転職の末に見つけた「ありたい自分」坂本龍馬とジョン・レノンの意思を繋ぎたい!【私小説】
「お墓を建てようと思うんやけど」
ケンイチはそう切り出されて面食らった。
話の中身もさることながら母親の頬に伝う涙を見て平気なわけがない。
彼の父親は事故に遭って早くに亡くなった。父方の先祖は製鉄の町で暮らし、その町にあるお寺の納骨堂に遺骨を納めていた。ケンイチが子どもの頃はお盆になると家族でお参りしたものだ。お寺は繁華街にあったからお参りを終えて外食したり買い物をするのが楽しみだった。
母方も同じ鉄の町にある別のお寺に納骨していた。両家のお寺をお参りすることでいろいろなお経があることを知る。例えば父方の場合は「なーむあーみだーぶ-」で、母方は「なんみょーほーれんげきょう」だった。
ケンイチの高校進学を本格的に考える時期になり、環境を変えるべきだと感じた両親はニュータウンに新築する決断をした。その新しい家に引っ越して5年経った頃、父親が不慮の事故で命を落としてしまう。父の遺骨も鉄の町にある浄土真宗のお寺に納骨したので、母と同居している間は一緒にお参りしていた。父が存命のときは立ち寄ったことのない「甘味処」に行き、初めて食べたフワフワな抹茶かき氷を今でも覚えている。「いいかき氷は頭がキーンってならない」という噂は本当らしいと納得したからだ。
大学卒業後、流通業界に就職して実家を離れ、何度か異動を繰り返してエリアの物流センターを転々とする。センター長となったのは30代半ば、同期の連中はすでに多くが課長クラスになっていたから、たぶん遅めの昇進である。モーニング娘。の『LOVEマシーン』がヒットしており、街中でもしきりに流れていた。バブル崩壊とともに景気が低迷するなか、何とか売上を伸ばそうと必死で働き誰しも目が血走ってる。そんな時代だ。
その日、母は車で2時間近くかかる実家からわざわざやって来た。事前の電話によると相談があるから近くの駐車場で話せないかという。
とにかく忙しかった。何が忙しいのかいちいち思い出す時間も惜しいほど忙しかった。愛妻弁当を食べるのも忘れてしまい、気がつくとすでに窓の外が暗くなっている事も何度かあった。管理職からパート、アルバイターまで誰もが休憩時間などろくにとれず、昼食をとるにしても3分以内にかき込まねばならない。そんな環境で職場を抜け出すのは気が引けてしまう。ケンイチは目立たぬように駐車場まで歩き、母が乗ってきた青いマーチの助手席に座った。
少しだけお互いに近況を話すと、時間がないからと本題を切り出す。
「相談って何?」
「お墓を建てようと思うんやけど」
母は話していると目を潤ませ、指で目頭をぬぐった。
ケンイチとしては子どものときから慣れ親しんだお寺の納骨堂をやめて、別のお墓に移すとは思いも寄らぬ事であり、寂しくもある。母もそれを察して感極まったのだろう。
お墓を建てる予定の霊園は実家からほど近いため母も行きやすくて安心なのかもしれない。そう考えると強く反対するわけにもいかず、霊園の契約書に同意の署名をしてハンコを押した。
ケンイチは高校を卒業すると一浪して予備校に通い、担当チューターから「ワンランク落としてここならギリギリ可能性がある」と言われた国立大学になんとか合格した。いくつかの私大を滑り止めに受けていたが、そちらは次々と不合格になるなか何とか一つだけ受かっていた。その入学料の支払い期限が国立大の発表前だったため、父から「どうする?」と確認されて「自信がないので払ってください」と答え十数万円をムダにした。それほど二次試験の手応えがよくなかった。なのに合格したのだから、自分の中で素直に喜べない気持ちもあった。でもそれにも増してやはり嬉しかった。
新天地の鹿児島では先輩に紹介された大家さんの敷地にあるアパートを間借りした。3畳半で一カ月の家賃が9,500円、洗面所とトイレは共同で風呂はなく銭湯に通った。初めてのひとり暮らしとあり、ケンイチは学生生活を謳歌した。さらに言えば羽目を外しすぎた。講義は真面目に受けず、日暮れを待って気の合った学生たちと飲みに繰り出す始末だ。
