【シロクマ文芸部】夜に釣り
夜に釣りへ行く。
夕飯を終え、道具を担いで宿を出たところで、近所の老人に声をかけられた。
「今日は絶好の主日和だよ。きっと、主様に出会える」
にこにこと笑っていた。
このあたりには有名な話がある。
“主”が釣れるという岩場があるのだ。夜釣り限定。釣れれば一生安泰。富も名誉も、思うがまま。
だが、そこは苔むして滑りやすく、落ちて戻らぬ者も多い。
それでも夜な夜な、夢を求めた釣り人が集まってくる。
目的の岩場は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
苔がびっしりと貼りついた岩が、月の光に照らされて青白く光っている。
ぬめりを帯びたその表面は、踏めばたちまち足を奪うだろう。
案の定、俺も危うく落ちかけた。
ずるりと音を立てて足元を失い、すんでのところで尻もちをつく。竿はそのまま海へ落ち、闇の中へ消えていった。
這うようにして安全な場所まで引き返す。あと一歩踏み出していたらと思うとーーー背筋に冷たいものが這った。
夜が明けてから、ふたたび岩場へ向かった。
すると、男が三人、岩に向かって黙々と作業をしていた。
「……何をしてるんですか?」
声をかけると、ひとりがゆっくりと振り向いた。
昨日の老人だった。
「あんた、昨日の人か。落ちなかったんだな」
心配してくれていたのか、と思った。
だが、続いた言葉でぞっとした。
「滑りが甘かったのかもなって話しててさ。今日はちょっと、念入りにやってるんだよ」
男たちの手には、細いピンセットのような道具。
ふしくれだった指先で、苔のかけらを丁寧に、まるで植えるように岩へ押し込んでいく。
波は静かで、風もないのに、足元だけがじっとりと湿っていた。
そういえば、宿の女将がぽつりと話していた。
昔、このあたりは水害が多く、田んぼがよく水に沈んだらしい。
けれど、不思議と被害のない年が、ときどきあるという。
そうした年には、決まって「主を釣りに来て、そのまま戻らなかった人がいる」のだと。
「今日は、絶好の主日和だから」
昨日の老人の言葉が耳に蘇る。
手を止めた男がひとり、立ち上がった。
もうひとりも道具を置き、こちらの様子を窺っている。
「今夜は、釣りに来ないのかい?」
老人の言葉は柔らかい。けれど、声に体温がなかった。
俺は首を横に振った。
その瞬間、三人の視線が、いっせいにこちらへ注がれた。
無表情のまま、じっと見つめてくる。波の音が、急に遠くなったように感じられた。
「そうかい」
誰かがぽつりとつぶやくと、男たちはまた苔の手入れに戻っていった。
風は止み、波も静かなままだった。
けれども岩の苔だけが、ざわざわと波打つように揺れていた。
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