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マティスとモデルを務めた女性たち マティス展後期④ ただ「奴隷のように」ポーズに従う

妻が去ってしまってからも、画家として、ひとりの人間として、多くの女性たちに支えられていたマティス。彼女たちにとってマティスはどのような人物だったのでしょうか。

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女性たちから見たマティス ー ジャクリーヌ・デュエムとリディア・デレクトルスカヤ

1938年、第二次世界大戦大戦の影が迫る頃、マティスはホテル=レジーナに居を移し、そこにアトリエを構えます。このときマティスは69歳。
のちにホテル=レジーナ時代と言われるこの頃から亡くなるまで、マティスの周りには何人かの助手がいて、戦争の不安や体調不良に苦しむ彼を支えていました。

助手の一人であるジャクリーヌ・デュエムは当時のことを次のように語っています。

……マティスは…手術以来、起き上がるのは1日に1、2時間で、ほとんど寝たきりにしていなければいけなかったので、助手がいなければ何もできませんでした。彼は昼食時まで仕事をします。当時は『ポルトガルふみ』の挿絵の準備として、デッサンを描いていました。顔のモデルが必要だったので、私が彼のためにポーズしました。彼はこわばった表情が嫌いなので、ポーズしながら私に鉛筆を削らせたり、紙にグワッシュを塗らせたりしました。…

……6月末、私たちはパリに向かいます。……
国鉄が私たちのために特別車両を仕立ててくれ、マティスは「大きな寝台と客間」を使います。リディアは「スウィート」についている寝台を使い、私たち、つまり看護婦、料理係、私はその横の3つの寝台を使います。…リヨン駅への到着はとても目立つので、私は「アンリ・マティス・チーム」の一員であることを、少からず誇らしく思いました。

ジャクリーヌ・デュエム(1986)
『Line et les autres』
グザヴィエ・ジラール(1995)
『マティス ー色彩の交響楽』p.150-153より

この文章から、晩年のマティスは体力的にかなり衰えており、制作活動も含めた生活全般において助手たちに頼っていたことがうかがえます。

助手の立場からすると、仕事に介護に…と負担は大きかったと思うのですが、少なくともジャクリーヌは、マティスのもとで働くことを好ましく感じていたようです。

他の女性たちはどうでしょう。

1930年代から亡くなるまでマティスを支え続けたリディア・デレクトルスカヤは、もともとロシア人難民でした。
1910年にロシアで生まれ、まだ幼いうちに孤児となったリディアは、1917年のロシア革命を機に中国に亡命します。その後フランスに移り住み、職を転々とする中、1932年、22歳のときにマティスのアトリエの助手の仕事に応募するのです。

恵まれない境遇であったにもかかわらず、リディアは学問に対する熱意が強く、一時は医学部に在籍していたという知的な女性で、マティスの助手としても高い能力を発揮しました。

ホテル=レジーナ時代のリディアの仕事としては、デッサンのモデルを務めたり、切り紙絵の準備をしたりといった制作活動に関わるもの、依頼の調整などマネジメントの仕事、他の助手やモデルたちの雇用管理などがあげられます。
しかし時は第二次世界大戦の真っ只中。マティスたちはドイツに占領されたフランスに留まっていたわけですから、食糧の調達や疎開の準備などといったことも必要だったはずで…

リディアはそうしたマティスに必要なこと全てに従事しただけでなく、マティスが亡くなった後も展覧会を組織したり、生前のマティスに関する本を執筆したりと積極的に活動しました。生涯にわたって、マティスとその作品に惜しみなく貢献したのです。

いま私たちは、かつてマティスがどのように作品と向き合っていたのか垣間見ることができますが、それは当時を知る人々が残した記録があってこそ。そしてマティスに関する記録は証言だけでなく、写真という形でも残されています。

皆さんも一度は目にしたことのある、晩年のホテル=レジーナ時代のマティスの姿。おしゃれに飾られたアトリエの中、車椅子で切り紙などをするマティスが印象的です。
こうした写真のクレジットを見るとエレーヌ・アダンという名がありますが、実は彼女はリディアの従姉妹でした。細かな経緯はわかりませんが、おそらくリディアが仲介するような形で、エレーヌがアトリエに出入りするようになったのではないでしょうか。