夜中の2時を過ぎていただろう。心地良く酔っ払ってアパートに帰ると、斜向かいの部屋のドアが開き、医学部に通う大先輩が深刻な顔で切り出した。
「運野、落ち着いて聞けよ。お父さんが大変なことになったそうだ。急いで大家さんのところに行け」
一大事らしいことは伝わったが、ケンイチは状況を理解できず、とにかく鉄製の階段を響かせながら駆け降りて隣の家に急いだ。深夜にも関わらず大家さんご夫妻は起きていてくれた。
「運野くん、ご実家から電話があってお父さんが事故に遭われたそうだ。すぐに帰りなさい」
「気をしっかり持ってね。困ったことがあったら何でも相談するんだよ」
大家のおじさんもおばさんも気遣ってくれた。なのに当のケンイチはまだ事態を受け容れられずにいた。悲しむでもなく間の抜けた顔をしていたのだろう。大家さんはなおさら心配になったのかもしれない。
夜明を待ち始発の急行かいもんに揺られて実家に帰ると母がうなだれていた。父が勤める会社の上司や同僚の方々が来られており、茫然自失の母を励ましつつ保険などの手続きを教えてくれた。自宅葬で町内会の皆さんが手伝ってくれたから、ケンイチに出来ることと言えば、邪魔にならないよう座っていることぐらいだ。
6畳の仏間と6畳の和室を襖を取っ払ってつなげた広さだから親族が座ると半分は埋まる。参列者は玄関先に並び、順番に入れ替わってお焼香する形になる。父は40代ながら会社関係のみならず友人が多かったらしい。ケンイチは葬儀でそれを目の当たりにした。お焼香に並ぶ人々の長蛇の列もやがて落ち着き静寂が流れた。すると喪服姿の見知らぬ男性がやって来て一礼すると焼香を終え、正座したまましばらく父の遺影をみつめている。
「うおおおつ、運野さん、なんで、うおおおっ」
背中を震わせて泣き出すではないか。ケンイチは「男泣き」という言葉を思い浮かべ、と同時に父の人望を実感した。
実家には高校生の弟が暮らしており、母も一人きりにならなかったのは幸いだった。地方公務員の仕事を続けて二人の息子が大学を出るまで育ててくれたのだ。
ケンイチは大学の奨学金を借りて学費や生活費の一部に充てた。父が元気だったときは奨学金制度について意識したこともなかったが、制度を活用することにより世の中の矛盾を知ることになる。奨学金を申請している同級生に「うちは農家で自営業だから」と笑みを浮かべながら耳打ちされた。彼はいつも洒落た服を着てピカピカのスポーツカーに乗っており、とても生活に困っている風には見えない。しかしケンイチが要件を満たさず申請できなかった返済不要の「給付型奨学金」を受けているというではないか。
ケンイチの父は真面目で勤勉だったが家族を大切にし、子どもには優しかった。唯一厳しく言われたのが「嘘をつくな」ということだ。ケンイチは小学生のときに「ノートを買うから」と嘘をついて母にお金をもらい、仮面ライダースナックを買ったことがあった。浅はかな嘘はすぐにバレるものだ。怒った父は彼を2時間近く居間に立たせて、姿勢を崩すと定規で脚を叩いた。
その教えが身に染みているだけに、奨学金の裏事情を知ってはらわたが煮えくり返った。一方でその不条理に対して何も言えない自分が情けなかった。
ビートルズを初めて聴いたのは小学生高学年の頃だ。中学生になると小遣いを貯めて赤盤、青盤、ホワイトアルバムと少しずつレコードを揃えて毎日のように回した。クラスに話の合うヤツが数人いて、休み時間になれば『ペニー・レイン』や『カム・トゥゲザー』などお気に入りの曲を口ずさんではしゃいでた。そんなケンイチにクラスメイトの一人がジョン・レノンのソロアルバムを教えてくれた。『ジョンの魂』や『マインド・ゲームス』そして『イマジン』からピックアップした楽曲をカセットテープにダビングして聴かせてくれたのだ。中学、高校と思春期、反抗期を迎えて孤立感に襲われたケンイチにとってビートルズとりわけジョン・レノンはアイデンティティをつなぎとめるために必要だった。
