白竜の翼と青き記憶 第1話 白銀の空隙
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轟音と共に、大地が爆ぜた。
数百年の時を生き抜いたとされる四つ腕の巨大な魔獣――岩山すら容易く砕くその一撃が、ルナの立っていた場所を無残に抉り取る。土煙と焼け焦げた獣の脂の臭いが、戦場に立ち込めていた。
岩が、砕けて雨のように降り注ぐ。それが頬を掠め、血の味が口の中に広がる。それでも彼女の足は止まらない。止めることを、体が忘れた。
「……魔力密度、予測の1.2倍。防壁展開より回避が確実ですね」
絶望的な蹂躙の中、和の意匠を取り入れた蒼と紅の装束に包まれた少女――ルナ・ハートレイは、無表情に巨大な白竜の意匠を持つ龍槍(りゅうそう)を構え直した。
風に揺れる銀糸のような髪の下で、青玉(サファイア)の瞳だけが冷徹に戦況を見極め続けている。
槍の柄は重い。杖のように繊細ではなく、骨と筋肉に正直に圧し掛かってくる「鉄の重さ」だ。かつての彼女なら、この重量を「設計の誤り」と呼んだだろう。今は違う。これが「実体」だと知っている。
(魔獣が次の凶刃を振り下ろすまで、ほんの一瞬。私の現在位置から届く急所は――)
空を、桜花のように煌めく魔術式(ルーン)の群れが埋め尽くしていく。
かつて安全圏から放っていた全能の魔術はとうに捨てた。安易な力に縋れば、前衛としての身体は二度と完成しないと自ら封じたのだ。
今、彼女が編み出すルーンはすべて、その封印を経て再構築された「物理の刃」。己の質量と共に、ゼロ距離で敵を粉砕するための現象だ。
「――生存の可能性は皆無。これにて、決着(チェックメイト)ですっ!」
地を蹴ったルナの身体が、弾丸のように跳ねる。
狂暴な咆哮を上げて迫る魔獣の顎を紙一重でかわし、彼女はその身の丈ほどもある巨大な刃を、魔獣の眉間へと深々と突き立てた。
無骨な泥臭い「鉄の重み」と、冷徹に練り上げられた「魔導の法則」。決して交わるはずのない二つの真理が、幻想的な輝きを放つ彼女の腕の中で完全に融合し――爆発する。
致命の一撃を受けた魔獣が、地響きを立てて崩れ落ちていく。
かつて守れなかった蒼い記憶に、今は届かなかった「紅」の熱量が混じり合う。桜色と蒼の奔流は、死を弔う花吹雪のように戦場を舞った。
だが、安息はない。
眼下の谷底からは、血の匂いに惹かれた同格の魔獣の群れが、黒い霧のように次々と湧き出している。
ルナは熱を持った槍を引き抜き、細く吐息を漏らした。
『グルルルっ……』
背後で、低い唸り声が上がる。
見上げれば、傷だらけの翼を持つ白竜――レシックが、彼女を庇うようにして天を睨んでいた。見捨てられた「失敗作」の竜と、魔法の玉座から降りた「無能」な元魔導士。
ルナはそのゴツゴツとした白い鱗に、手甲越しの冷たい指先を這わせる。
魔法の杖ではなく、「槍」という物理的な質量を握る感触。そして、レシックの体内から伝わってくる、荒々しくも温かい命の鼓動。
その鼓動は、いつか廃竜仔舎の節穴越しに感じた、初めての「温度」と同じ周波数をしていた。
「……ええ。わかっていますよ、レシック」
ルナの背部から、眩い白銀の光が溢れ出す。
それは魔力で編まれた「龍の尾」。
幾千の戦い、幾万の悲しみ、そしてかつて彼女がその身に刻んできた数多の命の重みが、一つの現象として世界に顕現する。
「失敗は、勝利へ至るための布石。何度でも、何度でもやり直せばいい」
ルナは、血に濡れた顔で不敵に笑う。
その笑顔は、永劫の停滞にとらわれた不老の世界において、もっとも美しく、もっとも狂気的な「変革」の証明だった。
助けられなかった誰か一人の「約束を守るため」に辿り着いた場所だと、彼女だけが知っていた。
「さあ、次なる勝機に──飛びましょうっ!」
白竜の咆哮が、凍りついた数百年の静寂を切り裂き、蒼穹へと打ち上がる。
――これが、最強を捨てた少女の、もっとも美しく残酷な「やり直し」の結末。
しかし、時間は少しだけ遡る。
