【考察】敢えて「正解」を求めてみる(♯4)
職業柄、翻訳や通訳に携わることがあります。旧約聖書の『創世記』第11章では、町と塔を建てて天に張り合おうとした人類への罰として、神が「そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」と決意した逸話が紹介されます ー 「人里に雪がしんしんと降る」とか「〇〇をもって私の御挨拶と代えさせていただきます」というような表現に触れるたびにどう外国語に訳そうか戸惑っている私は、世界中の言語が同じだったら如何に楽だったか、と思わなかったことがないわけではありません。
♯2と♯3の記事の一貫したテーマとして、「正解」について触れてきました。特に♯2では(以下御参照ください♪)、「正解」を求めない姿勢を自分のライフワークとし、「余白の美」を甘受していきたいことに触れました。今日の記事は結論ファーストで書き進めましょうか ー この記事では敢えて「正解」を求める営みについて触れてみたいと思います。
そもそも、「正解」ってなに?
前提として、人生において「正解」を求めるとはどういう営みでしょうか? 森羅万象の中から、絶対的に「正しいもの」を択び、それを自己に内在して決定を下す行為でしょうか? あるいは、何かを「正しく」理解し、その正しさに立脚して別の「正しさ」を生産する所作でしょうか?
この問に向き合ったとき、私は、「正解」とは、しばしば「最適解」の意味で使われるのではないか、と思うに至っています。よく似たこの2つの言葉ですが、「正解」には何か絶対的に正しい答えが想定されているのに対し、「最適解」は置かれた状況の中で最もぴったりなものを択ぶことが念頭に置かれているのではないかと思います。
「正解」が仮に「最適解」の意味で使われているのであれば、森羅万象から絶対的に「正しいもの」を択ぶことは「正解」に含意されませんし、もっと言えば、人々の価値判断が異なるものについて「正しく」理解したつもりになって別の「正しさ」を生産することも、「正解」に期待された営みとは言えないでしょう。日常において「正解」という言葉を使うときに暗に脳裏にあるのは、人々によって価値基準が異なる物事の中に「相対的に正しいもの」を見つけ出している点にあるのではないかと思います。
差し当たり、日々の中で触れる「正解」は、「5+2=7」のような普遍の真理ではなく、あくまで相対的な正しさなのだと結論できそうです。
「相対的に正しいもの」の「正しさ」を考える
「正解」が「相対的に正しいもの」である結論をとりあえず信じて、筆を進めてみましょう。振り返れば、私は♯2の記事の中で、次のように記しました。
「正解」を求めない営みは、世界の解釈に幅を持たせることを許容する「余白の美」の是認とも言うべきか、私たちが日々を過ごす上での良き処世術になるのではないか、と思っています。
この記述は、「正解を求めない営み」がもたらす効果の観点から、2つのパートに分けて分析するのが良さそうです ー 1つめは「① 世界の解釈に幅を持たせることにつながる」という点、2つめは「② 良き処世術になる」という点です。
① 「正解」を求めない営み = 世界の解釈に幅を持たせること
1項目めで結論した「正解」の定義に倣えば、この命題は、「相対的に正しいもの」を求めない営みは世界の解釈に幅を持たせることである、と読み替えることができます。読み替え後の命題の対偶を取れば、世界の解釈に幅を持たせないことは「相対的に正しいもの」を求める営みである、とでも言えそうでしょうか?