モニック・ブルジョワとロザリオ礼拝堂

第二次世界大戦中の1941年、マティスは緊急搬送され、リヨンで腸の手術を受けます。余命6か月と言われる中、奇跡的な生還を遂げたマティスですが、その後、常時介護が必要になりました。

このとき夜間の看病のために雇われたのが、モニック・ブルジョワという女性です。

ほどなくして彼女もモデルとして見込まれ、無数のデッサンや油絵に登場するように。マティスは亡くなるまで彼女を愛したと言われていますが、モニックはわずか5年ほどで彼のもとを去り、ジャック=マリーという名の修道女となっています。

このときマティスと彼女の間にどのようなことがあったのか定かではありませんが、離れた後も、モニックが彼を遠くから支えていたのは事実のようです。
のちにマティスにドミニコ会のレシギエ修道士を紹介し、ロザリオ礼拝堂に導くという非常に重要な役割を果たしたのが、このモニックだったのです。

妻アメリーにはじまり、ジャクリーヌ、リディア、モニック…マティスの周囲の女性は皆、惜しみなく彼を愛し支えているように思われますが(アメリーやモニックのように彼のもとを去る人もいますが、それでも)、それには何か理由があるのでしょうか。

モデルに対するマティスの態度 ー 奴隷のように従い、相手にも快適さを

マティスは、快適な空間で過ごすことに重きを置き、美しく飾ったアトリエの中で作品を生み出してきました。
自然な快適さの中から最良なものが生まれるという考えは、自らの生活だけでなくモデルに対しても向けられていたようで、マティスは以下のように語っています。

私のモデルたち、すなわち人体は室内画の〝脇役”ではありません。彼女たちは私の仕事の最大の主題です。私は完全にモデルに依存しています。そしてモデルに自由に振る舞わせて観察します。そして次に、モデルの本性に最も適合するポーズを決めるのです。新しいモデルを雇ったときは、休憩中のくつろいだ姿を見て彼女にあったポーズを推量し、そのポーズを徹底的に尊重します。こうした若い女性たちを、興味を失うまで何年も雇うこともしょっちゅうです。…

レイモン・エスコリエ(1956)
『マティス、この生ける者』
グザヴィエ・ジラール(1995)
『マティス ー色彩の交響楽』p.168より

これは上に記したジャクリーヌの「彼(マティス)はこわばった表情が嫌いなので…」という証言とも重なります。
(一方で、この「興味を失うまで」というマティス言葉には芸術家らしい残酷さを感じ、彼の元を去った妻アメリーに同情してしまうのですが…)

マティスのアトリエには、満足に食事もとれないモデルのために(マティスは自身が納得するまで何度も何度も繰り返しデッサンを重ねることでも有名です)、必ずお茶やお菓子が用意されていたそうで、それらはニースでも評判の名店で買い求められたものでした。

またジャクリーヌによれば、当時マティスのパリの滞在先には多くの人が訪ねてきて、その中にはバレエ・ダンサーで振付家のローラン・プティやパリ・オペラ座のプリマ・バレリーナ、イヴェット・ショヴィレもいたのだとか。

「彼女の踊る“リファール(ロシア出身の舞踏家・振付家)風“の“瀕死の白鳥“をみて心が躍った」とジャクリーヌは述べています。
(このときローラン・プティはバレエの舞台装置を頼みにきたそうで…マティスがその気にならず実現しなかったそうですが、なんとも残念ですね。)

マティスの周囲の女性たちを見ると、一見彼女たちのほうがマティスに献身的なようにみえますが、実はその逆だったのかもしれません。

快適でくつろいだ空間ではたらくことができ、既に巨匠としての地位を確立しているマティスが、自分たちを観察し、自然な姿を引き出し、そのポーズに「奴隷のように」従ってくれるのですから。美しく刺激的な芸術に触れながら、彼女たちは生き生きと過ごすことができたのではないでしょうか。

だからこそ彼女たちが語る言葉や残した写真がこんなに魅力的にうつるのかもしれません。そしてそのことがマティスの作品をより一層素晴らしいものにしているように思うのです。

【参考】
グザヴィエ・ジラール著、高階秀爾監修、田辺希久子訳(1995)『マティス ー 色彩の交響楽』創元社
山本ゆりこ(2012)『芸術家が愛したスイーツ』ブロンズ新社


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