彼女がまだ、重い鎧に四苦八苦し、泥水と自らの無力さに顔を歪めていた、あの悲惨な日々に。
肺が焼けるように熱い。
全身の筋肉が軋みを上げ、鉛のように重い足が泥濘(ぬかるみ)に足を取られる。
泥の粘度が膝から引き剥がす力は、魔力値で言えば推定五十三。データとしては処理できる。でも体は、データを知ろうが関係なく沈んでいく。
「止まるな! 貴様らはまだ、空を飛ぶ白竜の餌にも劣る肉塊だと思い知れ!」
朝凪の冷たい空気を切り裂くように、教官の容赦ない怒声が訓練場に響き渡った。
王都の外れに位置する『白竜騎士団・第三修練場』。
そこは、華やかな王城の威容とは無縁の、ただ血と汗と泥の臭いだけが立ち込めるすり鉢状の荒地だった。
硬化した土が雨水を吸って膨れ上がり、表面だけが泥の膜を張っている。その上を模擬槍を抱えて走るのは、ほとんど「水の中を走る」感覚に近い。
ルナ・ハートレイは、自身の背丈ほどもある重厚な模擬槍を抱え、ただひたすらに泥の中を這い進んでいた。
和の意匠を取り入れた蒼と紅の装束はすでに泥に塗れ、銀色に輝く髪も汗と土埃で本来の美しさを失っている。
(……予測値との誤差、プラス三十パーセント。肉体の疲労によるパフォーマンスの低下が著しいですね……)
彼女の脳内では、相変わらず冷徹に現状の計算が行われていた。
しかし、その「答え」を導き出したところで、どうにもならない現実があった。
彼女には今、魔法がないのだから。
「おい、元『青魔導士』様! 随分と無様な這いずり回り方だな!」
「魔法陣の一つも描いてみろよ! あ、禁止されてるんだったか? 傑作だな!」
周囲の訓練生たちから、嘲笑の声が飛ぶ。
彼らの目は明らかな侮蔑と、そして「異物」を見るような冷たい光を帯びていた。
無理もない。
この成体が固定され、誰もが何百年と同じ職業(ジョブ)を極め続ける不老の世界において、「ジョブチェンジ」など狂気の沙汰だ。
ましてや、ルナはかつて、数万の敵を指先一つの魔法で灰燼に帰し、国中から『青の賢者』と称えられた天才魔導士だったのだ。
そんな「最強」の座を自ら捨て、最も泥臭く死亡率の高い『白竜騎士』の、しかも一番の下っ端である訓練生に志願するなど、正気の沙汰ではないと思われて当然だった。
(他者の無理解は、既知の障害事項です。問題ありません。それよりも……)
ルナは、ズキズキと痛む自身の右手首を見つめた。
魔力を物質化するのと、実際の「鉄の塊」を振るうのでは、使用する筋肉群が根本的に異なる。
これまで数世紀にわたって最適化されていた彼女の神経回路と魔力構造は、この「物理的な負荷」に対して悲鳴を上げていた。
筋肉の痛みは「設計ミスの通知」ではない。筋肉が削れ、より強い繊維に置き換わっていく、「再構築の痛み」だとルナは定義した。定義しなければ、体が頭に負けてしまう。
(痛い……重い……。でも、これが『実体』というものなんですね)
彼女は泥水に顔を突っ込みそうになるのを必死に堪え、息を吐いた。
かつて、遥か後方から圧倒的な火力で敵を殲滅していただけの自分には、決して知ることのなかった感覚。
傷つくことの痛み。足の裏で踏みしめる大地の重み。
そして――大切な者を守れずに、目の前で失うという、絶対的な無力感。
「――二度と、背中(あなた)に血は流させません」
ルナは、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟くと、泥まみれの顔を上げた。
その言葉は、三年前の記憶――血と雨の匂い、および「距離三十メートル」という数字――から直接引き出された誓いだ。
その青玉(サファイア)の瞳には、かつての「傍観者」としての冷たさはなく、絶望的な状況にあっても決して揺るがない、強靭な意志の光が宿っていた。
太陽が西へ傾いたころ、ようやく訓練終了の鐘が訓練場に響いた。
ルナは朽ちかけた木の柵に背を預け、ぼんやりと空を見上げた。
王都ラ・ティールの空は、その日も橙色を遠慮がちに滲ませていた。この色を、何百年前から毎日見てきた人たちがいる。この色を、何百年も後まで毎日見続ける人たちがいる。変わらない空。変わらない街。