大学で気心の知れた仲間もできて孤立感から解放された矢先、ジョン・レノンの訃報が舞い込む。茫然自失の日々を送りながら音楽好きな連中と励まし合って少しずつ悲しみが癒えていく。しかし、一年経たぬうちに父が亡くなった。21年間育ててくれた父はケンイチの性格や生き方に影響を与えた大きな存在だ。喪失感もありながら、一方で自立心が強くなるのを感じた。
そんななか『竜馬がゆく』との出会いは大きな転機となる。高校の授業と試験勉強で年号と単語を囓った程度しか歴史について知らなかった彼は、激動の時代を生きた「竜馬」の発想と行動力に衝撃を受けた。それが司馬遼太郎の歴史小説であってもかまわない。事実であろうと創作であろうと彼の中で憧れの人物像が育っていく。
大学では講義をさぼりがちだったため、定期テストが近づくとクラスメイトを拝み倒してノートをコピーさせてもらいヤマを張って対策した。当然ながらテストの本番は問題が解けずに頭を抱えるわけだが、時間いっぱい粘って答案用紙を少しでも多く埋めようとした。勉強してもいないし、覚えていないのに答えを導きだそうとするとどうなるか。普段ではあり得ないほど集中力を駆使して言葉を捻り出すのだから脳がオーバーヒートを起こす。こめかみがズキズキと脈打つように痛みはじると、親指と中指で押さえて堪えながら苦悩することもしばしばだ。
あるとき文化人類学のテストで原稿用紙が2枚ずつ配られた。「カート・ヴォネガットについて述べよ」という論文テストだ。ケンイチはこの講義だけノートを手に入れられず、ほとんど対策できていなかった。むろん「カートなんとか」など知らない。テーマ通りに書くことは無理だと考えた彼は「坂本龍馬の視野の広さと柔軟な発想力」についてひたすら書く。素直に『竜馬がゆく』を読んで感動したという導入から入り、坂本龍馬のような人物が現われれば現代社会も暮らしやすくなるのではないかとまとめた。原稿用紙2枚を埋めた達成感に浸りながら、テーマとかけ離れた内容だけに赤点を覚悟していた。
結果は70点で「良」。ケンイチは採点されて戻ってきた原稿用紙を見ながら「仲村先生、やってくれるじゃん」と粋な計らいに感謝した。
そのように型どおりではないやり方ながらギリギリの単位で卒業にこぎつける。周りは「運野がストレートで卒業するなんて奇跡だ」と茶化すが、彼自身そう思うのだからしかたない。
4年生になるとさすがに就職のことを考えた。
糸井重里や椎名誠に憧れていたケンイチは「本」に興味を持ち、漠然と出版社に入ろうと考えた。ただし母をできるだけ独りにはしたくなかったので、実家から通えることが条件だ。P秀巧社など地域情報誌を扱う会社に手紙を書いたがよい返事はなかった。しかも彼に飛び込みで会社訪問してアピールする気概はなく就活はいっこうに進まない。そんなとき、高校時代の同級生から地元企業を紹介されて採用試験を受けたところ合格した。夢見た出版社とはずいぶん違う流通業の会社に就職したのだ。
ケンイチの実家は新興住宅地にある平屋一戸建てで、両親が新築してからやがて10年となる。庭やシャッター付ガレージもあり、母が一人で暮らすには広すぎるほどだ。玄関を入ると右手に仏間を兼ねた応接間、襖が隔てる隣の和室は母が寝室として使っている。廊下を抜けた奥はキッチンとリビング、さらに一番奥の洋間はケンイチが中学生の頃から過ごした子ども部屋となっている。もう社会人だが思い出の詰まった子ども部屋を模様替えするつもりはなく、そのまま使っていた。
隣の土地はまだ空いており家が建つ気配もない。その空き地から一段上がったところには二階建ての家がある。ケンイチの部屋はその家の浴室と近いのだろう、しばしば中学生と思われる男子の歌声が聞こえてきた。風呂場ではエコーがかかるから歌を口ずさみたくなる気持ちはわかる。しかし、その男子は鼻歌どころか熱唱するので外までビンビン響く。あるときなどは「夏のぅをぅをクラクション…インマイハート」と歌う同じフレーズばかり何度も繰り替えすではないか。あまりしつこいのでイライラしてきたが、ふと思い直した。
