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『湯気は重さを知らない』

【あらすじ】

深夜に黒電話が鳴ると、スウェット姿の男はどこかへ出かけていく。
商売道具は錆びた針が一本だけ。仕事内容は「扉を開けること」。
ただし、鍵師ではない。

自分の名前の在処を忘れた老女。心を閉ざした少年。
十九年間、自分の内側に入れなかった男。
人がどうしても開けられない見えない扉の前に、
八代目は今夜も立ち続ける。

左右逆のサンダル、布団から突き出る天然パーマ、
夢の中でも「役に立ってます!」と叫ぶ日々。
そんな男の家に、ある日ひとりの女性が引っ越してくる。

互いの名前も呼び合わないまま——それでもちゃんと続いていく。
深夜の電話は今夜も鳴る。小さな引力の物語。

『湯気は知らない〜名無しの日常〜』

【無重力の湯気】〔物理〕無重力環境下における水蒸気の挙動。
地上では熱せられた空気の上昇により湯気は立ち昇るが、
無重力空間では対流が生じないため、湯気は発生源を中心に球状に停滞・拡散し、上へも下へも向かわず、その場に漂い続ける。
——行き先のない水は離れない。

「置き忘れた名前」◆

これは数年前の、凍える冬の話。

深夜の電話は、たいてい同じ時間にかかってくる。

振り子時計が十二回鳴り終わって、家の中が本格的に静まり返ったあたりで、黒電話が鳴り出す。まるでその沈黙を待っていたかのように。

あの夜も、そうだった。

「はい。」

「あなた、かぎやさんよね?」

「そうですが。」

「場所はおわかりかしら?」

「教えてくれなきゃ、いきなり言われてもわかりませんよ。」

場所を聞いて、メモを取った。それだけだった。依頼の中身も、相手の名前も聞かなかった。右手が受話器を耳に押し当てたまま動かなかったから、それだけで十分ということだった。

外は雪が降っていた。

コートを着て、道具入れを持って、玄関を出た。濃い霧が立ち込めている冷えた夜の空気が顔に刺さった。サンダルでは雪の中は歩けないので、この夜だけは仕方なく靴を履いた。

電車で三十分、そこからバスに乗り継いで、十五分。バスを降りた先に、住宅地が続いていた。どこにでもある、ごく普通の住宅地だった。表札が並んでいて、どの家の窓も暗かった。

メモに書いた番地の前で、立ち止まった。

二階建ての一軒家だった。庭に植木があって、雪が積もっていた。
一階の窓だけ明かりがついていた。

インターホンを押した。

「はい。」

「えっと、かぎやです。」

少し間があった。

「……来てくれたんですか。」声が、ひどく疲れていた。

出迎えてきたのは、五十代くらいの女性だった。エプロンをしている。この深夜にエプロンをしているということは、さっきまで何かしていたのか、あるいはエプロンをしていることに気づいていないのか。

「上がってください。」

玄関に入ると、生活の匂いがした。醤油と古い木材と、誰かの体温の残り香。

「あの、うちの母が……」

「聞かせてください。」

居間に通された。こたつがあって、みかんが五つはいったカゴ。
テレビはついているが音が消えていた。

「母が九十二なんですが、もう長くはないって言われてるんです。今日、急に……自分の名前を忘れてしまったって言い出しまして。」

「あぁ、名前か。」

「えぇ。自分の名前だけじゃなくて、なんか、大事なことを全部忘れてしまいそうで怖いって。それで夜中だというのに、なんか……おたくの番号を、どこかで聞いていたらしくて。母が電話してみなさいって。」

「お母さんは今どちらに?」

「今は寝室に。」

「すぐに会えますか?」

女性が頷いた。

寝室の部屋は、古い家具で埋まっていた。タンスと鏡台と整理された本棚。長い時間をかけて集められたものたちが、一人の人間の輪郭を作っていた。

ベッドの上に小さな老女がいた。

目が合った。

「あら、あんた、かぎやさんかい。」

「はい、そうです。」

「本当に来てくれるんだね。」

老女の声は、疲れていたが、ちゃんとしていた。
時を積み重ねてきた声だった。

「あの、名前をお忘れになったんですか?」

「いや、忘れたんじゃないの。ただ、うまく思い出せなくなってね。自分の名前があるのはわかるんだけど、どこにしまったのかが、わからなくなって……。」

「どこかへ行ってしまったんじゃなくて、どこに置いたかわからなくなった?」

「そうそう。それね。」

老女がこちらを見た。目が細くて、その奥に長い時間が溜まっていた。

「それは怖いですよね。」

「怖かった。九十二年間、ずっと使ってきたものが、急にどこへ行ったのかわからなくなるんだから。」

「そうですよね。」

道具入れを開けた。針を取り出した。老女の目がそれを追った。

「そんなんで開くのかい。」

「うーん、たぶん。」

「たぶん?」

「確かなことは、詳しくは言えないんで。」

老女が笑った。この夜に何度も笑顔を作ってきた顔ではなく、自然に出た笑いだった。

「あんた、正直者なんだね。」

「いや、嘘をつくのが下手なんです。」

針を持って、老女の頭の少し上の空間に向ける。どこにあるのかを探す。探すというより、手が向かう方向を確認する。この夜は少し時間がかかった。九十二年分の積み重なりの中に、扉は深く埋まっていたから。

右手が動いた。ゆっくりと、丁寧に。

部屋の空気が変わった。気のせいではなかった。
タンスの上のちいさな置き時計の音が、急に近くなった気がした。

老女が目を閉じた。
少し経って、また開いた。

「……あぁ……私の名前。ずっとそこにあったんだ。」

声がさっきより柔らかくなっていた。

「えぇ、そこにあったんですね。」

「あったわ。ちゃんとあった。」

道具入れに針を入れ、閉めた。立ち上がる。

「本当にありがとうね。」

「どういたしまして。」

「お代はいくらかしら?」

「いいです。」

「そんなわけにはいかないよ。」

「いや、本当にいいんで。」

老女がしばらく黙って、こちらを見ていた。

「みかんでも、持っていくかい。下のカゴの中にあるから。」

「じゃあ、もらっていきます。」

階段を下りながら、右手を少しだけ見た。何かの感触があった。
九十二年分の重さが、一瞬だけ触れた感触。

玄関で女性がみかんを袋に入れてくれた。

「……本当に来てくれると思っていなかったんですが。」

「あー、たまたまです。」

「たまたま、なんですか?」

「なんていうか、そうですね、ご縁ですよ。」

我ながら柄にもないことを言ったなと思ったが、これ以上うまい言葉が見つからなかった。

外に出ると、雪は止んでいた。

帰りはバスも電車もなくて、タクシーに乗った。運転手に一つ分けてあげた。みかんを一つ食べた。甘みが薄くて、でも後味がじんわりと残った。窓に額を押し当てて、雪で白くなった住宅地の屋根を眺めながら、一つだけ考えた。

役に立ったのか、どうか。わからなかった。

老女は九十二年間使い続けてきた名前が、どこにあるかわかった夜になった。それだけは確かなことだ。

みかんを二つ、大事に持ったまま家に帰った。ちゃぶ台の上にみかんを置いて、お茶を淹れた。湯気がまっすぐ上に伸びた。飲みながら、今夜のことをもう考えるのをやめた。

***

「行き先のない水は離れない」◇

同じ家に暮らし始めた二年目のある夜。

歴代の先祖たちが積み上げてきた「徳」という遺産を食いつぶしているのか。あるいはそれに食われかかっているのか。そんな曖昧な境界線の上で微睡んでいるように見えるこの男が、ときどき神妙な顔で空虚を眺めることがある。

それを初めて見たのは、今からずいぶん前のことだ。あの夜も今夜と同じで、帰りが遅かった。

玄関のサンダルは左右反対で、コンビニの袋はへたり込んでいた。いつも通りの惨劇だと思って通り過ぎようとしたとき、茶の間に明かりがついていることに気づいた。

珍しい。この男が起きているのか。

のぞいてみると、ちゃぶ台の前に男が座っていた。布団の中でもなく、どこかへ出かけているのでもなく、ただ座っていた。正座でも胡座でもない、どちらともつかない座り方で、膝の上に道具入れを乗せて、その蓋をそっと開けたまま、中を見ていた。

いや、見ていたというのは正確ではないかもしれない。視線は道具入れの中に向いているのだが、焦点が合っていない。何か遠いものを、道具入れを通して眺めているような、そういう顔だった。

神妙という言葉が、その時初めて本当の意味を持った気がした。

天然パーマは相変わらず手入れされていないし、スウェットはくたびれているし、部屋には埃が漂っているし、何一つ「由緒正しき」要素はない。それなのにあの顔だけは、何代もの時間を背負っているように見えた。

声をかけることができなかった。かわりに台所へ行って、黙ってお茶を淹れた。

湯気の立つ湯飲みをちゃぶ台の端に置くと、彼はようやく焦点を戻して、こちらを見た。

「……あ。」

それだけだった。ありがとうとも、いつからいたんだとも言わなかった。ただ湯飲みを両手で包んで、一口飲んだ。

やれやれと視線を落とす。サンダルと目が合った気がした。こちらは眠っているのだから、もう少し引力を味方につけて、忍びの者のように静かに帰ってきてほしい。

そう思いながら、私はその夜、何も言わずに自分の部屋へと戻った。

あの時の彼の顔を、うまく説明できる言葉をまだ持っていない。ただ一つだけわかることがある。この男はあの道具入れを、開けるためだけに持っているのではないということだ。

蒸気はいつだって、上へと逃げていく。重力に従わないものが、この世にひとつくらいはあってもいいのかもしれない。

***

「受話器が置けない」◆

見習いを始め二年が過ぎた頃だった。

親父が仕事を引き継ぐ時に言ったことは三つだけだった。一つ目と二つ目を聞いた時には、まだ余裕があった。磨くな、見るな。どちらも理由はわからないが、守れないことはない。やらなければいいだけの話だ。