変える理由が、誰にもないのだ。
隣では、同期の訓練生たちが今日の訓練を語り合っている。「あの時の教官の怒声が」「お前が転んだから俺まで巻き込まれて」という笑い声が、夕暮れの空気に溶けていく。彼らにとって、今日は「過酷だったけど普通の一日」だ。訓練が始まる前から、こういう日々の延長線上を生きている。
しかしルナにとっては違う。
百五十年ぶりに「できない自分」と正面から対峙した、まったく新しい地平だった。
(本日の失敗データを整理します)
心の中でそっと呟きながら、ルナは泥にまみれた掌を広げた。
魔力の通り道(魔導回路)が発達しすぎているせいで、「物を掴む」という動作そのものが、脳から手までの命令伝達に余分なノイズを生じさせる。剣士が数十年かけて磨く「重心移動」の感覚が、魔導士には根本から欠落している。魔法を使えば一瞬で解決できる問題を、体という「鈍くさい機械」で一つひとつ解体していく。
面倒だ、と思う。
でも、面倒であることと、諦める理由は、まったく別の話だ。
「……余剰エネルギーを脚部筋肉へ転換する最適なタイミングは、重心が前へ移り始めた瞬間。呼吸周期との同期を……」
「独り言が多いやつだな」
不意に声をかけられて、ルナは顔を上げた。
ずんぐりとした体格の訓練生が腕を組んで立っていた。同期の中では古参らしく、革鎧の傷み方がほかの者より深い。左の眉に、古い切り傷の跡がある。バルグ、という名前を、今日の点呼でルナは覚えた。
「お前、本当に元・青魔導士か」
「……ええ。よく言われます」
「なぜ前衛を目指す」
単刀直入な問いだった。
ルナは一瞬、言葉を探した。「守りたいものがある」「親友を失ったから」――どちらも嘘ではない。しかし今この場で、この男に話す言葉ではない。
「……最適解を、探しています」
「意味がわからん」
「そうですね。私もまだ、うまく説明できないんです」
男は鼻を鳴らして立ち去った。
ルナはその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
理解されなくていい。
大切なのは、今日の失敗を明日への布石にすること。それだけだ。
訓練後の義務として、各自の装備品の手入れが課せられていた。
ルナは支給された丸木の椅子に腰かけ、革の手袋を外し、銀鎧の小手(こて)部分についた泥を布で丁寧に拭き始めた。
金属は蒸らすと錆びる。どれほど疲れていても、手入れだけは省かない。これは百五十年の魔法使いとしての経験が教えてくれた、唯一の「物理的な規律」だった。
丸く小さな油の缶を開ける。獣脂と植物油を混ぜた、独特の温かさを持つ匂いが鼻をかすめる。
布にしみ込ませて、ゆっくりと金属の表面を撫でる。
乾いた革のひっかかる音。
金属が光を少しずつ引き戻す、くぐもった感触。
指先に伝わる、傷の凹凸の細かさ。
魔法があれば、こんな作業は三秒で終わる。浄化の魔術を一つ唱えれば、どんな汚れも傷も、なかったことにできた。しかし今のルナにその選択肢はない。あえてない。
だから彼女は、時間をかけて磨く。
鎧の表面に、先代の使用者が残したと思われる細い傷が二本、並んで走っていた。
どんな場面でついた傷なのかは、もう誰も知らない。でも確かに、ここにある。誰かの「やり直せなかった記憶」が、金属の中に刻まれている。
(……あなたは、どんな人でしたか)
ルナは指先でそっとその傷跡を撫でた。
どれほど磨いても消えない傷は、消さなくていい。それも、この鎧の一部だ。その傷を持った鎧を使い続けることが、先代への「継承」だと思えば、重く感じなかった。
磨きながら、ルナは今日の訓練の映像を反芻した。
重鎧を着けたまま走り、転んだ瞬間。膝が石畳に当たった確かな衝撃。
笑われながら、それでも頭を上げた。データとして処理した。
(……今日転んだのは、重心の制御ではなく、靴底の磨耗による滑りの予測ができてい難かったから。摩擦係数の変化を足裏で読む訓練が必要です)
磨く手が止まらないまま、計算は続いていた。