「こいつ、本気で歌手になるつもりか」
ケンイチだって暇さえあればギターをかき鳴らしていたので、その気持ちをわからなくもない。いつの間にか心の中で応援するようになった。
何気ない出来事のようでも、後になって重大な意味があることに気づく。そんな経験をしたことはないだろうか。ケンイチにとってそれは忘れられない日となった。
母と二人で夕食を終えてリビングでテレビを見ていたときのこと。
♪ピンポン
チャイムが鳴ったので母が立ち上がった。玄関を開けて対応しているのが聞こえてくる。なにやら談笑しているから知り合いらしい。
「おじゃまします」
声がして玄関を上がり応接間に入ったようだ。しばらくすると母がリビングに顔を出して頼み込む。
「ケンイチ。これを向こうの部屋まで持っていって見られるようにできる?」
今リビングで見ているテレビデオを応接間に持って来いというのだ。
アンテナケーブルを外したりせねばならずめんどくさい。でも久々の来客に嬉しそうな母を見てケンイチは快く応じた。
テレビデオを抱えて応接間に行くと、母と同世代と思われる女性が二人笑顔で挨拶した。上品な感じで母も親しそうに話しており、きっと職場の知り合いだろう。
「母の寂しさが紛れるのならば友だちが増えるのはいいかもしれない
と前向きに捉えた。
ケンイチは就職して4年間は実家から通えたが、異動が決まってそれも出来なくなった。高速道路を使って2時間以上かかる離れたエリアへの転勤だったため、アパートでひとり暮らしをはじめたのだ。
盆正月の休みには帰省した。母は息子を心配するあまり、なんでもかんでも手当たり次第に食品を大きな袋に詰めて持って返れという。その中には朝鮮人参エキスや麦を原料としたコーラのような飲料もあった。母は昔から健康食品をよく買って父に「こんなものいらん。返してこい」と怒られたものだ。
ケンイチは両親の夫婦げんかを思い出して「もうオヤジがいないから仕方ないか」と思ったものの、さほど気にしなかった。
ケンイチのアパートで同僚と飲んでいたときのこと。部屋の隅に置いたダンボール箱から飲料を取り出してすすめた。
「これって、メッコールやん!」
麦コーラの缶を目にした同僚が驚きの声を上げるではないか。彼は日本共産党の青年部に入っており、世の中の事情に詳しい。ケンイチはそれをきっかけにカルト教団の実態を知る。
しかしまだ、母がそのカルト教団に入信しているとは思えなかった。だからその後で母から相談された「お墓を建てる」ことと繋がらず、迂闊にもハンコを押してしまったのだ。
思い返すと母は救いを求めていたのだろう。やがて息子たちが結婚して家族が増えることを楽しみにしていた矢先、伴侶を亡くしたのだから精神的にまいったはずだ。
ケンイチがまだ大学を卒業する前、母の車に乗せられて2時間以上もかかる田舎町に行ったことがある。霊媒ができるお婆さんがいるらしい。
着いたところは普通の民家だった。80代ぐらいの普通のお婆さんが出てきて数珠を手にして拝み「ふん」と気合いを入れると霊が憑依した。
「おお、よう来たな。わしはこちらで元気にしておるぞ」
お婆さんが男言葉で話す。
「お父さんよ。ケンイチっ、お父さんよ」
母は感激して涙を流していた。
ケンイチはとても信じられなかったが、それで母の気が休まるのならばと付き合った。
霊媒を終えてからお婆さんとしばらく雑談したが、昔ながらの素朴な人柄で好感が持てた。宗教に関係なく、自分で霊媒の力に気づいて続けているという。
お婆さんの能力をどうこう言うつもりはない。それよりもケンイチは自分があのとき母のサインを見逃したことを悔やんだ
霊媒のお婆さんは「心の隙間」を埋めてあげようと真摯にやってくれた。お金は払ったが、常識的な金額で違和感はなかった。しかしカルト教団は弱った人間を標的に「心の隙間」を利用して洗脳してくる。
