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あなたで生きて、あの人で女になる【1】



vol.1   あの人からの連絡



その日は、朝からずっと人の人生の話を聞いていた。

今の会社に残るべきか。
転職したら年収は下がるのか。
自分に向いている仕事がわからない。
何者にもなれていない気がする。

そう悩む人たちと、日々向き合っている。

「まずは、あなたが理想とする生活をイメージして教えてください」

そう聞いても、返ってくる言葉はたいてい曖昧だ。

安定したい。
無理なく働きたい。
自分らしく生きたい。

どれも間違ってはいない。
けれど、そのままでは先に進めない。

私は、その人の言葉にかかったモヤを少しずつほどきながら、輪郭のない理想に具体的な形を与えていく。
そういう仕事をしている。

でも、そんな私自身の生活が、明瞭に期待した通りの形になっているとは言えない。

今日も帰宅したのは、22時を少し過ぎたころだった。

パンプスを脱いで、鞄を床に置いて、冷蔵庫の中をぼんやり眺める。

昨日作った味噌汁と、半端に残った鶏肉。
ちゃんと食べた方がいい。
明日も朝から仕事だし、夜は副業の資料を作らなきゃいけない。
仕事をしっかりこなすために、生活も整えなければならない。

冷蔵庫の中の食材に手を伸ばしたとき、スマホが鳴った。

画面に表示された名前を見て、私は一瞬だけ息を止めた。

隼人さん。

会うのは、向こうがこちらに出張で来るときだけ。
私から連絡したことは、ほとんどない。
それでも隼人さんは、忘れたころに必ず連絡をしてくる。

まるで、私が自分から選ばなくてもいいように。

《来週そっち行くよ》

たったそれだけの文字なのに、喉の奥が少し熱くなった。

私はすぐには返さなかった。
返さないことで、自分がまだまともな場所にいる気がした。
待っていたわけじゃない。
会いたかったわけじゃない。
ただ連絡が来ただけ。

今は、そういうことにしておきたかった。

キッチンに立って、鶏肉を切った。
包丁の音が、やけに大きく聞こえた。
そのとき、またスマホが鳴った。

《はなちゃん、忙しい?》

はなちゃん。

その呼び方が、少しむず痒い。


洸祐は、私を「はな」と呼ぶ。
短くて、雑で、生活の中に当たり前に存在する呼び方。
機嫌がいいときや、甘えてくるときだけ「はーちゃん」と呼ぶ。
そのたびに、私は少しだけ力が抜ける。

隼人さんの「はなちゃん」は、それとは違う。

やわらかい。
丁寧。
少し遠い。
身体の距離はとっくに近いのに、呼び方だけは、お互いずっと他人行儀なまま。
だけど、それが心地良くもあった。

私はスマホを伏せた。
返さない。
今日は返さない。
そう決めて、味噌汁を温めた。
そのタイミングで、洸祐から電話が来た。

「なにしてんの」
第一声がそれだった。
「ご飯作ってる」
「今から?」
「今帰ってきたんだから」
「こんな時間からよくやるわ。なんか買えばよくない?」

洸祐はいつもこうだ。
冷たく言い放つ。
でも、悪気はない。
ただ効率の話をしているだけ。

「別に作るって選択肢を選んでも良くない?」
「はな、疲れてるときに料理すると機嫌悪くなるじゃん」
「決めつけんな」
「事実じゃん」
「事実でも言い方ってもんがあるでしょ」
「あらら。怒っちゃいまちたか〜。怖いでちゅね〜。落ち着いて落ち着いて〜」
「うざ」
「はいはい、料理がんばってくだちゃいね〜」
「……」

電話の向こうで、洸祐が少し笑った。
洸祐は、こういう男だった。
思ったことをすぐ言う。
人を逆撫でするような言い方をする。
腹が立つ。
何度も本気でむかついたことがある。
こちらの熱が上がるほど、馬鹿にしたような扱いになる。

でも、変に気を遣いすぎない。
私を女だからと特別な箱に入れない。
それが洸祐だった。

「明日、仕事何時から?」
「朝から。夜は副業」
「また休みないじゃん」
「うん」
「馬鹿なの?」
「は、うるさい」
「最近肌荒れすごいけど」
「忙しい時期なんだから仕方ないじゃん」
「仕事量、調整できるでしょ」
「仕事好きなんだからいいでしょ」
「まあ、倒れずやってよ」
「こうちゃんより体力あるから」

電話の向こうで、洸祐がまた笑った。
私はその声を聞きながら、温めた味噌汁を器によそった。
むかつく。
だけど、気を遣わない物言いが、逆に気持ち良くもある。
私が何日も抱えていた不安を、洸祐は片手で雑につまんで、
「それ、今考えることじゃなくない?」
と一蹴してしまうことがある。
そのたびに腹が立つ。
でも、救われてもいる。
私は、こんなに悩まなくていいのかもしれない。
人の目を気にして、失敗を先回りして、自分で自分を止めなくてもいいのかもしれない。
着飾らない洸祐は、私にそう思わせた。

「はな」
「なに」
「ちゃんと食べて寝ろよ」
「はいはい」
「ちゃんと仕事は調整しなよ」
「しつこい」
「はーちゃんすぐ無理するから」

はーちゃん。

その呼び方をされると、私はいつも少しだけ負ける。

「……まあ、気が向いたらね」
「絶対仕事減らさないやつじゃん」
「うざい」
「あら怒ってる。かわいいでちゅねえ」
「きもい」
「かわいいかわいい」
「しつこい」
「かわいいから仕方ない」

電話を切る前に、私は小さく笑ってしまった。
無理しすぎてしまう癖があるのは、自分でもわかっている。
それを洸祐は、遠慮なく止めにくる。
鬱陶しい。
でも、それくらいがちょうどいい。

洸祐は、私の未来にいる人だと思っている。
この人となら、たぶん生きていける。
面倒くさいし、腹も立つし、何度も傷ついた。
それでも、この人は私をちゃんと現実に戻してくれる力がある。
私が自分を見失ったとき、私より先に、私の使い道を見つけてくれる。
だから、私は洸祐を失いたくない。
失いたくないのに。

電話を切ったあと、伏せていたスマホを裏返した。
隼人さんから、もう一通来ていた。

《無理ならいいよ。でも会えたら嬉しい》

いつもそうだ。
責めない。
急かさない。
なのに、私の中に小さな引っかかりだけを残していく。

私はその文章を、何度も読んだ。
無理ならいいよ。
そうやって、私が断れるように逃げ道を作ってくれている。
その言葉が本当の優しさなら、どれだけ楽か。

でも私は知っている。
隼人さんは、私が断らないことを、たぶん分かっている。

味噌汁はまだ温かかった。
洸祐の声も、耳の奥に残っていた。
ちゃんと食べて寝ろよ。
そう言ってくれる人がいる。
私の明日を心配してくれる人がいる。
私の未来の中に、当たり前みたいに立っていることが想像できる人がいる。

それなのに私は、別の男からのLINEを開いている。

最低だと思う。
でも、最低だと思っただけでやめられるなら、
人は最初から間違えたりしない。
私は親指を動かした。

《日程わかったら教えてください》

送信した瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
会いたい、とは書かなかった。
でも、会わないとも書かなかった。
それが私の、いつもの逃げ方だった。






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