【雑記】トマスの幸福論
トマス・アクイナスはアリストテレスの哲学を大いに受け継いでいるが、魂についても彼と同様、不死であると考えていた。また、幸福は魂の活動によって得られる。魂の最も優れた部分、つまり知性が、神を認識する活動のうちに幸福が存すると彼は考えた。
では神を認識するとはどういったことか。彼によれば神は無限であるが人間は有限であるため、認識の仕方に特徴がある。我々は被造物であり、その知性もまた被造物である。そのあり方に神を変換してしまうことはつまり、無限である神の本質を有限なものに変えてしまうため、神の本質自体変えてしまうことになってしまう。
では我々は自分よりも優れたものを認識する場合、どうするだろうか。こういった場合、自分自身が優れたものに近づくよう、そのあり方を学んで、そのあり方に成長する、自分自身が成長する、ということによって可能になる。トマスの考えた神の認識の仕方とはまさにこれなのである。
ここからは彼独自の神学的な思想の発展である。彼によれば、知性は「神の本質」を自分自身の中に取り込むのではなく、逆に、知性が神の中に取り込まれて、神を認識するのにふさわしいあり方に変わってゆかねばならない。そのためには「恩寵」や「栄光」の「光」を、神から与えられねばならない。そして「光」を与えられるためには、知性が神を愛することが必要であるという。
この「神への愛」の度合いに応じて知性は神に近づき、神から「光」をあたえられて、神を知性で認識することができ、これに応じて我々の魂は幸福になってゆくのだという。先にも述べたように、彼は魂の不死を説いていたため、この世とあの世において、その与えられる「光」に差があるという。この世においては「恩寵の光」しか与えられず、あの世では「栄光の光」が与えられうるため、あの世においての方が、この世にいるときよりも十分に神を認識できるのだという。
しかしやはり完全に神を認識することはできない。それはやはり、アウグスティヌスにも見られる根本的な思想、つまり我々が被造物であり、その知性もまた被造物であるゆえに有限であるが、神は本質的に無限であるからである。以上がトマスの説く「幸福論」である。
