
それは、
その人がすでにどれだけ消耗しているか。
これ以上の調整を続けた時に何が起きるか。
その視点が抜け落ちていることだった。
蛇足かもしれないが、ユリは一つ例えを考えた。
少し違和感のある夫婦関係なら、第三者に入ってもらって調整するのは自然だと思う。
でも、すでに夫婦で限界まで話し合っていて、それでも調整がうまくいかなかった状況がある。
そのうえで、子どもが「離婚しないでほしい」と言っている。
この状態で、外部の人から
「お子さんの気持ちを尊重しましょう」
「もう一度話し合いましょう」
と言われ続けるような構図。
ユリはその外部の人にこう言いたくなる。
「・・・ANTA HANASHI KIITETA ?」