三つ目を聞いた時、親父は黙った。

あの沈黙の長さを、今でも正確に思い出せる。振り子時計が何往復したか数えようとして、途中でやめた。それくらいの長さだった。

やがて親父が口を開いた。一つ目と二つ目と決定的に違うのは、その言葉を口にした後の親父の顔だった。磨くなと言った時の顔でも、見るなと言った時の顔でもなかった。もっと別の、言葉にしにくい表情だった。

強いていえば、謝っているような顔だった。

「なんで?」

反射的に聞いていた。親父はオレの問いに答えなかった。答えないことで答えていた。その沈黙の意味を、当時のオレはまだ理解できていなかった。理解したのはもっと後のことだ。

最初にその瞬間が来たのは、見習いを始めて二年目の冬だった。

深夜に電話がかかってきた。内容を聞いているうちに、受話器を置きたくなった。相手が誰で、扉が何で、それを開けることが何を意味するのか、全部わかってしまったからだ。

置こうとした。本当に、置こうとした。

その時だった。受話器を持つ右手が、言うことを聞かなかった。置けない、というよりも、置くという動作そのものが身体から切り離されているような感覚だった。頭の中では受話器を置くという命令が出ている。なのに右手はそのまま受話器を耳に押し当てたままで、微動だにしなかった。

おかしい、と思った。次の瞬間、口が動いていた。

「わかりました。」

自分の声だった。でも自分が出した声なのかどうか、あの瞬間は確信が持てなかった。

仕事を終えて帰ってきた時、親父がちゃぶ台の前に座って待っていた。何も言わずにお茶を出してきた。湯気がまっすぐ上に伸びていた。

「手が、動かなかった。」

正直に言った。

「そうか。」

「口が、勝手に答えた。」

「そうか。」

それだけだった。親父はそれ以上何も言わなかった。ただお茶を一口飲んで、振り子時計の方を見ていた。その横顔が、三つ目の掟を言った時と同じ顔に見えた。謝っているような顔。

——あの時からずっと、その意味を考えている。

親父が謝っていたのは、自分自身に対してなのか。それともこれから同じ夜を迎えるオレに対してなのか。あるいは、この掟そのものを作った誰か遠い先祖に対してなのか。

今もわからない。わからないまま、オレは今日も電話を取る。右手が、今日も迷わず受話器を掴む。

これが呪いなのか、あるいは使命なのか。その答えを出す前に、いつも次の電話が鳴る。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

オレは受話器に手をかけた。迷いはなかった。

***

「足踏みさせる声」◇

この家に越してきて間もない頃の夜中。

私は眠れなかった。

慣れていない家の、慣れない暗さのせいだ。
ここが自分の居場所ではないことが、身体にわかってしまっていた。

この家に来たのは、祖母に言われたからだ。
理由はまだ知らない。

ここの主とは越してきた日に一度だけ顔を合わせた。
「あっ、よろしく」とだけ言って、すぐ消えた。
翌日も、その次の日も、顔を見ていない。
玄関にサンダルがある時とない時があるが、それがどちらを意味するのかも、まだわかっていなかった。

大黒柱に掛けられている振り子時計だけが、闇の中で鳴っていた。
コチ、コチ。
その音だけが正確だった。

その時、向こうから何かが聞こえた。

ごもごもとしていて、何語なのか?
最初は何を言っているのかわからなかった。
聞き耳を立てると、少しずつ言葉になってきた。

「……ってます。仕事……から、役に立ってます。」

まるで誰かと話しているのかと思った。
でも返事がなかった。

「ですから!」

突然、大きくなった。必死に何かを訴える人間のような声だった。

言い切るとまた静かになった。

これがただの寝言だと、少しして気づいた。

壁一枚向こうで、この家の人間が、夢の中で誰かに向かって猛烈に「役に立ってます」と言い続けている。

その様があまりにおかしくて、笑いそうになった。
でも笑えなかった。

その声には切実なものが含まれていたから。
夢の中でさえ誰かに向かって、仕事の正当性を訴え続けている。
そんな人間が、この家にいる。

明日、ここを出ていこうと決めていた。
祖母には悪いが、この家は私には合わない。そう思っていた。

でも、あの声を聞いた後で、決心が少し揺らいだ。

理由はうまく言葉にできなかった。ただこの世には必死に何かと戦い、必要性を唱え続けている人間がいる、その人間のそばを今夜だけは離れにくかった。

翌朝、玄関を見るとサンダルが散らばっていた。
子どもが脱ぎ散らかしたかのように。

それが昨夜の声の主が帰ってきた跡なんだと、その時初めてわかった。

振り子時計だけが正確に、コチコチと時を刻んでいた。

***

「撃ち落とされたサンダル」◇

これはある朝の話だ。

「コチ、コチ……」

大黒柱に掛けられた振り子時計が、今日も一秒の狂いもなく円を描いている。重力に逆らうことも、甘えることも許されない。潔いまでに規則正しい。

この家には、重力の扱いを雑にしすぎている人間が一人いる。

その時計の振り子を見ていると、祖母から刷り込まれた正確さが私の背筋を「シャン」とさせる。規則は乱してはいけない。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

めったに鳴ることのないこの家の黒電話が鳴っている。しつこいくらいに鳴っているが、家主は出ない。仕方なく出ることにした。

「はい、もしもし。」

「…………。」

「ガチャッ」

無言で電話は切られた。

身支度を整えて玄関へ向かうと、重力を完全に無視して無造作に脱ぎ捨てられた、左右反対のサンダルが目に飛び込んできた。

その傍らには夜明け前の静けさの中でカサカサと耳障りなノイズを立てていたコンビニの袋が、中身を失ってへたり込んでいる。

透けて見えそうなポリエチレンの隙間から、場違いな厚みを持った古い索引票の束がバラバラと溢れ出ていた。

ところどころ黄色や茶色に色づいた紙の端には、現代の公用語ではない幾何学模様のようなインクの跡が整然と並んでいる。

まったく信用がならない。

この世の理として、重たいものは重たく落ちる、軽いものは軽く浮き上がる。あるがままに放っておけばよいものなのに、この家の主はそれをいたずらに掻き乱す。

サンダルやコンビニの袋が、撃ち落とされた人工衛星の残骸のように見捨てられている。この光景は今朝だけのことではない。この男が昨夜もどこかへ出かけていたことの証明だ。

夜の湿っぽい空気とは違う、乾いた紙の匂い。何百年も頁をめくられてきたような匂いが、無事に戻ってきていることの唯一の手がかりでもある。

「同居人」という三文字ほど便利な言葉はない。煮ても焼いても食えない複雑な関係の説明を省略できる。名付けようのない距離感はひとまず、この言葉の裏に隠しておくことにする。

この男が私の名前を呼ばないようにしているように、私もまた、この男の名前を喉の奥で飼い慣らしている。

朝というには手遅れで、昼というには少し早い中途半端な時間。茶の間の隣の部屋では、彼が寝言で「役に立ってます」だの、なんだのと、誰に向かっているのか殊勝なことをブツブツと呟いている。かと思えば、「仕事ですから!」と裁きを受けている人間のように叫んだりするから、余計に質が悪い。

茶の間へやってきて、隣の部屋へ視線を移す。遮光カーテンの隙間から差し込む光の筋が、幾重にも重なって、溜まっている怠惰な空気を輪切りにしている。その光の道に踊る埃さえも、彼の周囲だけがなぜか滞っているように見える。

布団の山から突き出た、手入れのされない天然パーマの塊は、まるで重力の縛りがない地球外の植物のようだ。

やれやれ、とサンダルに目をやる。こちらは眠っているのだから、もう少し引力を味方につけて、忍びの者のように静かに帰ってきてほしい。

とはいえ、玄関の惨状からして、この男は引力との付き合い方が根本的に下手くそなのだ。

***

「薄くて重い看板」◆

「八代目」という重すぎる名前と「かぎや彦」という軽すぎる名前。そのどちらでもない中間地点。そこにあるはずの、親からもらったオレの名前は、もう何年も誰の口からも発せられていない。今ここで誰かがその本名でオレのことを呼んだとしても、自分のことだと気づかずに聞き逃してしまう自信さえある。

名前なんて服を着替えるようなもので、そんなに大切なことではないかもしれない。

親父やじいちゃんがそうだったことに加えて、さらにその上のひいじいちゃんも存在だけは知っているが、同じをやっていた。この家に生まれた長男が引き継いでいかなければならないという、いつぞやの殿様の時代じゃあるまいしという縛りが代々ある。この一種の呪いのような、逃れようとしても簡単には逃げ切れないほどの重たくて大きな看板が、我が家には代々背負わされている。

やっている仕事を一言で言おうとするたびに、言葉が形になる前に消えていく。扉の鍵を開けること、とは言える。でも言った瞬間に、何かが少し嘘になる気がする。名前がついた瞬間に、何かが少し遠のく気がするから。だからいつも、そこで止まる。

古くからの業界にいるご贔屓連中はオレの技術がまだ親父の足元にも及ばないことを強調するためにわざとらしく皮肉を込めて「八代目」と呼ぶが、敬意はない。呼ばれるたびにオレの肩には歴代の人間たちが背負ってきたでかすぎる看板が積み重なっていく気がする。

その一方で深夜の匿名掲示板や酔客の戯言の中では「かぎや彦」という通り名で呼ぶらしい。顔のないのっぺらぼうみたいな怪人のように仕立て上げている。願いを叶えてくれる魔法使いか、あるいは不吉な死神の類いだとも言われているようだ。

