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生物学者への道と、大学をつくる夢と/『津田梅子』エピローグ

古川安『津田梅子』が刊行後より好評をいただいています。日本における女子教育の先駆者として知られる津田梅子を、「科学」と「ジェンダー」という新たな視点から描いてみせた本書。そのエピローグの一部を以下で公開します。

2014(平成26)年秋、津田塾大学のホームカミング・デーに合わせて催された「津田梅子生誕150周年記念シンポジウム」で、筆者は「梅子と生物学」と題する講演を行った。その時、「津田先生がブリンマー留学後、もしアメリカにそのまま残っていたらどのようになっていたでしょうか?」という質問をいただいた。これも想像力をかき立てる魅惑的な質問である。研究者としてのキャリアを歩むには、帰国するよりアメリカに残っていた方がはるかにその可能性は高かったはずである。アメリカには強力なメンターとインフラ構造があった。第三章でも述べたように、想像するに、ブリンマー大学でその才能が高く評価された梅子は、まず特別生の身分から学部生に編入され学士号を取得し卒業したであろう。そして、奨学金を得て大学院の博士課程に進み、モーガンの下で発生学の研究をさらに進めて博士号を取得する。モーガンの助手となり、やがてどこかの大学のポストを得たかもしれない。梅子の留学時に学生だったアリス・ボーリング(Alice Boring)はマウント・ホリヨーク大学の教授になったし、梅子と一緒に実験助手をしたアイダ・ハイドもカンザス大学の教授になっている。モーガンは1904年にコロンビア大学に招聘され、ノーベル生理学・医学賞に繋がる、ショウジョウバエを使った突然変異の研究を行ったが、もし弟子の梅子を連れて行ったら、その仕事を共同で行っていたであろう。いずれにしても、梅子がもし日本とのしがらみを絶ちアメリカに残って生物学者への道を歩んでいたら、困難や苦労はあれ、それなりに大成し、海の向こうの日本女性に女性科学者としてのロールモデルの役割を演じたかもしれない。

そのように答えたあと、私は講演会場の同窓生たちに向けてこう結んだ。「一言追加させていただくならば、もし梅子があのままアメリカに残っていたら、女子英学塾はなかったでしょう。ということは、津田塾大学もなかったでしょう。ということは、皆さんは全く別の人生を歩んでいたことになります。同窓生の皆さんと今日ここでこんなシンポジウムを開き、こんなおしゃべりをしているのも、梅子があの時、迷った末に帰国の道を選択したからです。」

日本の生物学の発展への貢献度や、女性科学者への影響という観点だけから梅子を評価するならば、おそらくその評価点は低いであろう。本書は科学史の視座から描いた津田梅子の評伝ではあるが、そうした観点からの評価をすることが主旨ではなかった。本書が着目したのは別の面である。明治時代を駆け抜けた一女性がアメリカで自然科学と出会い、それがその女性のその後の人生にどのような意味をもったか、どのような葛藤や確執があり、どのような創造へと繋がったかに焦点を当てた。19世紀後半、人格形成期の少女時代をアメリカで過ごし、帰国後の日本社会のジェンダー秩序の有り様に大きなショックを受けた。再度の留学で、ブリンマーという女子大学で受けた科学教育とはどのようなものであり、日本では、とくに華族女学校では女人禁制とされた自然科学の研究体験まで敢えてしたことが、帰国後の英語教師・梅子の人生にどのような影響を与え、当時の社会状況の中で日本女性の教育にどう活かされたか、梅子の遺産はどう受け継がれてどのような実を結んだかを、筆者なりに科学史とジェンダーの視点を踏まえて描いたものである。梅子のキャリアを精査することにより、女性科学者とは何かという問題にも光を当てた。

梅子ほどの強い意志と行動力のある人間が、なぜ日本女性のために科学への道を拓くように努力しなかったのか、という疑問も湧く。第三章で見たように、梅子自身は生前、ブリンマーで生物学を専攻したことを公的な場で積極的にアピールしようとはしなかった。生物学研究者としての梅子の過去が多少とも巷間で知られるようになったのは、梅子の死後、吉川利一が『津田梅子』(1930)を出版して以降のことと思われる。結局、梅子は自然科学を捨て去ったというより、日本女性のための英語教育の道の方を自分には相応しいと思って選んだといった方がよい。塾の事業に協力したアナ・ハーツホーンが述懐しているように、学校設立に際し科学教育も想定に入れていたが、財政的困難から科学を学科として設けることは不可能だと悟った。こうして、梅子は女子英学塾を創立し、英語教育と学校運営に後半生を捧げた。梅子は、英語は最終目的ではないことを強調した。英語を日本女性に教育し、英語を通して欧米の世界、思想、学問、そして科学にも目を開かせる、そしてそれは日本女性たちに家父長制的な日本社会におけるジェンダー格差の大きさ、障壁の多さに目覚めさせることにも繋がる──、梅子はこのような信念をもって、英語教師の道を選んだのではないだろうか。こうした想いは、梅子がブリンマーで、あの時代に日本女性として自然科学を学ぶことで得た経験から熟成され、内面化されたものであった。その意味で、梅子の教育者としての人生を語るうえで、原点にあった科学との関わりを無視することはできない。

梅子は女子英学塾をいずれは「真の大学」にしたいという夢をもっていた。科学教育はその時のために取っておこうと思っていたのかもしれない。梅子の夢は半世紀を経て、後継者の星野あいらの献身的な努力によって実現された。塾では英語と英文学を講じた星野には、ブリンマーで梅子の科学教育を追体験した背景があった。戦時下に英語が敵性語と見なされ、英語教育を柱としていた塾が存亡の危機に見舞われた時、星野はいち早く数学科・物理化学科を増設することによりその難局を乗り切り、終戦直後の新制津田塾大学の誕生へと繋げていったのであった。星野が成し遂げたことは、津田塾だけに留まらず、戦前期の日本では実現できなかった「真の」女子大学の成立に先導的な役割を果たしたことでもあった。津田梅子の評価は、梅子一代で完結するのではなく、梅子の残した遺産、創った伝統、そしてそれが後世の世界に与えた影響を含めたうえでの評価であるべきである。

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