世界の解釈が並ひと通りであることは、その解釈に基づいて「正しいもの」を求める所作もひとつに、言うなれば「絶対的に正しいもの」に収斂することを意味しそうです。中学校時代の数学の先生から、元の命題の仮定と結論を入れ替えて否定した結果の真偽は元の命題の真偽に等しいと習った記憶があります ー とすると、元の命題は「偽」ということになってしまいますね…
ただ、「世界の解釈が並ひと通り」な状況はそもそも想定されるのでしょうか? 「真実はいつもひとつ!」と豪語するコナン君の世界ならまだ分かりますが、現実世界では、「事実」というリンゴに対して、「赤い」とか「大きい」とか「王林ではない」といった複数の「真実」が存在するはずです ー 命題の前提となるような状況が起こり得ないと感じたのは私だけでしょうか? コモンセンスを得られるのであれば、背理法的に考えても、「正解」を「最適解」と読み替えた1項目めの結論に問題があったことになります。
脆くも1項目めで考えた結論は崩れてしまいましたね、バベルの塔のように…
② 「正解」を求めない営み = 良き処世術になる
①で1項目めの結論が崩れてしまった訳なので、ここでは「正解」を「絶対的に正しいもの」と解釈して話を進めて良さそうです。この場合の命題作成は至ってシンプルで、辞書的な意味に則って命題を作れば良く、「絶対的に正しいもの」を求めない営みは、良き処世術である、となるでしょう。
この命題は、対偶を取るまでもないと思います ー 処世術が社会生活を円滑に進めていくための知恵や技術を意味する言葉であることに鑑みれば、相手に「真実」を押し付けない行為が社会生活を円滑にすることは明らかだからです。
③ 「正解」の内実はやはり…
②でも所与としたとおり、①の「証明」の結果、仮に日常生活において「正解」が「最適解」を求める営みに翻訳されてしまっていることがあったとしても、実際のところ、「正解」は「絶対的に正しいもの」に過ぎない、と言うことができそうです。
・・・ところが冒頭、私は「正解」を求める営みについて触れてみたいと述べました。この記事の最後に、「絶対的に正しいもの」を求める営みが詰まった玉手箱を少し開けてみようと思います。
翻訳や通訳に「正解」はあるか?
よく「言葉は生き物」というタームを聞きますが、時代や文化によって、また話者や地域によって言葉が変遷するのは、今に始まったことではありません。日々生き物のように代謝する言葉ですから、早く走れる日もあれば、眠くなってしまう日もあるでしょう ー 翻訳や通訳は、かかる言葉を別の言葉に変換する営みですから、リレーの真っ最中の言葉を熟睡させなければならない場面も当然に生じ得ます。
あるコードを別のコードに書き換える営みでは、当然、それぞれのコード(文法、語彙、話法…)については体認しつつ、手元にコード同士の暗号通話表を置いておかなければなりません。ここで言うコードを体認する営みには、私が♯2の記事で羨望した事柄とは裏腹に、絶対に間違えてはならないものが多くあります ー なぜ「山」を「山」と書くのか、どうして montagne は女性名詞なのか。そういうものだからです!
ときに、いま私の頭の中にある暗号通話表では、「人里に雪がしんしんと降る」は "La neige tombe doucement dans le village." となりそうですし、「〇〇をもって私の御挨拶と代えさせていただきます」は "Je tiens à vous remercier." と表すような気がします。10秒もらえれば別の訳も出てくるかもしれませんが、こと通訳の場合は、そんなに沈黙していたら相手方に心配されてしまいます(笑)
咄嗟に出てくる暗号通話表上のコードは、いまの私にとっては、そこに安住したくなる他ならない「正解」です。5+2=9と答えていたとしても、背理法で証明している途中で元の命題が真であったことに気づいてしまっても、突き進むほかない「正解」なのです。この観点から言えば、♯2の投稿で記した「『正解』を求めない営みは、世界の解釈に幅を持たせることを許容する『余白の美』の是認」というマインドは、刹那に交換と接続を繰り返すコードの前ではまったく非力であって、だからこそどうしても「正解」という藁にすがりたくなってしまうのでしょう。
「正解」を求める営みは「余白の美」の否認なのか ー おっと! またもや元の命題の対偶をとって背理法で証明し始めそうになりました。
※ ヘッダー画像はGeminiに単に「『正解』をテーマに画像を生成してください」と言ったら出力されたものです。AIの進化はすごい…!
