#97 望月の歌
昨夜の月は、ほぼ満月の十六夜月であったが、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に藤原道長がかの「望月の歌」、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」を詠んだ夜とほぼ同じ形の月であったという。道長が見上げた月を、我々も見上げることができたわけだ(実際には曇り空で見えなかったが)。奇しくも今夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも同じ場面が放送されることとなり、制作陣の細やかな演出が改めて浮き彫りになった。
筆者は高校生の頃は世界史を選択したため、日本史の授業は受けていないが、中学生の時に習ったものか、「望月の歌」は覚えていたし、栄華を極めた道長の驕りや専横を象徴する和歌、すなわち、「この世で自分の思いのままにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが完全にそろっている」の意として刷り込まれている。
しかし、近年の解釈は全く異なり、「この世」は「この夜」にかかり、「我が世」は「気分のいい楽しい時間」、「望月」は「盃を持ちまわっている状態」にかかり、さらに「月」は皇后でもあり、「望月」は三后(太皇太后・皇太后・中宮)を道長の娘たちが独占していることにもかかっているという。宴の様子を詳細に記録した藤原実資の日記『小右記』には、道長を批判したり、否定的に捉える気配は全くなく、とりわけ盃が巡る様子を細かく記述している。これも「望月の歌」が、酒宴における盃の持ち回りにかかっていることを強調する暗喩であったと解釈されているのである。特に重要なのが、当時はほぼ満月であっても十六夜月を和歌において望月と表現することはなかったという事実であり、道長はこの日の月が満月でなかったことを知っていながら、私という人間は欠けたるところがあるけども、宴に出席する公卿の皆や三后の娘たちの前途はまるで満月のようだと詠んだとする。であればこそ、返歌を求められた実資が、このような優美な歌に返歌はできない、皆で唱和しましょうと言って、皆で「望月の歌」を唱和したことも理解しやすくなる。
そもそも、この日の宴は、道長の三女威子が、後一条天皇の中宮に立后されたことを祝う宴の二次会であり、無礼講とまではいかないがかなり砕けた酒宴であった。三后の独占(太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子)は、藤原実資の『小右記』に書かれた通り、前代未聞、空前絶後のことであり、天皇外戚の極致であろう。自らの孫に娘を入内させる道長も道長だが、年齢とタイミングは偶然の産物としか言いようがない。
座興の歌とはいえ、「望月の歌」は、道長がある程度事前に準備していた可能性が高いが、そのモデルになったと考えられているのが、紫式部が10年前、中宮彰子が敦成親王(後一条天皇)を生んだ際に詠んだ「めづらしき光さしそふ盃はもちながらこそ千代もめぐらめ」であり、「中宮(彰子)様という月の光に、皇子(敦成親王)様という新しい光が加わった盃は、望月のように皆が持ち(保ち)、千代に巡り続けることでしょう」の意である。
実はこの歌、「光る君へ」第36回放送でほろ酔いの紫式部(まひろ)が盃片手に一人詠んだ歌であり、偶然聞いた道長は「憶えておこう」と言っている。つまり、「望月の歌」は紫式部に対する返歌ともなっている演出なのであろう。