これが百五十年の癖だ。疲れていても、手が動いていれば頭も動く。
隣の台では、バルグが黙々と剣帯を磨いていた。
言葉はなかった。でも同じ空間で同じ作業をしている、その静かな並存が、悪くなかった。
革の布が金属を撫でる音が、二つ重なって聞こえる。リズムは違う。でも、同じ方向を向いた音だ。
油を仕舞い、布を畳んだとき、ルナは立ち上がって宿舎への帰路を歩き始めた。
訓練場の裏を通る細い石畳の路地を歩いていたとき――ルナは足を止めた。
低い、唸り声。
声の方角は、訓練場の外壁沿いに建てられた、薄暗い木造の小屋だった。
扉は古く、蝶番が錆びている。窓は板で打ちつけられていて、内部を覗くことはできない。しかし、扉の隙間からはかすかに温かい空気が漏れていて、獣特有の、野性的で力強い体臭が鼻をついた。
(……竜。それも、まだ成体に達していない若い個体)
ルナはしゃがんで、扉の隙間に目を近づけた。
薄闇の中に、白い鱗が見えた。体格は馬ほど。翼の片方が、内側にきつく折り畳まれている――いや、正確には「折り畳めない」のだ。広げようとする本能があるのに、萎縮した筋が邪魔をして、完全に展開できない。
先天性の腱の短縮。飛翔に必要な翼の開閉角度の七十パーセントしか使えない。しかし、それは「死」ではない。「制限」だ。
「……廃棄予定、ですか」
扉の脇の立て看板。朽ちかけた木の板に、雑な字で書かれている。『封鎖区域・立入禁止』。
封鎖。立入禁止。
それは「存在を見なかったことにする」という、この世界の静かな残酷さだった。
唸り声が止んだ。
代わりに、扉の内側から何かがゆっくりと近づいてくる音がした――ぎし、ぎし、と床板を踏む重い足音。
そして、白い鼻先が、扉の節穴から覗いた。
大きな目だ、とルナは思った。節穴越しに見える瞳孔が、縦に細く裂けている。竜特有の眼球構造だ。光量を精密に調整できる、非常に高性能の視覚器官。
「飛べない」ことと「見えない」ことは、まったく別次元の話だ。
ルナはしばらく、その白い目を見つめていた。
白い目も、しばらくルナを見つめていた。
「……また来ます」
ルナは静かにそう言って、その場を離れた。
背後で、節穴から覗いていた目が引っ込む、かすかな気配がした。
宿舎に戻ったのは、すっかり夜になってからだった。
白竜騎士団の訓練生用宿舎は、王都の外縁に建てられた古い石造りの建物だった。廊下は狭く、天井は低く、窓の木枠は長年の雨風で歪んでいる。しかしそれは、この街のほとんどの建物に共通する特徴でもあった――何百年もかけて少しずつ古びていく、時間の積み重なった匂い。
獣脂のランタンが廊下の壁に並んでいて、揺れる橙色の光が石壁に影を作っていた。
ルナに割り当てられた部屋は、四人部屋だった。
すでに他の三人は眠りについていた。一人はいびきをかいて、一人は壁に向いて丸まって、一人は天井を見上げたまま静かに目を閉じていた。寝息だけが、部屋の中に低く満ちている。
ルナは音を立てないように荷物をベッドの脇に置き、窓際に腰をおろした。
外を見る。
ラ・ティールの夜の空は、澄んでいた。
星が多い。遠くに山脈のシルエットが見える。青みがかった月明かりが、石畳の濡れた表面を静かに照らしていた。
窓ガラスは薄く、外気に触れている側が少しだけ白く曇っていた。その表面に、ルナは指の腹でそっと触れた。冷たい。こんなに冷たいのに、部屋の中の三人の吐く息は温かく、空気の中に靄のように漂っていた。
あの山の頂上に、かつて一度だけ登ったことがある。
百年ほど前のことだ。最長射程の魔術式を実戦で完成させた日の翌朝、証明のために一人で登った。頂上の岩に座って、眼下に広がる王都を見下ろした。あの日の風の冷たさと、術式が完璧に決まったときの「知的な達成感」は、今でも体に刻まれている。
でも、あの山頂に一緒に行こうと言っていた人がいた。
(……綺雪(きせつ))
ルナは、指を膝の上で静かに組んだ。
綺雪は、笑顔の多い人だった。
重戦士(ヘビーナイト)として、常にルナの前を守り続けてくれた親友。彼女の盾は厚く、剣は真っ直ぐで、叫び声はいつも笑いを含んでいた。