「お金は不浄だから全部出してしまいなさい。あなたの幸せのためです」
「天国でご主人と再び巡り会えるようにしましょう。140万円必要です」
などと言われて「はいそうですか」とお金を貢ぐだろうか。洗脳されると喜んで貢ぐ。
ケンイチがそれに気づいたときはすでに遅かった。母は全財産を教団に貢ぎ、さらにサラ金から膨大な借金までしていた。
「お墓を建てようと思う」
そう言い出したのも、後になってわかったが教団に言われたからだ。
借金を返済するために実家を売り払い、母はケンイチ夫婦と暮らすことになる。しかし教団からはしつこく母の携帯電話に連絡が続いた。洗脳された母は周りに迷惑をかけたなどとは微塵も感じておらず、反省の気持ちなど無い。今でも教団の言うがままだ。ケンイチは洗脳の怖さを知るとともに、なおさらカルト教団を憎んだ。
占いや六曜による大安吉日などをあまり気にしないケンイチだが、厄年と
なる42歳頃から彼自身にも変化が起き始める。
異動が続くうちエリアの営業担当になった。入社して数年は営業を経験し
ていたから「初心に戻ったつもりで頑張るさ」と自らを鼓舞したものの、僅か5年の間に現場は様変わりしていた。企業をはじめあらゆる組織でリストラ気運が高まり、ケンイチが勤めるローカルな会社もそれに倣ったようだ。
スタッフ制度が導入され、正規職員と同じ仕事を「スタッフ」という名のアルバイターがこなしているではないか。ケンイチはベテラン職員として彼ら彼女らを指導する立場にある。
「運野さん、東西江町の公団にローラーかけたいんですけど、どうしたらいいですか」
「運野さん、昨日訪問した新婚さんがあと一押しなんで、一緒に来てください」
「運野さん、飛び込みでおばさんが出てきたから説明したら、口の利き方がなってないって怒りだして。上司を呼んで来いって言われちゃった。どうしよう」
ケンイチはそのエネルギーに圧倒された。そしてその熱意を無駄にするまいと精一杯対応した。20代の若者と外回りするのは正直疲れるが、彼自身のやり甲斐にも繋がっているように感じた。
ただ、正規職員たちに目を向けると割り切れない気持ちになる。同じ営業担当だが、それぞれのやり方を見つけているから落ち着いたものだ。スタッフから聞かれれば教えるが、積極的に関わろうという気はない。
ケンイチも指導を任されてなければそうしただろう。矛盾を感じたのはスタッフ制度そのものに対してだ。「馬車馬のように働く」という表現は好きではないが、時間を惜しんで駆けずり回るスタッフの姿をみているとその言葉を思わせる。一方で正規職員はマイペースで「最低限」の仕事をこなせばよいというスタンスだ。なのに給料は3倍から4倍も差がある。正規職員は従来の評価制度に基づいたランクで給料が決まるのに対して、スタッフは「アルバイト契約」のようなものだから契約時の給料が支払われるだけなのだ。
当時は「派遣」が一般的ではなかった。数年後にはこの制度が世の中に受け容れられるわけだが、まだそれを知らないケンイチは納得できず、しかも自分を責めた。
「俺はあいつらの何倍も給料をもらいながら、それに見合う仕事をできているのか」
彼は会社が進める方針転換についていけなかった。
「これからは営業マニュアルに沿って活動してもらいます」
飛び込み訪問するときもマニュアル通りにやれという。
『玄関前で一礼⇒チャイムを鳴らす⇒A社の○○と申します。本日はお役に立てる新商品のカタログをお持ちしました…(反応がなければ、一礼してから去る)』
そのようにいくつかのパターンが決められており、何度も何度もロールプレイングを行って、それを徹底的に覚えさせるやり方だ。
ケンイチが入社した頃はもっと大らかだった。先輩と外回りをしながら訪問のやり方を学ぶのだが、マニュアルなどなく個性的で楽しかった。
「ええか青年。ピンポンを押して出てきてくれても、すぐ営業トークしたらあかん。しゃがみ込んで靴のヒモを結びながら、ふと顔を見上げて『奥さん、ちょっとカタログ見てもらえませんか』ちゅう感じで切り出すんや。自然体やな」