この仕事を親父から引き継いだのが三年前で、見習いから数えれば九年目になる。引き継いだといっても手取り足取り教えてくれたわけじゃない。現場に連れて行かれて「仕事は目で盗め」というスタイルで、技術を教えるつもりなどサラサラなかった。それ以外で伝えたのは、掟というか決まりみたいなことが三つだけだった。

一つ目、鍵開け針は何があっても磨くな。

二つ目、開けた扉の中は見るな。

そして三つ目——親父はそこで黙った。

長い沈黙だった。やがて口を開いたが、その言葉は音にならなかった。いや、音にはなっていた。ただオレの耳には、届かなかった。それでもその言葉の重さだけは、今も肩の上にある。

なぜそれをしてはいけないのか、理由は聞いていない。聞こうとしたことはあるが、親父の目がその掟の堅さを物語っていたから。

改めて思うけど、この仕事に理由や意味を考えたことはなかった。物心がついた時にはじいちゃんもまだ現役で仕事をしていたし、親父がそうだったから。自分自身も必然的に将来この仕事をやることが決められていたようなもので、わかりやすくいえばレールに乗せられていた感じだ。

他にやりたいこともやってみたいと思う仕事もなかったから、この仕事に進むという以外の選択肢はなかった。

そういえば、あれからどれくらいの時間が過ぎたのかなぁ。

***

「そこに置かれたみかん」◇

この家で暮らし始めて間もない冬。

あの夜、私は眠れなかった。理由は特にない。強いていえば、慣れない家の、慣れない天井のせいだ。引っ越してきてまだ日が浅く、夜中に目が覚めると自分がどこにいるのかを確認するのに、毎回少し時間がかかっていた。

時計を見た。振り子が静かに往復していた。夜中の三時を少し過ぎた頃だった。

外は雪だった。窓の隙間から冷えた空気が差し込んでいて、布団の端が少し湿っている気がした。雪の降る夜というのは、音が違う。すべてのものが綿で包まれているような、耳の奥がしんとする静けさがある。

ふと気づいた。玄関に、靴があった。サンダルではなかった。革靴だった。この家に越してきてから、彼がサンダル以外の履物を使っているのを、私は見たことがなかった。それが玄関に、きちんと揃えて置かれていた。片方だけ少し雪で濡れていた。

靴音を立てないように台所へ向かうと、ちゃぶ台の上に見慣れないものが置いてあった。みかんが二つ。コンビニの袋でも、紙袋でもなく、ただそのまま二つ、ちゃぶ台の上に置かれていた。まるでそこが最初からみかんの置き場所だったかのように、自然に。

茶の間の隣の部屋を覗くと、布団の山から天然パーマの塊が突き出ていた。いつもと同じ光景だったが、何かが違った。普段と寝方が違う。仰向けに近い。天井を向いて眠っていた。

声をかけることはしなかった。かわりに台所でお茶を淹れた。湯気が真っ直ぐ上に伸びた。一人分だけ飲んで、流しで湯飲みを洗って、自分の部屋に戻った。

翌朝、みかんは一つ減っていた。残った一つはそのままちゃぶ台の上にあって、私はそれをどかすタイミングを失って、三日間そのままにしておいた。三日目の夜、彼が黙ってそのみかんを食べた。何も言わなかった。私も何も言わなかった。

その夜のことを、彼から直接聞いたのはずっと後のことだ。九十二歳の老女の話を、ちゃぶ台でお茶を飲みながら、なんの前置きもなく話し始めた。話し終えた後、彼はまた黙ってお茶を飲んでいた。

「役に立ったのかどうか、わからなかった」と彼は言った。

私はその言葉を聞きながら、あの夜の革靴のことを思い出していた。片方だけ雪で濡れていた、あの靴のことを。

聞こうとして、やめた。

ちゃぶ台の上にみかんが二つあった夜のことを、彼はまだ私が起きていたことを知らないままでいる。知らなくていいと思った。あの夜の静けさは、そのままにしておきたかった。

***

「寒い秋の夜」◆

親父の現場に初めて連れていかれ、初めてこの仕事を目の当たりにした。

夕飯を食べ終わってちゃぶ台の前でぼんやりしていたら、コートを羽織った親父がそう言った。

「ついてこい。」

それだけだった。理由も説明も何もなかった。

外は秋の夜で、空気が乾いていた。親父が出かけるときは決まって、そこに迎えの車が来ていて、エンジンの音が聞こえていた。どうやら今日は来ていないらしい。

駅まではそんなに遠くはない。電車に乗って三十分、そこから歩いて十分。親父は一度も振り返らなかった。地図も見なかった。どこへ向かっているのかを聞く雰囲気でもなかった。ただついていくだけだった。

着いたのは、古いマンションの一室だった。インターホンを押すと、中年の男が出てきた。くたびれたジャージを着ていて、目の下に深い隈があった。

「来てくれましたか。」

「ええ。」

親父の返事は短かった。

部屋に通された。生活感はあるのに、どこか空っぽな部屋だった。物はある。でも何かが足りない。その「何か」が何なのかを、当時のオレにはうまく言葉にできなかった。

「息子なんですが。」

男が奥の部屋を指した。

「どのくらいですか。」

「もう三年になります。」

親父が頷いた。それだけだった。それ以上は聞かなかった。

「見ていろ。」

親父がオレに言った。

「でも、声を出すな。動くな。ただ見ていろ。」

奥の部屋に入った。小さな部屋だった。窓にカーテンが引かれていて、デスクライトだけがついていた。その光の中に、男の子が座っていた。十代の半ばくらいだろうか。膝を抱えて、壁の一点を見ていた。視線は壁に向いているのだが、焦点が合っていない。何か遠いものを、壁を通して眺めているような顔だった。

親父が椅子を引いて、男の子の向かいに座った。

「久しぶりだな。」

男の子は反応しなかった。

「三年ぶりか。」

それでも反応しなかった。目が動いただけだった。ほんの少しだけ、親父の方に向いた。

「扉がどこにあるか、わかるか?」

男の子が、かすかに首を振った。

「そうか。オレが探す。」

親父が道具入れを開けた。針を取り出した。あの針だ。錆びていて、冷たくて、でも持つと馴染む、あの針。

「見ていろ。」

もう一度、オレに言った。

親父が針を持って、男の子の頭の少し上の空間に向けた。最初は何も起きなかった。ただ親父の右手が、ゆっくりと空中を動いていた。探しているのか、待っているのか、オレには判断できなかった。

しばらくして、右手が止まった。止まった、と思った瞬間、動いた。ゆっくりと、丁寧に。

部屋の空気が変わった。気のせいではなかった。デスクライトの光が、一瞬だけ揺れた気がした。男の子の肩がほんの少しだけ、下がった。

男の子が息を吸った。普通の息だった。でも今まで彼が吸っていた息と、少しだけ違う音がした。

それだけだった。

親父が立ち上がって、道具入れに針を戻した。蓋を閉めた。「パチリッ」と小さな音がした。男の子の方を見て、一度だけ頷いた。男の子は何も言わなかった。でも目の焦点が、少しだけ戻っていた。

部屋を出て、廊下に戻った。待っていた父親に、親父が言った。

「終わりました。」

「……どんな感じでしたか。」

「何かが動いたよ。ほんの少し動かした。それだけです。」

父親が頭を下げた。深く、長く。親父はそれを黙って受け取って、玄関へ向かった。オレもその後をついていった。

マンションを出て、夜道を駅に向かって歩きながら、オレは聞いた。

「あの子、どうなるんですか。」

「わからない。」

「でも、何か変わりましたよね。」

「そうかもしれない。」

「それでいいんですか。」

親父が立ち止まった。振り返った。

「それでいいんだよ。」

その目が、なにかを言っていた。言葉ではなく、目だけで。あの時のオレにはその意味がわからなかった。

「わからないままやるのが、この仕事だ。」

それだけ言って、また歩き出した。オレはその背中を見ながら、右手を少しだけ見た。針を持っていたわけじゃない。ただ何かの感触を確かめたくて、そうした。何もなかった。当然だ。あの夜のオレはまだ何もしていない。ただ見ていただけだ。

でもいつかその手に、あの針が馴染む日が来るのかもしれない。そう思いながら、秋の夜道を歩いた。

駅のホームで電車を待ちながら、親父が缶コーヒーを二つ買ってきた。黙って一つ渡してきた。受け取った。缶の温かさが、手のひらに伝わってきた。夜の空気は冷えていたから、その温かさがやけに現実的だった。

ホームに電車が滑り込んできた。乗り込んで、隣同士に座った。親父は窓の外を見ていた。オレも窓の外を見た。夜の景色が流れていく。街の明かりが、窓ガラスを通して歪んで見えた。

何も言わなかった。何も言わなくていい夜だった。

缶コーヒーを飲み終わる頃に、電車が家の最寄り駅に着いた。改札を出て、帰り道を歩きながら、もう一つだけ聞いた。

「さっきのことは、あの子の役に立ちましたか。」

親父は少し間を置いてから、答えた。

「それは自分で決めることじゃない。」

「じゃあ、誰が決めるんですか。」

「扉の向こうにいる人間が決める。オレたちが決めることじゃない。」

家に着いた。玄関を開けた。親父がいつも通りにサンダルを脱いだ。左右反対のまま、放置した。オレはその隣に、自分の靴を揃えて置いた。それだけのことなのに、その夜はその行為が、何か意味を持つような気がした。

「おい、お茶を淹れろ。」

親父が言った。

「わかりました。」

台所に向かいながら、ふと思った。役に立つかどうかは、扉の向こうの人間が決める。ならばオレはただ扉の前に立てばいい。それだけでいいのかもしれない。それだけが、この仕事なのかもしれない。

