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【短編小説】『傘に残された記憶』ー前編ー

「誰かを待つ人」


春になると、駅の風がやわらかくなる。

朝のホームに立つと、どこか遠くの街から季節が流れてきたような匂いがして、私はいつも少しだけ立ち止まる。

この日も、制服に袖を通したばかりの中学生たちが親に付き添われて電車を待っていた。
新しい学生鞄を肩にかけて、緊張と期待が入り混じった表情をしている。


入学式なのだろう。
そんな風景を見ていると、今日という朝に、やわらかな季節が巡ってきたことを感じた。
桜が残した花びらの名残が、ホームの片隅でくるりと回る。

──最初にその女性を見かけたとき、なぜか印象に残った。

通勤の途中、柱のそばに傘を持って立っている誰かがいた。ただ、それだけの風景のひとつだった。
その日は雲ひとつない晴れで、傘を差す理由なんてどこにもなかった。
それでも彼女は、静かにそこに立っていた。

少し気にはなったが、私は足を止めることもなく、ただ通り過ぎた。
なんとなく、頭のどこかに引っかかるような感覚だけが残っていた。
あの日の朝、晴れているのに傘を持って立っていた誰かの姿が、ふと記憶の片隅に居座っていた。


翌年の同じ時期、私は同じホームでふと足を止めた。

柱のそばに、傘を手に持って立っている女性がいた。
その瞬間、胸の奥に柔らかなざわめきが広がった。前にも、同じような光景を見た気がする。
晴れた朝に、なぜか傘を持って立っていた誰か。あの時は深く考えなかったが、今になって、あの光景がふいに蘇る。
風の揺れ方も、彼女の立ち姿も、そのときとよく似ていた。

記憶はまだぼんやりとしていたけれど、あの春の朝と今が、少しずつ重なっていくのを感じていた。


三度目の春、そして初めて雨が降った。

その日も彼女はいた。
彼女がそこにいることで、春が来たことを実感していた。
人々が慌てて傘を広げる中で、彼女だけがすでに差していた。
その傘は、どことなく男性物のようにも見えた。柄の色も形も、彼女の雰囲気には少しだけ似合っていない気がした。

──まるで、この日のために、ずっとそこに立っていたように見えた。

私は、少し迷った末に思いきって声をかけた。
「……どなたか、待っているんですか?」

彼女はゆっくりとこちらを向いた。
ふっと笑みを浮かべながら、どこか言葉を探すように口を開いた。

「わたし、誰を待ってるんでしょうね……」
そう言って、彼女は笑って、空を見上げた。

その声は思っていたよりも澄んでいて、でもどこか遠くを見ているようだった。
それだけを言って、また前を向いた。

それ以上、私には何も言えなかった。


それ以降、彼女の姿を見かけることはなかった。
春が来ても、駅にはもう彼女の姿はなかった。

それでも私は、無意識に毎年同じ柱のあたりを見ていた。
彼女が立っていたあの場所を、何もないホームの風景の中に探していた。


そんなある年の朝、不意に気づいたことがあった。
──私は、手に一本の傘を持っていた。

通勤の途中、ふと手にしていたその傘。
最近、どこかで拾ったのか、誰かから借りたのか──それさえも思い出せない。

朝の支度の中で、何気なく選んだはずなのに、どこか見覚えがあった。
そして、その傘の柄に、細い傷が一本走っていた。
それは昔、どこかの角にぶつけてできた傷で、たしか、昔よく使っていた傘だった気がする。

いつの間にかどこかに置き忘れて、それ以来見かけなかったはずなのに──
いま、手の中にある。
それが、どうしてなのかはわからなかった。

私はしばらく、その傘を見つめたまま、動けなかった。
何かが引っかかっている。何かを、思い出せそうな気がする。
けれど、その“何か”がまだ言葉にならない。

私は傘を見つめたまま、胸元にそっと抱いた。
私はただ、風に背を押されるように歩き出した。


次回:後編『風に還った記憶』


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