シリーズ「摩訶不思議」3 杉山神社を鎮座したのは誰か?
……シリーズ「摩訶不思議」2からの続き
杉山神社群の創祀に関わった「ある集団」の存在
このシリーズでは杉山神社群の摩訶不思議について記してきました。
この神社群が特に集中して鎮座しているのが東京都町田市〜神奈川県横浜市を流れる「鶴見川」流域です。

そして東京湾へと流れる鶴見川
ではこの神社群を鎮座したのは誰なのか?
今回はこの点についての「摩訶不思議」を述べていこうと思います。
◯東京都町田市の縄文遺跡から見つかった物
鶴見川上流、東京都町田市の縄文遺跡から、ある遺物が発見されました。

◎ブログ「(神)日本の黒い霧」より
……歴史言語学を研究されている川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)の中では、次の様な文様が刻まれた線刻石が東京都町田市で見つかった、との報告が書かれています。
画像の中に、「牛頭」と「蛇」のペア、七枝樹の枝の数である3(王)、2又は4(女王)までもが「画像2のシュメールの紋章」とそっくり同じです。
神話の「素戔嗚」がいったいどのような王であったのか、そして古代世界がどのようなものであったのか、新たな実像が見えて来そうです。
町田市は丘陵部が多く石器時代からの遺跡が数多く見つかっている土地でもあります。
これまでの現地調査では、多摩川周辺、川崎や大田区などにも、多くの古代の痕跡が残っているのを確認しています。どうやら、東京からもう一度古代史を見直す必要がありそうです。……

◯東京都町田市綾部原遺跡での線刻石
牛頭(王)と蛇(女王)、そして『王』『女王』を象徴する「3」と「2」が刻まれています。

(1988 六興出版)
※町田市 綾部原
……鶴見川と小野路川の合流点。昭和四十四年(一九六九)の調査、平成七年(一九九五)の本調査より、縄文草創期〜中期の土坑群等の住居跡、縄文晩期〜弥生時代前期の遺構と遺物、古墳時代〜奈良・平安時代の集落、中世の掘立柱建物群などが発掘された……
その線刻石との類似点が多く指摘された古代シュメール遺跡物「画像2のシュメールの紋章」


左の枝(緑丸)の数4は『女王』の象徴
右の枝(赤丸)の数3 は『王』の象徴
◯「牛頭天王(=素戔嗚尊)」を崇めていた集団
線刻石と古代シュメールの遺跡物に描がかれている「牛頭」。
皆さん、「牛頭」と言えばどなたかを思い出しますよね?
そうです。
『素戔嗚尊』です。
元々「牛頭天王」とは仏教の開祖、お釈迦様が修行していた「祇園精舎」の守護神。
「本地」(ホンジ=本来の姿)が薬師如来である「牛頭天王」は、太古にこの日本に降臨しましたが、その際にお姿を変えて日本の神様である『素戔嗚尊』となって以後祀られる様になります。
そのため『素戔嗚尊』は「祇園信仰」との関わりが深く、京都の八坂神社をはじめ、全国の祇園社、天王社において祀られています。

※ 頭の上には「牛頭」らしきものが…
杉山神社群の中で主祀神として一番多く祀られている神様は『五十猛命』です。

皆さんもご存知でしょうね。
この神様はその『素戔嗚尊』の息子、です。
先程の町田市の遺跡物に描かれているのが「牛頭」だとすれば、この牛頭を信仰する人々が太古、縄文時代に鶴見川上流の町田市辺りで生活をしていた。
そしてその後、鶴見川を利用して物資を運ぶ海運ならぬ、川運が盛んとなり、造船や産業の神様でもあった『五十猛命』を主祀神とする杉山神社群を創祀した、それが杉山神社群の始まりである、との推察が有力となるかもしれませんね。
◯争いのない縄文時代
ですが皆さん、注意して頂きたい事が。
それは牛頭天王は仏教の神ですから『素戔嗚命』と習合したのは日本に仏教が伝来してから以後(正式伝来は六世紀中頃)、だと思われます。
この町田市の縄文遺跡が造られたのは勿論「縄文時代」。
その晩期が終わったのが二千四百年前とされていますから最も近くても紀元前四世紀。
ですので、明らかに神仏習合前ですので、『素戔嗚命』はまだ牛頭天王とは呼ばれていなかったと思われます。
ですがこれだけは言えると思います。
古代縄文時代に鶴見川上流、東京都町田市辺りにはある集団が存在し、「牛の頭」を【聖なる物】として祀り上げ、現代にまで残る大きな遺跡を残す程の大きな力を持っていた、と。
この様なある種の宗教的な集団が存在する場合、よく起きるのが他の集団との対立、です。
要するに宗教戦争、です。
ですがこの鶴見川の集団は、御神体となった「牛の頭」やそれを祀り上げるための神聖な場所を、殊更に他の集団に見せ付ける事も、強制する事もなかった様です。
日本全国の縄文遺跡からは学術調査などで「争い、戦い」の痕跡がほとんど見つかっていません。つまり縄文時代の約一万年もの間は平和な時代が続いていた、という事です。
先程も述べた様に、この集団は宗教戦争もない平和な時代を過ごしていたため、敢えて立派な建物などを建てる必要もなく、ましてや
神社の名称はどうしようか?
ご由緒はどう書こうか?
などと考える必要もなかったのかな、と思われます。
こういった背景も有ったのでしょうか、それなりに数の多い杉山神社群に関しての古文書はあまり残っていないため(記す必要がなかった)、主祀神や配神が各々のお宮で違う、創建年代がハッキリしない、などの事象が起きています。


ですがそんな平和な縄文時代も終わり、次第に歴史の流れが変わって行きます。
そしてその後、更に杉山神社創建に大きく関わる集団がやって来た、と思われます。
……シリーズ「摩訶不思議」4へ続く……