お湯が沸いた。急須に茶葉を入れた。湯気が上に伸びず、宙に漂っていた。

*****

「物静かな訪問者」◇

同居を始めて半年ほど経った、朝。

インターホンが鳴ったのは、九時を少し過ぎた頃。あの男は前の夜から出かけていて、まだ帰っていなかった。枕元の道具入れはない。いつも散らばっているコンビニの袋もなく、サンダルだけが左右反対のまま残されていた。出かける時だけはなぜか靴を履いていくので、サンダルが残っている朝は決まって不在だとわかる。

インターホンが、もう一度鳴った。彼ではない。彼はインターホンを押さない。ドアが開いていることを知っているから。

「ガラガラガラ……」

玄関を開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。小柄だった。私よりも背が低いかも。スーツを着ていて、髪が短くて、どこにでもいそうな顔をしていた。ただ一点だけ、目だけが妙に落ち着いている。初めて来た場所に立っているのに、初めての場所に立っている顔ではなかった。

「突然すみません。こちら、かぎやさんのお宅ですよね。」

「あっ、どちらさまですか?」

男の視線が、一瞬だけ玄関の内側へ向いた。道具入れを探したのか、サンダルを確認したのか、その両方なのか。ほんの一瞬のことで、すぐに視点は戻ってきた。

「少し確認したいことがあって、お邪魔しました。今、ご在宅ですか。」

確認したいこと、という言葉が少し引っかかった。何を確認したいのか。この家のことを知っている人間が来るとすれば、仕事関係の人間のはずだ。

「彼なら今日は出かけていて、不在ですよ。」

少し間があった。

「……そうですか。」

それだけだった。それ以上は聞かなかった。用件を重ねてこなかった。

「……戻る時間ってわかりますか?」

「いや、わからないですね。夜になるかもしれないし、明け方になるかもしれない。」

「あー、そうですよね、わかりました。またにします。」

男が頭を下げた。丁寧に、深く。

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「あ、すみません。名乗りもしないのにズケズケと。」

男が名前を言った。聞いたことのない名前だった。でも名乗り方が、名前を言い慣れていない感じがした。別の呼ばれ方に慣れている人間の、名乗り方だった。

「何か伝言はありますか?彼に伝えますよ。」

「いえ、たぶん、また来ますんで。」

「あー、そうですか、わかりました。」

それだけだった。男が背を向けて歩き出した。見送りながら、その後ろ姿をしばらく見ていた。スーツの背中だった。着慣れているのか、着慣れていないのか、そのどちらとも取れる背中だった。ただ歩き方には、迷いがなかった。どこへ向かうかを知っている人間の歩き方だった。

角を曲がって、消えた。少ししてエンジンの音がした。

玄関を閉めて、台所でやかんを火にかける。

あの男は何者だったのか。何かしらでこの家のことを知っていることは間違いない。でも依頼者にしては落ち着きすぎていた。業者というには用件を言わなすぎた。

やかんが音を上げ始めた。お茶の缶を持ったまま、ふと思った。

あの落ち着いた感じは、誰かに似ていた。初めての場所なのに、初めての場所に立っていない顔。どこへ向かうかを知っている歩き方。用件を重ねない判断の速さ。それは、この家に慣れている人間の振る舞いではなかった。この家ではなく、この種類の場所に慣れている人間の振る舞いだった。

もう一つ、気になることがあった。男が玄関の内側へ視線を向けた、あの一瞬のことだ。道具入れがないことを確認したのだとすれば、道具入れが何を意味するかを知っている人間だということになる。サンダルが残っていることを確認したのだとすれば、このサンダルが不在の証拠だと知っている人間だということになる。どちらにしても、この家での感覚の読み方を知っている人間だった。

急須にお湯を注いだ。

彼が帰ってきたら聞こうと思った。訪ねてきた男は誰か、と。でも彼が帰ってきたのは翌朝で、玄関にコンビニの袋とサンダルが加わって、道具入れが枕元に戻っていた。その頃には、聞こうと思っていたことを半分忘れていた。

残りの半分も、聞かなくていいような気がしていた。理由はうまく言えないけど。ただあの男の、用件を重ねなかった間の取り方が、なんだかこの家の空気と少しだけ似ていた気がしたから。

そういう人間は、説明しなくても、またいつかやってくる。そんな気がした。また来るって言っていたか。

***

「引き継がれた家業」◆

仕事を引き継いで間もない頃、季節でいえば秋だったかな。

一番初めにあの小柄な男が現れたのは、真夜中だった。インターホンが鳴って、出てみると見知らぬ顔があった。背が低くて、細くて、どこにでもいそうな顔をしていた。スーツを着ていたが、着慣れていない感じがした。襟元が少し浮いていた。

「ここってかぎやさんのお宅で合ってますか?」

「えっ、そうですけど。」

「お迎えにあがりました。」

「迎え?なんの?」

「依頼が入っています。あれっ?連絡が届いていませんでしたか?」

時計屋の婆さんからの連絡は確かに来ていた。ただ迎えが来るとは聞いていなかった。

「あー、聞いてないけど。」

「そうですか。段取りが悪くてすみません。まだ慣れていないもので。」

慣れていない、という言葉が引っかかった。オレも同じだったから。

「あんた、いつからやってるんですか?」

「今日でちょうど、三ヶ月になりますね。」

「へぇ~、オレも似たようなもんだよ。」

男の目が少し細まった。笑ったのかもしれなかった。暗くてよくわからなかった。

「あのー、車を用意しています。ミニクーパーですが。」

「ミニクーパー?」

「はい、親父のやつです。そのまま引き継いだんで。」

それだけ言って、男は玄関先に停めてある小さな車を指した。確かにミニクーパーだった。古い型で、少し傷がついていた。

「あんたの親父も、この仕事を?」

「まぁ、そうですね……家業みたいなもんなんで。」

家業、という言葉を男は少し間を置いてから言った。置いたのか、迷ったのか、その区別はつかなかった。

「とりあえず、乗ってもらっていいですか。現場まで連れていきます。」

促されるままに、車に乗り込んだ。助手席に座ると、シートがへたっていた。長い時間、誰かが座り続けてきた形に、沈んでいた。

「親父さんって、長くやってたんですか。」

「たぶん、三十年くらいですかね。」

「そりゃ長い。大ベテランですね。」

「なんか八代目の親父さんとも、長い付き合いだったみたいで。」

みたいで、という言葉が気になった。自分の親父のことなのに、みたいで、と言う。直接聞いていないのか、聞けなかったのか。オレにも似たような言葉がある。聞けなかったことの残骸が、肩の上にある。

「あんたの名前、聞いてもいいですか。」

「あ、すみません、名乗ってなかったですね。」

男が名前を言った。オレは聞いた。聞いたが、その名前よりも、名乗った時の顔の方が印象に残った。名前を言い慣れていない顔だった。別の名前で呼ばれることに慣れている人間の顔だった。

「八代目、と呼んでいいですか。」

「あぁー、どうぞ。」

「じゃ、よろしくお願いします、八代目。」

「こちらこそ。」

それだけだった。車が走り出した。ミニクーパーのエンジン音は思ったより低くて、安定していた。古い車だが、よく手入れされているのがわかった。

「親父さんから、何か聞いてますか。この仕事について。」

「少しだけ、ざっとです。」

「少しだけ、か。」

「八代目は?」

「こっちは三つだけ。」

男が少し笑った。今度ははっきりとわかった。

「うちも、三つだけでしたよ。」

その言葉を聞いた瞬間、何かが腑に落ちる感覚があった。落ちたが、何が落ちたのかはわからなかった。ただ、この男と同じ種類の重さを、どこかに持っているのかもしれないという感覚だけがあった。

「聞いてもいいですか。三つのうち、全部わかりましたか。」

男が少し間を置いた。

「二つまではわかりましたけどね。」

「じゃ、三つ目は?」

「いや、まだわかりませんね。」

「そうか。やっぱりね。」

オレも同じだった。それ以上は聞かなかった。男も言わなかった。現場までの道を、二人で黙って走った。ミニクーパーのヘッドライトが、夜道を切り取っていく。その光の先に、何があるのかはまだわからなかった。

