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虚構が現実を救済する時――表現者たちへの「ハッピーエンド」の要請

スクリーンから漏れ出す「沈黙の叫び」

先日、ロヒンギャの難民を描いた映画『ロストランド』を鑑賞した。公開二日目ということもあり、上映後にはティーチインが設けられていた。監督やプロデューサー、そしてスクリーンにはZoomを通じて、実際にこの物語を演じたロヒンギャの姉弟が映し出された。

この映画はドキュメンタリーではない。しかし、そこにはまぎれもない「真実」が脈動していた。親族を頼ってマレーシアへと向かう過酷な旅路。その途上で、逃れようのない運命に翻弄される姉弟。物語は絶望の淵を歩みながらも、かすかな希望を繋ぎ止めようとする強いメッセージを放っていた。

国際情勢に少しでも関心があれば、ミャンマー国軍から長年にわたり弾圧を受けてきたイスラム系少数民族「ロヒンギャ」の名を知らない者はいないだろう。彼らは今、世界最大規模の難民となっている。しかし、問題が国際化して久しいにもかかわらず、解決の糸口はいまだに見えない。国家という枠組みを持たないマイノリティが、主権国家を単位とする国際社会において、いかに発言権を剥奪されているか。その残酷な事実を、Zoomの画面越しに居場所を特定されないよう細心の注意を払割れた姉弟の姿が、何よりも雄弁に物語っていた。

社会運動の変遷と「期待値」という壁

かつて、虐げられた人々が世界に声を届ける手段は限られていた。プラカードを掲げ、シュプレヒコールを上げ、物理的な身体を晒して道を埋め尽くす「デモ」こそが、衆知を集める唯一の武器であった。近年ではそれがデジタル空間へと拡張され、SNSによる「ハッシュタグ・ムーブメント」が登場した。クリック一つで連帯を示せる手軽さは、社会運動の閾値を劇的に下げたといえる。

しかし、手段が多様化してもなお、人々の心には深い溝が横たわっている。「正しくない」ことは理解していても、具体的にどう動けばいいのかがわからない。あるいは、共感はしても、それが自身の行動変容にまで至らない。

なぜ私たちは、これほどまでに「当事者」の苦痛を前にして動けないのか。
その背景には、現代特有の「合理性への執着」がある。 多くの人は、社会運動に参加する際、無意識のうちに「投資対効果」を測定してしまう。支払うコスト(時間、労力、社会的リスク)に対し、得られる利益(社会の改善、自己肯定感)がどれほどか。冷徹なようだが、多くの参加予備軍は「失敗しそうな運動」より「成功しそうな運動」に加担したがる。

さらに、現代の連帯は主義主張そのものよりも、既存の人間関係の維持に重きを置く傾向がある。親しいネットワーク内での同調圧力やコミュニケーションの頻度が、社会正義よりも優先されるのだ。自分の行動が具体的な「成果」として還元されない限り、その体験は霧散し、なかったことにされてしまう。政治の頂点と、個人の日常。その距離はあまりにも遠く、個人の一歩が世界を変えるという実感が持ちにくい時代なのだ。

フィクションという名の「多層的なフレーム」

ここで、表現の力が持つ可能性が浮かび上がる。デモや報道が「事実」を提示するものであるなら、映画というメディアは「社会問題をフレーミング(枠付け)し、感情を増幅させる」装置である。

ロヒンギャの問題を、単なる「ニュースの一幕」として消費する時、私たちはそこに統計的な数字や地政学的なデータしか見ない。しかし、血の通った人間が葛藤し、涙を流す「物語」として体感する時、抽象的だった問題は具体的な痛みを伴って私たちの心に突き刺さる。 劇中の演出は、虚構のプロパガンダではない。むしろ、複雑すぎる現実を理解可能な形に整理し、本質を際立たせるための「入念なリサーチに基づく再構成」である。フィクションという形態をとるからこそ、マイノリティの微かな声は、マジョリティの厚い壁を透過して届くのだ。

寛容という名の傲慢を超えて

現代社会は「多様性」を謳歌しているように見える。しかし、その実態はどうだろうか。本来、多様性とは自分とは相容れない価値観や、直視しがたい苦境にある他者を認めることであるはずだ。だが、昨今の風潮は、思想的対立や経済格差さえも「多様性の一部」として放置し、強者が弱者を蹂躙することへの免罪符にすらなっている。

力を持つ者は、その力を振るわずにはいられない。自分たちに都合の良いように教義を解釈し、既存のシステムを改変することに躊躇がない。そんな世界において、持たざる者はただ「ノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)」を待っているだけでは死を待つのと同じである。彼らは抗議の声を上げ、己の存在を証明し、権利を勝ち取らなければならない。溢れかえる情報の中で、かき消されそうな自身の存在を示すために、平和を愛する者でさえも戦わざるを得ないのが、今の世界の歪んだ姿だ。

表現者たちへの態度表明の要請

だからこそ、ここで強く主張したい。 映画、音楽、小説、漫画――あらゆる文化の最前線に立ち、大衆から「推される」側にある表現者たちは、明確な態度表明をすべきではないか。

かつて表現は、芸術のためにあったかもしれない。しかし、これほどまでに世界が分断され、救いを求めている時代において、表現者が「私はただの作り手であって、政治や社会とは無関係だ」と中立を決め込むことは、一種の逃避でしかない。表現者が作り出すフィクションには、現実世界をハッピーエンドへ導くための「思考の実験場」としての役割があるはずだ。

「自分たちが住みたい世界」を作るために、正しいと思える戦いに参加すること。それは必ずしも政治家になることではない。自身の作品を通じて、世界がどうあるべきかという倫理的な指針を示すことだ。 たとえそれが専門外の領域であっても、構わない。間違いを犯し、学び、葛藤しながらでもいい。表現者が「世界は変えられる」という希望をフィクションの中に描き、それを現実への意志として表明すること。その態度こそが、冷笑主義に陥った現代人を動かす唯一の原動力となる。「推し活」をしているだけのファンに、「考える」きっかけを作るだけでも、十分な成果になる。

フィクションが現実を追い越す日

デモ行進が道を拓き、報道が事実を伝え、そしてフィクションが魂を揺さぶる。 かつては分断されていたこれらのアプローチが、今、一つのうねりとなって世界を動かそうとしている。表現者が「現実をハッピーエンドにしてみせる」という不遜なまでの野心を持つこと。その態度表明こそが、絶望の淵にいるロヒンギャの姉弟のような人々に、映画のスクリーンを超えて光を届ける手段になると、私は信じている。

虚構には、現実を書き換える力がある。その魔法を信じる表現者たちの「戦い」を、私たちは、支持し続けなければならない。

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