あの頃が懐かしい。ロボットみたいにロープレをさせられながらケンイチのモチベーションは急降下していく。
やがて何をやってもつまらなくなり、仕事のみならずプライベートでさえ辛く感じた。音楽を聴く気にもならず、テレビを見ても楽しめない。
「これって鬱病になりかけてるんじゃないか。このままでは潰れてしまう」
危機感を覚えたケンイチは転職しようと決意する。以前から興味があった整体の道に進むつもりで準備はしていた。
「どうせ反対しても聞かんとやろ」
妻に相談すると呆れながら言われた。なんと重たい一言だろう。全ては自分の責任であり、家族を困らせるわけにはいかないと身が引き締まった。
20年続いたサラリーマンを辞めて整体師となったケンイチ。既存の整体院に雇われるのではなく個人経営からスタートした。例え師匠のもとでも、また組織に所属して働く気にはなれなかったのだ。
自分でチラシを作ったり新聞広告を出して宣伝したところそれなりに反応があった。しかしケンイチは施術は出来てもセールストークになると二の足を踏んでしまう。サラリーマン時代に嫌というほどやったから、心機一転はじめた整体で同じことする気にならない。するとよほど施術に感動しない限りリピーターにならず、来院者は増えないことを思い知った。
「先生、なんか腰痛が軽くなったみたい。みてもらってよかったですぅ」
そう言われるとやはり嬉しいが、そこから「では三日後に来てください」と言い出せず、詰めが甘くなってしまう。
整体だけでは収入が足らず、かといってアルバイトに出るわけにもいかない。ケンイチは整体の合間に出来る仕事を探すためネットの求人情報で「在宅OK」を検索して条件が合うところに応募した。そうやって運よく採用されたのがニュースライターの仕事である。担当記者として書いた記事が掲載されれば報酬になるというもので、契約は交わさぬフリーライター的な扱いだ。
副業でフリーライターをはじめたつもりだが、やがて整体よりも収入が増えてどちらが本業か分からなくなった。
2020年に入ると新型コロナウイルスが猛威を振るい「緊急事態宣言」が出されて「ステイホーム」が呼びかけられる。ケンイチも整体院を休業することにした。
ところがライター業界もコロナ禍の余波で不況となり、記事単価も案件も減る一方だ。ケンイチは再び求人情報サイトでライターの仕事を探す。コロナ禍でリモート会議が広まったため、履歴書による一次選考を通過すれば面接をリモートで行うのが一般的になっていた。
30件近く応募して面接までこぎつけたのは5社だけ。すでに50歳を超えていたケンイチにとって、面接官は年下ばかり。我が子と同年代の若者もいた。もちろん真摯に面接を受けたが採用してくれたのは3社だった。大学時代の就活をほとんどしなかった彼は遅くしてその厳しさを知ることとなる。
3社はそれぞれ記事のカラーが違い、全国各地の移住情報を紹介する記事や観光地の見どころを紹介する記事、様々な企業の商品を紹介する記事などを求められた。また3社とも文章を書くうえで表現の仕方にルールがあり、それを使い分けねばならない。
フリーライターとして様々な記事を書いているうちに、気づけば15年が過ぎていた。「偶然のようでもすべては必然だ」というが、振り返ればそんな半生のように思う。ケンイチは今また、それを実感しているところだ。
忘れもしないあのカルト教団と、あろうことか政治家が癒着しているとの疑惑が報じられた。
「まさか、そんなことが事実ならば世も末じゃないか」
政治にあまり関心がなかった彼もさすがに看過できない。カルト教団と政治家の関係について情報を集めるが、ネットではSNSなどで目にする一方でテレビや新聞はほとんど報じていないことに気づく。
「マジか。もうすぐ衆院選がはじまるっていうのに、こんな大問題を知らせなくてどうすんだ」
「カルト教団の怖さをよくわかってない。危機感がないから取り上げないのだろう」