現場を終えて、帰りの車の中で、男が缶コーヒーを差し出してきた。

「よかったら、どうぞ。」

「あ、どうも。」

受け取った。温かかった。

「どこで買ったんですか?」

「現場の近くの自販機で。行きに見えたんで、帰りに寄っておこうと思って。」

「へぇ~、気が利きますね。」

「親父に言われたんで、帰りには必ず温かいものを用意しておけって。」

親父に言われた。その言葉が、また引っかかった。

「なんで帰りなんですか?」

「行きはまだ仕事の前だから、気が張っている。帰りは終わった後だから、少し余白?隙間?ができる。そこには、温かいもんがあるといいんだって。」

おれは缶コーヒーを両手で包んだ。温かさが冷えていた手のひらに伝わってきた。

隙間に、温かいもの。親父の言葉にしては、妙に細やかだった。三十年もこの仕事をやってきた人間の言葉なのだろう。

「いい親父さんですね。」

「まぁ、そうですね、口数は少ないですけどね。」

「そういう親父に限って、大事なことだけ言うんだよな。」

男が少し黙った。「そうかもしれないですね。」

静かな声だった。気づくと家の前に着いていた。

車を降りながら、男に言った。

「また頼みます。」

「こちらこそ。」

「あっ、次はもう少し早めに連絡してもらえると助かります。」

「あっ、すみません、気をつけます。」

「あと、迎えに来る時、インターホンは一回でいいですよ。」

「そんなに押しましたか?」

「いや、三回ですけど。」

男が頭を下げた。「すみません。」

「いや、いいんですよ。まだ三ヶ月なんだから。」

男が顔を上げた。その顔が、少し柔らかくなっていた。

「八代目も、まだ三ヶ月なんですよね。」

「まぁ、そうです。」

「お互い様ですね。」

「そうかもしれない。」

ミニクーパーが走り去った。テールランプが、角を曲がって消えた。

玄関に入って、サンダルを脱いだ。いつも通り、左右反対のまま放置した。台所でお茶を淹れた。湯気がまっすぐ上に伸びた。缶コーヒーの温かさがまだ手のひらに残っていた。

三つ目の掟の意味はまだわからない。でもこの夜だけは、その重さが少しだけ遠のいた気がした。

***

「置いてけぼりの急須」◇

由緒正しき鍵の持ち主だと言われている、この男が。布団の山から天然パーマの塊だけを突き出して、夢の中で誰かに言い訳をしているこの男が。

枕元に置かれた、使い古されて艶やかな革の道具入れ。何度も綻びを縫い直した跡があり、温かさと時の重さがある。

その中に収まっている針は、指で撫でるとザラザラとした錆びついた質感で、触れるたびに現実の世界と何かとの隔たりを感じさせる。

温かな革の道具入れと冷たい針の対比が、この男がこの世界の理から少しだけ浮いていることを証明している。

この男の淹れるお茶は妙に美味いことも腹が立つ。軽やかで優しいけど、きちんとお茶の味がして、少しの時間だけ余韻が残る。

これほどのものを淹れられる人間が、なぜ急須の後始末をしないのか。理屈のつかないあべこべな状態に、ひとつ溜息をついて目の前のお茶に手を伸ばす。

淹れてからしばらく経っているはずなのに、急須からはまだ湯気が出ていた。

まっすぐ上へも行かず、横へも流れず、急須の口のあたりにただ滞っている。行き先を決めかねているような湯気だった。

この男の淹れたお茶の香りが、そのまま宙に漂っている気がした。

ちゃぶ台に目をやる。昨夜この上に置いておいた肉じゃがは綺麗に平らげられ、器は洗われて水切りかごに伏せてある。

こういうところだけなぜか律儀だ。それなのに急須には茶葉がそのままで、湯飲みには飲み干すには心許ない量のお茶が残されている。

私は溜息を飲み込み、わずかに残っていたお茶を飲み干す。

蛇口から流れる透明な水が湯飲みの底の茶殻を押し流していく。水の重みが手のひらに伝わる。

流れていくのをしばらく眺めた。台所がこんなに静かなのは、一人でいるからだ。あの男がいないだけで、こんなにも変わるものか。

洗い物を終えて、返事はないとわかっていながら彼に声をかけて、玄関へ向かう。口の中ではまだお茶の余韻が消えていない。

「……まったく、腹立たしいことこの上ない。」

「ガラガラガラ……ガジャンッ」

わざと強めに玄関を閉めた。
男を重力から解放してやる義理はないけれど、せめてこの家で沈滞した空気に、一太刀浴びせてやりたかったから。

音が想定より大きくなった。それに驚いたのは同居人ではなく、向かいの電線で早すぎる微睡みに耽っていたカラスだった。
黒い影を羽ばたかせて、甲高い鳴き声を置き去りに、磨かれて澄み渡る空へ溶けていった。

あれのほうがよほど重力の機嫌を心得ているようだ。落ちるときも、飛ぶときも、無理をしない。

腕時計に視線を落とす。とっくに家を出ていなければならない時間を過ぎていた。

祖母は時間にだけはやたら厳しい人だ。この家の事情を知っている数少ない人間なのに、そこだけは一秒も甘くならない。

物心がついた時から口酸っぱく言われてきた。「一秒の遅れは血液の一滴より尊い」と。その言葉を腕時計ごしに聞かされていると、自然と背筋が「シャン」とする。

私はいつもより少し早足で駅へと向かう。
腕時計に目をやるたびに祖母の声がする気がして、また少し歩く速度が上がった。

「カチッ、カチッ……」

秒針は容赦なく歩みを進めていく。私は息をひとつ吐いて、整えた。吐き出した息は一瞬だけ空中にとどまり、やがて形をなくした。

***

「眠りにつくもの」◆

昼過ぎ、スマホが鳴った。
画面には「実家」と出ていた。応答の緑に触れた。

「もしもし。ねぇちゃんと食べてる?」

「食べてます。」

「そう、それいいけど……ねぇ最近、おかしな夢、見なかった?」

「はぁ?夢ですか?」

「昨日ね、あんたが出てくる夢をみたんだけど。なんかすごい大変そうな顔してたから。なんか気になっちゃって。」

答えを考えた。夢は見る。
ただ話し始めたら、どこまで話すことになるのかがわからなかった。

「まぁ、たまには見ますけど。あんまり細かくは覚えてないですよ。」

「そう。あのね、お父さんが——」

「ッ。」

画面が暗くなった。

「お父さんが」の続きが、宙に消えた。

スマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
折り返せばいい。それだけのことだ。
でも折り返す前に、自分が何を答えようとしていたのかが、気になった。
夢の話をどこまでするつもりだったのか。

充電ケーブルを繋いだ。

それから折り返さなかった。

「お父さんが」の続きは、たぶん大した話じゃない。
健康のことだとか、庭のことだとか、そういう話のはずだ。

たぶん。

スマホをちゃぶ台に置いて、暗くなった画面を見ていた。

***

「境界線で鳴く黒電話」◆

夢の中でも、あの音だけは現実と変わらなかった。

「コチ、コチ……」

振り子時計の音が、一瞬だけ止まった気がした。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

電話が鳴っている。出たくない。黒電話のあの昭和じみた呼び出し音が、静寂を容赦なく切り裂いてくる。耳の奥にねじ込まれるような音だ。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

まだ鳴っている。布団から頭だけを出して、大黒柱の振り子時計を見る。昼はとうに過ぎて、夕方にさしかかっていた。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

しつこいな。おい、なんで出かけちゃったんだ。

同居人の不在に八つ当たりをしながら、枕に顔を押しつけて耐える。一度止まる気配を見せたかと思えば、騙し討ちのようにすぐにまた鳴りだした。その「間」が妙に気持ち悪い。

「はぁ……」

身体を起こして、受話器に手をかけた。

「はい、お電話ありがとうございますぅ〜、お電話一本でいつでもどこでも配達いたしますぅ、アーリーモーニングヌードルカンパニーですぅ。」

とっさに変な調子で名乗ってしまった。

「あれっ?ラーメン屋さん?間違えた!」

ガチャッ、ツーツー。

「……はぁ?」

受話器を置いて、もう一度布団へ戻る。やっと静かになった空間に身を沈めた。

——その刹那のこと。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

収めたはずのベルが再び鳴りだした。さっきより近い。音が距離を詰めてきているみたいだった。

「……はぁ、出るか。」

「はい、お電話ありーー」

「あんた、ラーメン屋か?」

「あっ、そうですよ、ラーメン屋もやってます。」

「じゃあ、餃子と炒飯を急ぎで頼む。」

「えっ?ラーメンじゃないの?あー、すみません、今は一人なんでーー」言いかけたところで、声が変わった。

「あんた、かぎやだよな?」一瞬、言葉が詰まる。低く、くぐもった声。さっきの軽さが消えている。

「……なんだ、いきなり?」

「あん時みたいに開けてほしいんだよ……」

ぞわりとした。何かを思い出しかけた。受話器の向こうが、すっと遠のく。現実の手触りが、薄くなる。

——そこで途切れた。

***

「突きつけられるマイク」◆

意識が沈んだ、と思ったら、足の裏に石畳の感触があった。冷たい。硬い。夢の中にしては妙にはっきりとした感触だった。

顔を上げると、見覚えのない街の中に立っていた。

「お兄さん、お兄さん、今って時間ありますぅ?」

気づくとマイクを構えた男が正面から近づいてくる。断る間を与えずにマイクをこちらへと突きつけてきた。

「簡単な質問なんで、一つだけ、一言答えてもらえればいいんで。」

逃げ道が防がれた。

「——あなたのやっている仕事は世の中の役に立っていますかぁ?」

距離が異様に近い。マイクのスポンジが鼻先に触れそうだった。周囲を見渡す。カメラがある。赤いランプが点いている。

人だかりができていて、笑っているやつも、スマホをこちらに向けているやつもいる。全員が答えを待っていた。

「……なんて質問だ。」

口の中でつぶやく。役に立つか?仕事として成り立っている以上、何かしらの役には立っているはずだ。そう思って答えようとするが、言葉が出てこない。

「あれあれ~お兄さん、黙っちゃって〜」

「もしかして、役に立ってない仕事してるんですか?」

マイクを持つ手の角度が、妙に几帳面だった。それにこいつ、芸人にしては姿勢がよすぎる。笑わせようとしているのに、目が笑っていない。

どこかで見た目だ、と思った。でもどこだったか、思い出せなかった。

ざわりと笑いが広がる。

——その時、思い出した。

この顔、知っている。こいつは画面の向こうの人間じゃない。直接会ったことがある。
少し前に依頼をしてきたやつだ。あの時はこんな顔じゃなかった。もっと必死で、湿っていて、それでも真剣な顔だった。

