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昭和の記憶⑪ ― N医院の思い出

昭和40年代、3キロ先の「N医院」へ母と歩いて通った日々がある。木造の診察室、鉄橋の轟音、虫の声、そして見習い看護婦スーちゃんとの思い出。後に医院は鉄筋コンクリートへ建て替えられ、その後20年ほど地域に根づいていたが、院長の死によって閉院した。幼い日の記憶をそっとたどります。


県営アパートに暮らしていた昭和40年代。すぐ隣には県立病院があったが、風邪や発熱のときは、なぜか3キロほど離れた「N医院」で診てもらっていた。県営アパートに引っ越してまもなく通い始めたので、年長のころからだったと思う。

父がいるときは、自転車の後ろに乗せてもらって向かった。だが、母と行くときは徒歩だった。母は自動車免許どころか自転車にも乗れなかった。具合が悪い中、3キロを歩く道のりは、小学生の私にはやけに長く感じた。

アパートを出てしばらくは民家が立ち並んでいたが、裏山を曲がったあたりからは一面の田んぼが広がった。学校から帰って具合の悪いことが知れると、夕方から母に連れられて歩くことになる。田んぼを抜け、国鉄の鉄橋の桁下をくぐると医院はもうすぐだった。その鉄橋の桁下は2メートルほどしかなく、子どもの私たちはよく真下で列車の轟音を聞いて遊んだものだった。

「N医院」は木造の建物だった。玄関も診察室も薬局も、床にいたるまで板張り。なかでも診察室は印象深い。広い部屋の真ん中に机がぽつんと置かれ、小さかった私には天井が大聖堂のように高く見えた。院長の大きな声が、その天井に響き渡った記憶がある。また、壁には立体的な人体模型の絵が飾られ、院長が座る椅子の前には、ビロードが張られた患者用の丸椅子が置かれていた。冬は石油ストーブが焚かれていたが、広すぎて暖かさが追いつかなかった。

なぜその医院に通うようになったのかは分からない。しかし父も母も、院長とは昔からの知り合いのように親しげに話していた。院長は鉄腕アトムの「お茶の水博士」によく似た風貌で、私も親しみを感じていた。看護婦(当時の呼称)は二人ほど雇われており、家族のように温かい雰囲気があった。

診察を終え、薬を受け取って帰るころにはすっかり暗くなっていた。夏にはカエルの合唱、秋にはコオロギの声が響き、街灯のほとんどない真っ暗な道を、母の手をぎゅっと握りしめて帰った。

看護婦の一人は、皆から「スーちゃん」と呼ばれていた。おそらく看護学校に通う見習いだったのだろう。私たち兄弟をよく気にかけてくれ、診察が終わると調剤をしている薬局の中にまで連れて行ってくれた。幼いながら、兄も私もその「スーちゃん」に淡い恋心のようなものを抱いていた。今思えば、ずいぶん邪魔だったかもしれない。

小学校4年生の夏休み、兄と二人でスーちゃんの実家に遊びに行くことになった。山間の村から街の看護学校に進学して、学校が終わると街の医院で働く、そんな生活だったのだろう。実家のすぐ下を流れる小川で兄と泳いだが、水が濁っていて、泳げなかった私は深みに落ちてしこたま水を飲んだ記憶がある。

その後、スーちゃんが医院を辞めたと聞いたときはショックだった。ずっとここで働くものと思い込んでいたからだ。看護婦になれたのか、実家に戻ったのか、確かな記憶は残っていない。ただ、私が年長から小学校5年生ごろまで勤務していたことだけは覚えている。おそらく途中で正式な看護婦になったのだろう。

そして――。
N医院は、私たちが県営アパートから引っ越したのとほぼ同じ時期に、木造の建物の南側に鉄筋コンクリートの新しい建物へと生まれ変わった。しかし、20年ほどして院長が亡くなり、医院は閉院してしまった。

あの木造の医院、スーちゃん、“お茶の水博士”のような院長、昭和の匂いのする帰り道と、母の手の温もりは、私の記憶の中で静かに残っている。

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