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なぜ日本人は「苔」に美しさを感じるのか

京都のお寺を訪れると、美しい庭園に心を奪われます。

けれど、その主役は、色鮮やかな花とは限りません。

静かに地面を覆う苔。

あるいは、手のひらに乗るほど小さな苔玉。

海外の人から見ると、「なぜ苔なのだろう?」と不思議に思うかもしれません。

花のように華やかでもなく、大木のような存在感もない。

それでも日本人は、昔から苔に美しさを見出してきました。

私は野草を眺めるようになってから、その理由が少し分かったような気がしています。

苔は、自分を主張しません。

「見てください」と咲き誇ることもなければ、誰よりも高く伸びようと競うこともありません。

ただ静かに、そこにあります。

雨が降れば潤い、乾けばじっと耐え、長い時間をかけて少しずつ世界を緑で包んでいく。

その姿には、不思議と心を落ち着かせる力があります。

日本には「八百万の神」という考え方があります。

山にも、川にも、木にも、石にも神が宿る。

自然を人間より下に置くのではなく、一つひとつの命として敬ってきました。

だから日本人は、目立つものだけではなく、小さな命にも自然と目を向けるようになったのでしょう。

野に咲く草花を愛でること。

落ち葉の美しさに気づくこと。

苔の静かな緑に心を寄せること。

それらはすべて、「小さな命にも価値がある」という世界の見方なのだと思います。

その感性は、「苔玉」という文化にも表れています。

苔玉は、小さな植物の根を土で包み、その周りを苔で覆ったものです。

鉢植えよりもずっと小さく、派手さもありません。

けれど、その小さな球体の中には、一つの自然が息づいています。

手のひらに乗るほどの小さな森。

そこには土があり、苔があり、植物があり、水があり、時間があります。

私は苔玉を見るたびに、「日本人は自然を身近に迎え入れたかったのだ」と感じます。

自然は、眺めるものではなく、一緒に暮らすもの。

だから部屋の中にも、小さな自然を迎え入れたのでしょう。

これは盆栽にも通じる、日本ならではの感性なのかもしれません。

最近では、物理学の世界でも、宇宙は絶えず変化し続ける「波」のような性質を持っていることが知られています。

自然を見ていると、そのことを実感します。

風は吹いては止み、

潮は満ちては引き、

植物は芽吹き、花を咲かせ、実を結び、やがて土へ還っていく。

苔もまた、その流れの中で静かに生きています。

急がず、争わず、少しずつ広がっていく。

その姿は、まるで波が静かに岸へ寄せては返すようです。

森を歩いていると、一番目立つのは大きな木かもしれません。

でも、その木が育つ土を守っているのは苔です。

苔は雨水を蓄え、乾燥を防ぎ、小さな生き物たちの住処になります。

森は、大木だけではできません。

目立たない命が支え合って、一つの豊かな世界をつくっています。

人も同じなのではないでしょうか。

現代は、「もっと速く」「もっと大きく」「もっと目立つように」と言われることが少なくありません。

けれど、本当に豊かな社会は、目立つ人だけでは成り立ちません。

誰かを支える人。

静かに仕事を続ける人。

家庭を守る人。

地域を支える人。

そうした一人ひとりがいて、社会という森は育っていきます。

だから私は、苔を見るたびに思います。

日本人が美しいと感じてきたのは、苔そのものではなく、その生き方だったのではないか、と。

目立たなくてもいい。

急がなくてもいい。

誰かと比べなくてもいい。

静かに自分の場所で根を張り、周りと調和しながら生きていく。

その姿に、日本人は古くから美しさを見出してきたのでしょう。

移住してから、私の庭にも苔が増えました。

以前なら気にも留めなかったその小さな緑に、今では季節の移ろいを感じます。

野草も、苔も、木々も、それぞれが自分の役割を果たしながら生きています。

自然は今日も、声高に何かを語ることはありません。

けれど静かに耳を澄ませると、「美しさとは、目立つことではなく、調和の中にある」と、そっと教えてくれているような気がするのです。

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