「……お前、」

声に出そうとして、飲み込んだ。マイクがさらに押し付けられ、追い込まれた。

「どうなんですか?」

——答えなければならない。

「……まぁ、」

ようやく言葉が漏れた。

***

「開けるだけ」◆

「鍵を開けるんです。」

かすれた声だった。

「物体としての鍵じゃない。まだ名前がない、よくわからない何かの扉の——」

言った瞬間に、少し嘘になった気がした。それでも続けた。

「……それを開けるだけです。」

「へぇ〜、鍵のレスキューみたいな感じぃ?」

「まぁ、そう、近いですね。」

周囲の笑いが少しだけ緩む。

「ただ……」口が勝手に続ける。
「こちらが言っている鍵には物質的なものがない。温度も感触もほとんどない。」

「それって、必要あるもんですかぁ?怪しくないですかぁ、それ。」

矢継ぎ早に言葉を重ねてくるのに、その声に湿度があった。
乾いた笑いを取ろうとしている声ではない。切羽詰まった人間の、湿った声だった。

「生まれてくる時に誰でも持っている、何かがあるんですけど……名前をつけた瞬間に遠のく気がするから、言えない。ただ——それを開けるだけ。」

ざわつきが広がる。

「あー、それって仕事なんですかぁ?必要あるもんですかぁ?」

当然の反応だよな。その問いかけはさっきの質問よりも鋭く、深く抉ってくる。必要か。役に立つのか。

「……確かになぁ……」

視線が刺さってくる。これが何の役にも立っていないとしたら、なぜ自分はこれを続けているのか。答えが口から出かかったその瞬間——

「これが何の役にも立っていないとしたら、オレは——」

「——お兄さん?」

声が遠のいていく。カメラの赤いランプだけがやけに鮮明に残る。音が歪んだ。
遠くのほうから、誰かが呼んでいる。おそらく現実の世界からだ。

「……おい……」

声が届く寸前で、すべてが切れた。

*****

「三分と二十五秒」◇

電車が遅れた。こういう事態も想定して、余裕を持って家を出たはずなのに。
大切な時に限って雨が降ったり、忘れ物をしてしまったりするのはよくある話だ。気をつけていても、どうにもならないことがある。

それにしても今日の待ち合わせ場所。
なぜあの場所なのか。祖母が普段行くようなところではない気がする。
料理を習うだけなら、家でよかったのに。それでもあの場所を指定したことが、どこかに引っかかっていた。
わざわざそんな場所にしたことの意味が、まだ形にならないまま胸の中を漂っている。

7分前には待ち合わせに着く予定だったのに、腕時計の針が待ち合わせ時間5分前を通り過ぎてしまった。汗が止まらない。

この汗は駅の中を必死に走っているからなのか、祖母を待たせてはならないという焦りからなのか。そんなことはこの際どちらでもいい。

時間に間に合っているのに、どうしてこんなにも走らなければならないのか。
時間の厳しい人間が近くにいることへの修行だな、と思いながら走る。

駅の時計塔の前。マチ針でピン留めされているかと思うくらいに背筋が「シャン」としている祖母の姿が見えた。
どんな人混みの中でもあれだけ真っ直ぐでいたら、すぐに見つけることができる。

「おばあちゃん、ごめんなさい。待ったよね?」

「いや、待ってはいないけど、相変わらず危なっかしい娘だね。3分と25秒前だよ。」

ゆっくりと腕時計に視線を落として、指で「トントン」と文字盤を叩いた。

「あぁ~、厳しいな。時間には間に合っているのに。それに今日は私のせいじゃなくて、電車が遅れたんだよ。元々はちゃんと準備をして、7分前には着く予定だったんだから。」と苦笑いをしながら伝えた。

すると祖母は、「準備というのは何かの前、始める前ではなくて、何かの後、終わりの時の質を保つためのものだよ。」とやんわり諭された。

その言葉を、私は完全には受け取りきれなかった。わかるようで、わからない。
いつもこうだ。祖母の言葉は振り子の揺れに似ている。余計なことは足さない、削らない、収まるところにちょうどよくそこにある。
でも私には、その収まり先がまだ見えない。

「まぁ、今日のところはいい。この先で人を待たせているから、行くよ。」

一分の隙もない和装姿の祖母がどこかへと歩き出していく。置いていかれないように、私もその後をついていく。

歩きながら、今日の用件について聞かれた。

「あなたがわざわざ私にも料理を習いたいなんて、どういう風の吹き回しかしら。余りにも珍しいことだから、今日は雪か槍が降るんじゃないかと心配したわよ。」

「特に何があるってわけじゃないんだけど、なんとなくおばあちゃんの豚の生姜焼きのレシピを知りたい、そう思っただけ。」

「あなたのお母さんだって同じレシピなんだから、私じゃなくてもよかったんじゃない?」

「うーん、そうなんだけど。おばあちゃんとお母さんのだと何か少し違うんだよね。言葉ではうまく言えないけど。」

「それはそうよ、時の積み重ねが違うんだ。それに気づいたってんなら、今日は教えてあげるわ。しっかりと覚えてちょうだいね。」

「よかった〜、ありがとう。」

と話しながら歩いていると、祖母が足を止めた。

目の前にはカフェが併設されている大きな書店ビル。祖母が入るには少し違和感があるその場所。

カフェの中では私と同じくらいの年代の人間だらけだ。そのドアの中へ躊躇することなく、祖母が入っていく。私もそれを追うようにお店に入る。

どんな場所であろうと真っ直ぐさが変わらない歩き姿で、どんどん奥の方へと進んでいく祖母。

お店の一番奥まで着くと、こちらの存在に気づいて、一人の女性が立ち上がって祖母に話しかけてきた。

全身が真っ黒だった。カラスの羽根のように、一点の例外もなく。若者だらけで色彩豊かなカフェの中では、祖母と同じように異彩を放っている。

突然話しかけられればビックリしてしまいそうなものだが、祖母は一瞬もたじろぐことなく女性を受け入れた。顔馴染みなのだろうか。

女性が祖母に何かを一生懸命身振り手振りで話している。カフェはたくさんの人で賑わっていて、女性の声は動きのわりに小さくかき消されている。

「——開かないんです。」

「——どうしても。」

私には微かに届くくらいで、ハッキリと内容まではわからない。それなのに祖母は優しく微笑んで、この言葉の一つ一つを受け取り、それに答えている。

「大丈夫、安心しなさい。今晩には解決するよ。」

女性の肩をさすりながら、ハンカチを渡す。それを聞いて安心したのか、女性は涙を流していた。

祖母が手渡したアイロンの綺麗に掛かったハンカチで目を押さえ、何度も何度も頭を下げている。

私はその光景を後ろで見ていると、祖母は私がいることを思い出したのか、こちらを見て手招きをした。

その動きに引かれて、私は女性の前に立った。その瞬間に指先が少しだけヒヤリとした。冷えたというより、血の気が引いたような感覚。

あの男が持っている道具入れに触れてしまったときに感じる、何とも例えがたい手触りに似ている感覚が指先を一瞬だけ通り過ぎた。

「私の孫娘。この娘がね、今度私の後継者になる。よろしく頼むわ。」

足が、一瞬床を離れそうになった。

後継者。その三文字が胸の中で意味を失って、ただの音として浮かんでいる。

今朝、台所の引き出しから取り出したレシピのメモが、頭の中で意味のない線の集合体に見えた。

生姜焼きの手順を書いたはずの文字が解読できなくなってしまうような。

今は理解しなくていいと、どこかで判断した自分がいた。

おばあちゃん……後継者ってどういうこと?今日って料理を習いにきただけだったのに。

女性が店員さんを呼び、こちらの席へとやってきた。私はようやく椅子に腰を下ろしながら、一つだけ気になることを心の中でつぶやいた。

——この人は誰なんだろう。なぜかずっと、目が離せなかった。

***

「透明自動ドア」◆

今日も晴れますよ〜と天気予報士がご陽気に言っていたので、きっと晴れるのだろうと思う。

玄関のガシャンという音と共に、明け方から密閉されていた家全体の空気が少し軽くなった。入り込んできた乾いた空気が空模様を知らせてくれている。たぶん、晴れ。日差しで温められた優しい風が部屋の温度をほんの少し上げてくれた。

青々と晴れた空でも、鈍色に雲が立ち込めて雨が降っていても、直接的には関係ないといえば関係ない。やっている仕事に重要なことは空模様ではないので、天候がどうでも構わない。ただ天候によってオレの髪の毛の状態には多少の変化が伴う。その部分においてだけは少し気になることだ。

こないだ、行きつけのコンビニへ向かう道を歩いていた時のことだ。

こないだっていつのことだろう。昨日だったかもしれないし、一昨日だったかもしれない。時間というやつはちゃんと流れているくせに、こっちの感覚とはあまり噛み合ってくれない。

「あの人って引きこもりじゃなかった?」

「ニートで何もしてないんでしょ?」

すれ違いざまにそんな声が耳に入った。こんなことは別に珍しいことじゃない。もう何回も聞いている。そよ風のように聞き流せるくらいには慣れてきているとはいえ、まったく気にならないかと言われれば、そんなこともない。

まぁ、そう見えるのも仕方ないとは思う。頭にはロングタオル、上下はスウェット、足元がアンクルソックスにサンダル。一応、自分ではセットアップだと主張しているが、他人から見ればただの部屋着だろう。髪は伸びっぱなしの天然ウェーブで、整える気も切るタイミングもとっくに見失っている。

コンビニに着いて、自動ドアの前に立つ。——開かない。

一歩踏み込む。開かない。

「……えっ?」

もう一歩。それでも開かない。本気でそう思ったよ。透明人間になった?

