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テツガクの小部屋29 エピクロス派

ストア学徒は人生の目的を徳におき、幸福はその結果にすぎないとした。これに対しエピクロスは幸福こそ人生の目的であるとする。しかも彼のいう幸福の内容は快であった。我々が徳を求めるのは徳そのもののためではなく、それがもたらす快ゆえであるという。
規準論においてエピクロスは真偽の最終の規準を感覚に求めているが、倫理的見地においては感覚の受動的様態、感情(パトス)が真偽(善悪)の最終の規準である。ところで感情が教えるのは快か苦であって、それ以外ではない。だとすれば善とは快にほかならず、悪とは苦にほかならないことになる。
しかしエピクロスの実践思想は快楽主義とはずいぶんその趣を異にしている。それは彼が動的な快ではなく、静止的な快をよしとしたからである。

エピクロスは積極的、動的な肉体的快をそれがもたらす不快のゆえに退け、むしろ消極的な快、すなわち苦痛のない状態を目標とした。「快が目的であるというとき、道徳的な快でもなければ、性的な享楽の内に存する快でもなく、実に身体において苦しみのないこと、魂において煩いのないことにほかならない」と彼は言う。

自然的ではあるが必修でない欲求、あるいは自然的でも必修でもない欲望が空しいドクサ(臆見)に基づくものでしかないことを指摘するのに、エピクロスは飽きることがなかった。これらの欲望を満足させるのはたいてい非常に困難であり、またそれらは何倍もの煩いをともなう。それゆえ彼はそういった欲望を満たそうとして苦闘するよりも、むしろそれを無視する方が賢者の知恵であるとした。真に必要なものはわずかであることを知ること、すなわち足るを知ることが幸福にいたる知恵であることを彼は繰り返し説いた。
欲望に対する空しい臆見から解放され、それらによってもはや煩わされることのない平静な心境がアタラクシアである。エピクロスの勧めは全てこのアタラクシアを目指して説かれたものであった。


参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂



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