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【エッセイ】信教の自由


うちは日蓮宗で南無妙法蓮華経である。一応、毎朝父がお経を唱えて、私も母もマイマイ(仏壇に手を合わせること。ウチではマイマイと呼んでいる)する。

個人的には、何も信じていない。哲学的な、一者(プロティノスの一者のことを特に想定しているわけではない)というか、ロゴス的なものの存在は認めている部分があるが、宗教的には、信じているものはない。

信教の自由は憲法で規定されている。信じない自由というのもまた認められている。

宗教の勧誘はキライだ。だが、もっとキライなのは、根拠なく(宗教をではなく)「学説(もどき)」を信じることだ。

埼玉にいた頃は、小さなマンションだったので、ピンポンピンポン、勧誘やら何やらうるさかった。普通の勧誘なら、断ればいいのだが、ある日、何某という学者(自称だと思うが)が、キリスト教についてすごい論文を書いていて、私たちはその学説に従って、キリスト教を信じているので、そんじょそこらのキリスト教とは違うんだ、と主張するオバサン2人組がやってきた。私は、一応は最後まで話を聞くタイプである。そして、彼女たちが、その学説とやらを、根拠なく信じ込んでいることに、怒りにも似た気持ちを覚えた。普段めったに怒らない私でも、根拠なく「学」と名のつくものを信じ込む人間は、大キライなのだ。私はギリシャ語の聖書を持ってきて、言った。
「あなた方は、その学者の論文を全て読まれた上で、信じてらっしゃるのですか?そして、その論文の論拠の裏付けのために、もちろん、原典で書かれた、このギリシャ語の聖書も十分に読んで研究された上で、論文に当たられたわけですよね?云々。」
オバサン二人はしばし絶句し、半べその顔で帰って行った。それきり、同じ所の勧誘は一度も来なかった。

チョットいじわるかとも思うが、私はもちろん、信教の自由は認めている。根拠なく特定の宗教でも神でも信じるのは個人の勝手だ。だが、およそ学と名のつくものに関しては、厳密な調査・研究を土台にせずにむやみに信じて、ましてやそれを(その人たちがそんな状態で)他人に押しつけ、仲間にしようという考え方には拒絶反応が出てしまう。決して宗教・信教批判をしているのではない。この違い、お分かりいただけると思う。

ちなみに、私は特定の何かを信じてはいないが、哲学的な見地から宗教というものについて考えることはある。宗教と哲学と心理学、似ているようで全然似ていないのに、本屋で同じ階に集まっていたりする。だからいっしょくたに考えちゃう人がいるんだよ、と思うが、このくくり方は仕方ないのか。例えば哲学書と簿記試験問題集と相続の基礎知識みたいな本が同じ階にあったら、それはそれでやはり違和感がある。

でも再度、声を大にして言うが、宗教と哲学と心理学は、全く別物である。





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