ガラスに映る自分の姿を確認する。ちゃんと見えている。なのに開かないんだ。

「フフッ……」

ガラスの向こうで顔馴染みの店員が笑っている。気づいてくれたのか、こちらに歩いてくる。

「ウィーン」とドアが開く。

「あまりにもコンビニすぎるから、店舗の一部だと思われたんじゃないですか?」

「ここぞとばかりにめちゃくちゃいじってくるよな。」

「いやいや、褒めてますよ、褒めてます。」

同じ単語を二回繰り返すのは信用ならない。さっきのことが褒め言葉なわけはない。

「それより、今日なんか変なやつ来ませんでしたか。」

「変なやつって、お客さんのことそう言っちゃいけないんですけど……どんな感じの人ですか?」

「うーん、なんか用もないのにうろうろしてるとか、ずっとこっちを見てるとか、そういう感じの。」

「今日に限った話じゃないですよ、この店に来る人みんな用がなさそうで。」

「それは言いすぎだろ。」

「ていうか、お客さんが言えたことじゃないと思いますよ。この前、ここで一時間くらい立って雑誌読んでたじゃないですか。」

「あれは立ち読みじゃなくて……まぁ立ち読みだけど、それとこれとは別の話だろ。」

「どう別なんすか。」

「こっちは知り合いだから。」

「それ、知り合いへの言葉じゃないと思いますけど。」

言い返せなかった。その通りだったから。

「なんかあったんですか、今日。なんか探してる感じがします。」

「探してるわけじゃないけど……なんか、妙な電話があってな。夢の中で。」

「夢の中で電話あったんですか。」

「そう。」

「それは探してるんじゃなくて、追いかけられてるんじゃないですか。」

この店員は時々、妙なことを言う。笑えないことを笑えない顔で言う。

「追いかけられてる、か。」

「なんか、そんな顔してますよ。いつもより少しだけ。」

「そんなに顔に出てるか。」

「出てますよ。毎日来るんで、なんとなくわかります。」

毎日来ていることを改めて言われると少し恥ずかしいが、これだけ毎日来ていれば顔を覚えられて当然だ。

「まぁ、なんかあったとしても、うちの店に来たらとりあえず飯は食えますからね。」

「それはそうだな。」

「なんか今日のお昼、まだですよね?」

「なんでわかるんだよ。」

「なんとなく。食べてない人の顔がありますよ、今日。あと選ぶのがいつもより真剣だったんで。」

「気が向いて、何かあったら話してくださいよ。話を聞くだけなら得意なんで。」

「それって、コンビニの仕事じゃないだろ。」

「あ、まぁ副業みたいなもんです。」

引きこもり、ニート、何もしていない人。まぁ、そう見えるだろうな。ただこの店員だけは、そういう目でオレを見てこなかった。

見てこないことを、特に指摘もしてこなかった。それがなんとなく、この店に毎日来る理由だったのかもしれない。

店内に入ると、冷えた空気と整いすぎた棚の並びが迎えてくれる。弁当も飲み物も雑誌も、全部が全部同じ顔をしている。

きっちりと揃えられていて、迷いがなくて、美しい。その中を歩いていると、自分の輪郭が曖昧になる気がする。

「そういえば今日、新作出ましたよ!生姜焼きロール。」

「へぇ〜。」

「絶対に好きなやつですよね?」

「なんでわかるんだよ。」

「だっていつもそれ系のやつは選んでいくんで。」

商品をポケットから出した袋に詰めて、店を出た。外の空気が少し重たく感じた。さっきの店員の言葉が頭に残っていた。

追いかけられてる。探してるんじゃなくて、追いかけられてる。

身軽でいることと、だらしないことは紙一重だ。どちらに捉えるかは相手が決めること。ただ一つだけ確かなことがある。

オレには、開けなければならない扉がある。またいつもと変わらない、いつもと同じ道を歩きながらそう思った。

***

「どこかで見た顔」◆

その日は家から少し離れたところで、やぶ用を済ませて、夕方のホームで電車を待っていた。

混み合う時間帯で、人が多かった。
時々、肩と肩がぶつかりそうになりながら、それぞれが適当な間隔を保って、立っている。

そんな中で視界の端に、何かが引っかかった。

少し離れたところに、二十代前半くらいの男が立っていた。
スマホを見ている。それだけのことだった。

でも、その立ち方が、何かに似ていた。

肩の落ち加減や首の角度。
周りと少しだけ距離を置いている感じ。

深く考えかけたけど、やめた。

電車がホームへ入ってきた。
若い男は反対側のホームへ向かった。ドアが閉まる直前、顔を上げた。
窓越しにこちらの方を一瞬だけ見た。見たのか、見ていないのか、判断できなかった。

電車が動き出した。

オレはそれを見送り、次の電車に乗った。
つり革を掴んで、窓の外を見た。綺麗な夕陽が街に流れた。

あの男があの夜の少年と同じ人間かどうかはわからない。
わからないままでよい。ただ夕方の電車に乗れるくらいには、どこかで誰かが生きている。

ほんの少しだけ、何かを覚えていた。
右の感触がほんの少し。

***

「時計の部屋」◇

私がまだ小学校に上がる前、幼稚園生だった頃。

祖母の家に泊まることは、年に数回あった。両親が仕事で忙しい時期に、決まって祖母の家へ預けられた。

祖母の家は私が育った家よりも古くて、天井が低くて、どこを歩いても床板が鳴いた。その床板の音が、子供心に少しだけ怖かった。まるで家そのものが、踏み込むたびに何かを確かめているようで。

その夜も、そういう夜だった。

布団に入っても眠れなかった。理由は特にない。ただ慣れない天井と、慣れない匂いと、慣れない静けさが、子供の眠りを遠ざけていた。

振り子時計の音だけが、等間隔に部屋の暗闇を区切っていた。

「コチ、コチ……」

どこかで聞いたことのある音だ、と思った。

でもあの頃の私には、その音がどこから来ているのかを、うまく言葉にできなかった。ただ、その音が聞こえている間は、少しだけ安心できた。

夜中に目が覚めたのは、物音がしたからだ。廊下を誰かが歩いている。床板が鳴いている。

でも祖母の足音にしては、少し重い。知らない誰かが歩いているような。

起き上がって、障子の隙間からそっとのぞいた。廊下の奥、茶の間の障子に明かりが漏れていた。

蛍光灯ではなく、もっと柔らかい、行灯のような明かりだった。

誰かいる。

怖いとは思わなかった。それよりも、何かに引き寄せられる感覚があった。足音を立てないように、廊下を進んだ。

障子に手をかけようとした瞬間、中から祖母の声がした。

「そうか、そこにあったんだね。」

静かな声だった。誰かに話しかけているのか、独り言なのか、子供の耳には判断できなかった。

「ずっとそこにあったよ。ちゃんとあった。」

もう一つの声がした。老いた、でも穏やかな声だった。祖母の声ではない。知らない人の声だった。

「よかった。じゃあ、もう大丈夫だよ。」

祖母がそう言った。それから、しばらく静かになった。

私は障子に手をかけたまま、動けなかった。中に入りたいような、入ってはいけないような、その境界線の上に立っていた。

やがて、明かりが消えた。障子の向こうが、暗くなった。

慌てて自分の布団へ戻った。布団に潜り込んで、目を閉じた。心臓がどきどきしていた。

翌朝、朝ごはんの支度をしている祖母に聞いた。

「ゆうべ、誰か来てたの?」

祖母は振り返らずに、「そうだよ」とだけ答えた。

「誰が?」

「忘れ物をした人が、取りに来たんだよ。」

「忘れ物?」

「そう。大事なものを、どこに置いたかわからなくなった人がいてね。一緒に探したんだ。」

「見つかったの?」

「見つかったよ。」

祖母はそれだけ言って、味噌汁をよそった。

それ以上は聞かなかった。聞いても、わからないような気がしたから。

ただその朝の祖母の横顔を、今でも覚えている。いつもと変わらない、真っ直ぐな横顔だった。

でもその目の奥に、何か深いものが溜まっているような。長い時間をかけて積み重ねてきた何かが、静かに沈んでいるような。

子供の私には、それが何なのかわからなかった。わからないまま、味噌汁を飲んだ。

大人になってから、あの夜のことを何度か思い出した。忘れ物を取りに来た人。

一緒に探した祖母。見つかった、という言葉。あの夜に障子の向こうで起きていたことが、今ならわかる気がする。

わかる気がするから、あの朝の続きを祖母に聞こうとしたことは、一度もない。

***

「時計屋の孫」◇

黒い女性が席を外した隙に、私は祖母の隣に座り直した。聞かなければならないことがある。順番だと言われても、待てないことがある。

「おばあちゃん。」

「なに。」

「後継者って、どういうこと。」

祖母はすぐには答えなかった。カップの中のコーヒーをひとくち飲んで、それからこちらを見た。

「あの子たちの仕事にはね、三つの掟があることは知ってるね。」

「知ってる。聞いたことはあるよ。」

「一つ目と二つ目は、あなたも聞いているね。」

「うん。」

「三つ目は——」

祖母がそこで止まった。窓の外を路面電車が通り過ぎていく音がした。カフェの中の話し声が、遠くなったり近くなったりしている。

「三つ目は、なに?」

「三つ目はね、一つ目と二つ目とは少し違う。」

「どう違うの?」

「一つ目と二つ目は、仕事のやり方についての掟だよ。道具のこと、扉のこと。守れば仕事になる、守らなければ仕事にならない、そういう類いのことだ。」

「うん。」

「でも三つ目は——」

祖母はまた止まった。今度は言葉を探しているのではなく、どこまで話すかを測っているように見えた。

「三つ目は、この仕事そのものについての掟だよ。仕事とこの家の人間の、関わり方についての。」

「関わり方?」

「この仕事はね、向こうからやってくるものなんだよ。」

「向こうから?」

「扉が、人を選ぶ。依頼が、人を選ぶ。こちら側が選ぶんじゃない。」

私はすぐには言葉が出なかった。

「つまり——」

「つまり、選ばれた以上はということだよ。」

祖母はそれだけ言って、コーヒーカップを静かにソーサーに戻した。

選ばれた以上は。その言葉の続きが、頭の中でゆっくりと形を作ろうとして、作りきれないまま漂っている。

「あの男は、それを知ってるの?」

「知っているはずさ。」

「重たいね?それって。」

祖母は少しだけ間を置いてから、答えた。

「振り子はね、重力を知っているから揺れ続けられるんだよ。知らなければ、最初の一振りで止まってしまう。」

私にはまだ、その言葉の全部が理解できなかった。

「あなたが引き継ぐのは、その重さの傍にいることだよ。」

「傍にいること?」

「選ばれ続ける人間の隣で、地面を踏んでいること。それがあなたに頼みたいことだよ。」

私は黙ったまま、テーブルの上に置かれた自分の手を見た。今朝の玄関のことを思い出していた。左右反対のサンダル。へたり込んだコンビニの袋。古い索引票の束。また夜中に呼び出されて、帰ってきた跡。