はじめはそう考えたが、調べると文春や日本共産党の機関誌ではかなり具体的に追求している。つまり大手メディアは疑惑を知りながら報じていないのだ。
「そんなバカな。これほど深刻な問題を国民に周知せず選挙を行うなんてあり得ない」
SNSに書き込むが、当然ながら反響はほとんどない。己の力不足を思い知るとともに焦りも加わって怒りがふつふつと湧いてきた。
やっとその問題を特集したテレビ番組が放送されると画面に釘付けとなる。
「すごい。与党とカルト教団の癒着ばかりか、議員の国保逃れまで取材してる。きっと他のテレビ局もやってくれるだろう」
ケンイチは期待したが願ったようにはならなかった。TBS『報道特集』だけが政党や政治家の矛盾を追い続けるなか、他局は知らんふりなのだ。
SNSや『報道特集』から情報を得ていると、思わぬ実態を知り新たな衝撃を受けた。
「“働いても働いても”抜け出せない過酷な貧困、非正規雇用890万人」
労働者のうち、安心して生活できる賃金をもらっておらず、経済的に苦しくて結婚できない、子どもを産み育てることもできない非正規雇用者が890万人(全体の13.9%)もいるという。約7人に1人が占めるこの層を「アンダークラス」と呼んでいた。
ケンイチがサラリーマン時代にスタッフ制から感じた矛盾はじわじわと広がっていたのだ。
「なんてこった。しかも『アンダークラス』の人たちは日々の生活に追われて余裕がない。支持政党のない人が多く、投票率も低いだなんて。やっぱり日本の政治はおかしいよ」
このままではいずれ自分や子どもたち、さらに次の世代となるにしたがい貧困が広がってしまう。彼は言いようのない不安感に襲われた。
しかし反骨心も失ってはいない。
「今こそ、坂本龍馬やジョン・レノンから教えてもらったことを繋ぐべきだ」
ケンイチは憧れの英雄たちが世の中を正そうとしたように、自分に何が出来るか考えた。
漫画家の黒鉄ヒロシさんは高知県出身だ。『坂本龍馬』のなかで江戸・明治時代を生きた土佐の「曾々祖母さん」(ひひばあさん)から伝わる話を記している。
幕末の日本を奔走した坂本龍馬の噂は尾ひれをつけて土佐まで聞こえ「怖い怖い龍馬さん」との印象が強く「龍馬さんが来る!」と聞くだけで子どもたちが泣き止んだ。
逃げ遅れた若き曾々祖母さんに「いずれ、均(なら)しの世が来るぜよ」と龍馬さんが笑いながら話しかけたという。
またジョン・レノンはベトナム戦争が激化していた1971年に発表した『イマジン(Imagine)』で「天国も地獄もない、国も宗教もなくてただ平和に生きている。世界はひとつになり、皆で世界をわかちあう」と歌っている。
ジョンはさらに「僕のことを夢想家だと言うかもしれない。でも僕一人じゃないはず」という。
「龍馬はまだ幕藩体制のときに『日本を今一度、洗濯いたし申し候』と乙女姉さんへの手紙で書いた。型破りな考えをはじめは大風呂敷だと相手にされなかったけれど、薩長同盟を成功させて明治維新へのきっかけを作ったじゃないか。ジョンだって『イマジン』だけじゃなく『ギブ・ピース・ア・チャンス』や『パワー・トゥ・ザ・ピープル』、『ハッピー・クリスマス(戦争は終った)』を歌って平和を呼びかけたじゃないか」
ケンイチは敬愛する2人が辿った道を振り返りながら胸が熱くなるのを感じた。
「『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』(フランスの作家ジュール・ヴェルヌ)という名言のように、夢はきっと実現できるはずだ。坂本龍馬やジョン・レノンの希望を繋いでゆくのが俺の役割ではないか。彼らのような影響力はないけれど、俺なりのやり方で伝えていくのだ」
運野ケンイチは「ありたい自分」の姿を見つけて、残りの人生をそのことに捧げようと誓った。
―了―
【参考資料】
TBS NEWS DIG『“働いても働いても”…抜け出せない過酷な貧困 非正規雇用890万人 30年で広がった格差社会 政治の責任は?【報道特集】』
