見出し画像

テツガクの小部屋26 アリストテレス④

・存在の多義性
アリストテレスは存在の多義性をはじめて自覚した人として重要である。「存在はさまざまな意味で語られる」というのが彼の哲学の常套句である。
①    付帯的存在 これは実体に偶然的、付帯的に属するような存在をいう。例えばソクラテスが色白であるとか獅子鼻であるといった場合の、色白や獅子鼻がそれである。色白でなくてもソクラテスであることにはかわりなく、これらは事物の本質には属さない。ゆえにこの種の存在に関しては学はありえない。なぜなら学とは、必然的にそうであるか、大多数の場合にそうであるものの知だからである。
②    真としての存在と偽としての非存在 これも第一哲学の対象ではない。というのはアリストテレスの真偽論は認識と対象の一致、不一致にあるからである。あるものをあるといい、ないものをないというのが真であり、あるものをないといい、ないものをあるというのが偽である。このように真や偽は認識する主観とその対象との関係の内に成立するのであって、真なる存在者や偽なる非存在者があるわけではない
③    カテゴリーの諸形態としての存在 アリストテレスによれば、存在は次の10のカテゴリーに分割される。実体(何であるか)、量(どれだけあるか)、質(どのようであるか)、関係(何に対してであるか)、何処(どこにあるか)、何時(いつあるか)、位態(横たわってある、など)、所持(持ってある)、能動(為してある)、受動(為されてある)。
これらはもはや互いに他に還元できない述語の最高の諸類ということができる。例えば「これは何であるか」という問いに対して「三つである」とか「色白である」とっても答えにならない。それゆえ彼はカテゴリーを「述語の諸類」とよぶ
しかし同時にカテゴリーは「存在の諸類」ともよばれる。存在(ある)とカテゴリーの関係であるが、存在とカテゴリーは同一関係や種類の関係によってではないが、類比の関係によって結ばれているという。例えば、あるものは健康を保つがゆえに、あるものは健康をもたらすがゆえに、あるものは健康の徴候なるがゆえに、等しく「健康的」といわれるが、それと同様に実体は「何である」かを語るものであり、量は「どれだけある」かを語るものであり、質は「どのようである」かを語るものであり、関係は「何に対してある」かを語るものであるがゆえに、すべては「ある」すなわち存在によって統括されているというのである。
カテゴリーを「述語の諸類」とみるか「存在の諸類」とみるかに関してはトレンデレンブルクとボーニッツ以来の論争がある。


参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集