「ルナちゃんが難しいこと考えてる間に、あたしが全部片付けちゃうよ!」
と言って豪快に突っ込んでゆく背中を、ルナはどれだけ見てきたことか。
その背中に、血が流れた。
超越個体――数百年の淘汰を生き延びた、格違いの魔獣――との遭遇は、突然だった。ルナは後衛から術式を構築しようとした。でも間に合わなかった。綺雪が「盾」になった。一人で、その爪を受け止めた。
彼女の左腕は、あの日から二度と剣を握れなくなった。命は助かった。でも、戦士としての綺雪は、あの瞬間に終わった。
自分が前衛だったなら。
自分が、盾になれていたなら。
ルナの手が、わずかに震えた。
冷たい窓枠に触れている指先が、さらに冷えていく。
窓の外の石畳が、月明かりを静かに返していた。
魔法を使えば救えた、とも思う。
しかしそれは間違いだとも知っている。
魔法という万能の全能感に少しでも縋れば、前衛として地を這う覚悟は霧散し、二度と身体で守れる者にはなれない。だから彼女は、最速の正解を自ら封印した。
「戦う場所」を変える。
後衛から前衛へ。
魔法から剣へ。
「最も効率のよい場所」から、「最も必要とされる場所」へ。成功確率は0.0001%。それでもルナは針の穴を通った。
(……まだ追いついていない)
今日の訓練では、重鎧を着けたまま十メートルを走ることすら難しかった。先輩の訓練生には笑われ、教官には怒鳴られ、同期の中で唯一、走り終えた後に膝から崩れ落ちた。
恥ずかしかった。
ただ正直に言えば、少しだけ、解放されている気持ちもあった。
百五十年、「できる」側にいた。
常に正解を知っており、常に最短経路を歩んできた。失敗を「記録」として処理する機能を持っていた。でも今日は、失敗の「重み」を体全体で感じた。魂じゃなくて、肉体が痛む。それが、妙に現実的で、妙に温かかった。
「……今夜は、ここが起点(スタートポイント)ですね」
窓の外に向かって、誰にも聞こえない声で呟く。
月は答えない。山脈は動かない。この街では、何百年も前から何も動いていない。
それでも、ルナは今日、たった一ミリだけ前に進んだ。明日は、その一ミリの計算値を修正して、また動く。
床が軋んで、同室の誰かが寝返りを打った。
ルナはそっと窓際から離れ、服を着たままベッドに横になった。
目を閉じると、廃竜仔舎の節穴から覗いた白い目が浮かんだ。
縦に裂けた瞳孔。薄闇の中の白い鱗。
(……あなたは、いつからあそこにいるんですか)
教えてくれる者は、誰もいない。
立て看板には「封鎖区域」と書いてあるだけだ。
ただ、あの目には「懇願」も「諦念」もなかった。
ただ見ていた。それだけだった。
それは、ルナが百五十年かけて体得した「観察」とは、少し種類の違う「存在の証明」だった。
ルナは月明かりの中で、しばらくその目のことを考えていた。
考えながら、いつのまにか眠っていた。
翌朝の夜明け前、ルナは一人で訓練場の端に座っていた。
それは宿舎を出てすぐ、仔竜のいる廃竜仔舎へ向かう前の、ほんの十分ほどの時間だった。
東の空が、浅い灰色から白へ。まだ鐘は鳴っていない。王都も眠っている。
夜の底から朝が滲み出てくるこの時間帯だけ、世界には音がない。
ルナは手帳を膝に開いて、細い字で書いていた。
「訓練一日目の記録。体重負荷:銀鎧一式、推定二十二キログラム。加重前後の重心位置の変化が最大の障害。股関節と体幹の安定性が不足。
今後の優先課題
①腰の安定化
②足裏の接地感覚の習得
③呼吸と動作の同期。
成功率の現状評価:走行十メートル、七割の確率で転倒」
書きながら、ルナは少しだけ笑った。
七割で転倒、というのは相当なひどさだ。魔法使いとしての百五十年が、この数字一つでひっくり返る。
しかしこれは、「今日から三割が転ばない」という事実でもある。
ゼロではない。
風が、訓練場の土の上を低く流れた。朝の空気は冷えていて、ルナの吐いた白い息が細く消えていく。その白さが消えるのを目で追いながら、ルナは軽く拳を握った。
杖なら、この冷たさを魔力熱で相殺できた。今は、体の芯から温度を作るしかない。それが、この訓練の目的の一つでもある。
遠くから、荷馬車の音がした。朝市へ向かう商人だろう。この街では何百年も変わらない、夜明け前の定番の音だ。ルナは目を閉じ、その音に耳を傾けた。
荷車の軋む音。馬の蹄の、石畳を打つ規則正しいリズム。御者の誰かが、低く鼻歌を歌っている。
(……変わらない日常が、基盤になっている)
ルナはふとそう思った。
この街が何百年も「停滞」してきたことを、非合理だと感じていたのは本当だ。でも今は、その「変わらなさ」がある種の重力として機能していることがわかる。変わらない背景があるから、自分の変化が見える。鏡の前に立つとき、鏡が動かないから自分の顔が映る。
ルナが今日から訓練するのは、その「変わらない世界」の中で変化し続けることだ。
日が昇り始めたころ、ルナは立ち上がって廃竜仔舎へ向かった。
昨夜持ち帰っていた携帯食料から、乾燥肉を二枚だけ取り出してある。
扉の前に立ち、節穴に顔を近づけると、すでに白い鼻先がそこにあった。
(……起きていた。あるいは最初から眠っていなかったか)
「今日も来ました」
節穴の向こうで、鼻先がわずかに動いた。
ルナは乾燥肉を扉の隙間へ差し込んだ。引っ張られる感触。肉が消える。
それから、節穴から白い目が覗いた。昨日と同じ目。でも昨日より、少しだけ近い位置にある気がした。
「……あなたの翼を、今日はもう少し観察させてもらえますか」
白い目が、動かない。
「観察以外のことはしません。データが必要なんです」
少しの間があった。
それから扉の内側で、ゆっくりと体重が移動する音がした。遠ざかっていく音ではない。正面を向いた、という音だ。
ルナは静かに扉を押した。
内側は薄暗かった。
小さな縦長の窓が板で塞がれているため、扉から入る光だけが頼りだ。床は藁が薄く敷かれているが、ほとんど土のまま。隅に水桶が一つ。空に近い。最後に誰かが水を補充したのはいつだろう。
藁の匂いと竜の体臭が混ざり、その下に古い木材の腐敗した臭いがある。「忘れられた場所」の匂いだ、とルナは思った。
白い竜の仔は、正確に「正面」を向いていた。
後退も前進もせず、ただそこにいる。
ルナはしゃがんだ。竜との目線が大体そろう位置。三メートルほどの距離。
観察する。
翼の右側、正常なスパン。白金色の薄い翼膜が骨格に張られている。光が当たれば、血管の走り方まで透けて見えるだろう。
左側。翼基部の第三関節から先、骨の形状が内側に引き寄せられている。腱の短縮、先天性のものだろう。飛翔には不十分でも、地上での歩行や体の制御には特段の支障はない。
(……「飛べない」と「無価値」は、まったく別の命題だ)
白い竜が、くり、と首をかしげた。
ルナは素直に笑った。
百五十年で笑い方を忘れていたわけではないが、今日のこれは「計算なしで出た笑い」だった。
「……かしげる方向、右八度くらいですね。特徴として記録します」
白い竜はまた動かなくなった。
ルナはしばらくの間、ただその場でしゃがんでいた。
観察するための視点と、それ以外の何かの視点が、ごっちゃになっていた。
訓練の鐘が鳴った。
ルナは立ち上がり、後退しながら扉に向かった。
白い竜は動かなかった。
「……また来ます」
扉を閉めると、内側から低い音がした。
唸り声でも、鳴き声でも、なんでもない、ただの息の音のようなものだった。
でもルナには、それが「聞こえた」という確認のように感じられた。
根拠はない。
でも、そういう感覚があった、という事実は記録に値する、とルナは思った。
手帳を取り出して、小さく書いた。
「白竜の仔。名称未定。受け入れ姿勢、良好。翼の状態、詳細観察中。明日も来る」
訓練場へ走りながら、ルナはその「明日も来る」という一行の軽さと重さを、同時に感じていた。
綺雪への「必ず戻る」という約束と、この一行は、同じ言語で書かれている気がした。
1話完
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