あれが毎晩続いているということは——

「おばあちゃん、彼は今まで、一度でも——」

「さあね。」

祖母が静かに遮った。答えではなく、これ以上は聞くなという合図だった。

黒い女性が戻ってくる気配がした。祖母が立ち上がる。私はかけかけた言葉を飲み込んで、冷めかけたコーヒーカップを両手で包んだ。

聞けなかった問いの答えを、私はもう知っている気がした。知っている気がするから、聞けなかった。

***

「いい塩梅」◇

同じ家に暮らして始めた頃、ある朝。
夢の中で必死にもがく声を聞いたころ。

玄関の音で目が覚めた。
枕元の時計を見ると、まだ五時前だった。

どこかに出かけていったのかと思いながら目を閉じたのだけど、
なんだか眠れなかった。

しばらくして、また玄関の音がした。

戻ってきたのかと思ったら、もう一度出ていった。

七時を過ぎてから起き上がり、白湯を飲むために台所へ向かった。

ちゃぶ台の上に、コンビニの袋があるのが目に入った。

玄関に置かれているとへたり込んでいるはずの袋が、今日はちゃんと自立していた。中に何かが入っている。

ちらっと覗いてみた。

梅のおにぎりが三つ。全部種類がすこし違った。
「昔ながらの梅」「赤紫蘇でつけた手仕込み梅」「熟成旨味仕立て南高梅」。きっちりと三種類、袋の中に並んでいた。

レシートが一緒に入っていた。時刻を見てみると、四時五十三分だった。

夜明け前にコンビニへ行って、梅のおにぎりを三種類買って、
一度戻ってきて、また出ていった。

なぜ三種類なのかは想像がついた。一つに決められなかったのだろう。
ただなぜ梅なのかは想像がつかなかった。
彼が梅を好きなのかどうか知らなかったから。

堪えきれなかった。
「ハハッ」

声を出して笑ってしまったのは、この家に来てから初めてだった。

笑いながら「南高梅」のフィルムを開けた。
一口食べた。

悪くなかった。むしろいい塩梅だと思った。
私は梅のおにぎりを好んでいる。

***

「似て非なる」◆

珍しく、昼間に時間が空いた。

依頼がない。電話も鳴っていない。黒電話は大柱の脇で沈黙していて、スマホも画面が暗いままだ。こういう日が月に何度かある。何もない日だ。

腹が減った。

それだけが、今この瞬間の唯一の事実だった。

頭にロングタオルを巻いて、上下スウェットのまま、サンダルを突っかけて外に出た。左右が合っているかどうかは確認しなかった。

コンビニまでは歩いて六分。知っている。何度も歩いているから。右に曲がって、左に曲がって、少し下り坂になったところに、見慣れた看板が見える。

ウィーン。

自動ドアが開いた。今日は開いた。

しっかりと冷やされた空気と、整然と並んだ棚が迎えてくれる。昼過ぎの店内は、朝でも夜でもない中途半端な時間のせいか、他の客が少ない。

おにぎりのコーナーの前に立った。

鮭が三種類並んでいた。「銀シャリ手ほぐし鮭」「あらほぐし鮭」「特選の逸品トキシラズ」。三つとも鮭なのに、値段が違う。一番高いトキシラズは、他の二つより六十円ほど上だった。

どれにするか。

少し考えて、三つとも手に取った。

レジに持っていくと、顔馴染みの店員が少しだけ目を細めた。

「全部食べるんです?全部、鮭じゃないですか。」

「あぁ、なんか比べてみたいんだよ。」

「鮭を?」

「鮭を!」

店員がさらに何か言いかけて、やめた。この店員はいつもそうだ。必要以上のことを言わない。

袋に入れてもらって、店を出た。帰り道、下り坂を逆に上りながら、袋がカサカサと音を立てた。風は少しだけ冷たかった。空は薄い雲がかかっていて、晴れでも曇りでもない、どちらともつかない色をしていた。

家に帰って、玄関でサンダルを脱いだ。左右が逆だった。やっぱり。

台所でお茶を淹れた。急須をそのままにして、ちゃぶ台の前に座った。

三つのおにぎりを並べてみる。

「銀シャリ手ほぐし鮭」「あらほぐし鮭」「特選の逸品トキシラズ」。三角形に整えれているご飯のかたまりが三つ、ちゃぶ台の上に並んでいる。全部鮭だ。なんとなく、左から食べることにした。たまたまでは安い順でもある。

「銀シャリ手ほぐし鮭」のフィルムを開ける。一口食べた。これだ、と思った。鮭はこれでいい。ご飯と鮭が、過不足なく仕事をしている。余計なことを何もしていない。

お茶を一口すすり、次に「あらほぐし鮭」を開ける。パッケージがさっきのより少し丈夫。一口食べる、さっきより粗い。鮭の存在感が強くなった。これも悪くない。

ただ「銀シャリ」の後に食べると、少し主張が強い気もする。順番が違えば印象も変わったかもしれない。

お茶を一口すすって、少し休む。残りのひとつの「特選の逸品トキシラズ」を開ける。和紙みたいな質感の袋を開ける。

おにぎりのサイズがさきほどの二つに比べて、少し小さめだ。一口食べて、少しだけ黙った。さっきまでの二つと、明らかに何かが違う。

脂の乗り方が違う。鮭がご飯に対して、遠慮していない。堂々たる王者の風格である。六十円の差が、こういうところに出るのか。

でも一番うまいかと言われると、わからなかった。

三つ食べ終わって、お茶を飲んだ。

三つ全部、鮭おにぎりだった。パッケージには違う名前が書いてあって、値段も違う。でも全部、鮭だ。

オレには名前が三つある。
「かぎや彦」と「八代目」と、もう一つ。
三つとも同じ人間を指しているはずなのに、呼ばれるたびに少しずつ別の重さがある。

「かぎや彦」は顔のない怪人で、「八代目」は歴代の看板を全部背負っていて、もう一つは——もう何年も誰の口からも出てこないから、重さの感覚をそろそろ忘れかけている。

どれが本当の名前か、と聞かれたら、全部だと答えるしかない。どれが一番うまいかと聞かれたら、わからないと答えたのと、たぶん同じことだ。

片付けるのが少しだけ面倒で、しばらくそのままにしておいた。

鮭と米によって腹は満たされた。

窓の外で、風が少しだけ強くなった気がした。

*****

「三歩先の背中」◇

「後継者」という言葉がまだ胸のなかで宙ぶらりんのままだ。

人混みを歩きながら、何度か言葉を飲み込んだ。後継者というのは、何かを引き継ぐということだ。引き継ぐためには、引き継ぐべき何かを理解していなければならない。私はあの男の仕事を、理解しているのか。

観察はしている。玄関の惨状を見れば夜中に呼び出されたことがわかる。道具入れの有無で出かけているかどうかが判断できる。お茶の残り方で、仕事の重さを類推できる。そういった気配の読み方は身についてきた。

でも、扉そのものを、見たことがない。何かを開ける瞬間を、見たことがない。それどころか、本当に何かが起きているのかどうかを、確認したことさえない。あの男がちゃぶ台の前に座って、道具入れの蓋を開けて、あの神妙な顔で空虚を眺める時間が何を意味するのかを、私は外側からしか知らない。

果たして、それで後継者になれるのか。そもそも後継者とは、何をするものなのか。

祖母は「傍にいること」と言った。「選ばれ続ける人間の隣で、地面を踏んでいること」と言った。

引き継ぐのは技術ではなく、地面なのか。それともまた別なこと。

足元のアスファルトを踏みながら、その硬さを確かめた。確かにここには地面がある。引力がある。私は今、確かに地面の上にいる。

翻って、あの男はどうか。コンビニのビニール袋がへたり込んでいて、サンダルが左右逆で、布団から天然パーマだけ突き出している。私はこの家に来てから一度も、彼の名前を声に出して呼んだことがない。彼もそうだ。名前は互いの喉の奥にしまわれたまま、それでもこの家は動いている。

その光景を、不満に思っていたはずなのに、今はなぜかそれが必要なもののように見えてくる。

誰かが地面を踏んでいなければ、この男はいつか本当に浮かび上がってしまうのではないか。浮かび上がると、どうなるのか。消えてしまうのかもしれない。

そんな馬鹿なことはないと思いながら、でもあの道具入れの冷たい針のことを思うと、馬鹿なことではないかもしれないという気もしてくる。

足元のアスファルトを、いつもより少しだけ強く踏んだ。確かめるように。あるいは、決めたように。硬い、冷たい、そこには確かにここには地面がある。

祖母の背中が、三歩先にある。迷いのない背中だ。

私はその背中を見ながら、一つだけ正直なことに気がついた。後継者になることへの不安より、断ることへの躊躇の方が、少しだけ大きかった。それがなぜなのかは、まだわからなかった。ただ、足の裏だけは、わかっていた。

祖母の隣を歩いているのに、どこかきちんと地面を歩けていない。書店のあるカフェを出てからというもの、口を開こうとするたびに言葉が形になる前に消えてしまっている。祖母はそれに気づいているのか、いないのか、いつもと変わらない真っ直ぐな歩きだ。ごちゃごちゃとしている駅までの人混みでさえもスイスイと進んでいく。その背中には一切の迷いがない。

「ねぇ、おばあちゃん、さっきの話なんだけどーー」

「あぁ、そうだったね、今日は料理を習いに来たんだったね。さっきのことはまだ話す順番ではないから。」

私が何かを聞こうとしたことを先回りして、やんわりとドアを閉めるように遮った。順番だと言われても、あまりにも言葉が持つ重さがあって、どう受け取ればいいのかを飲み込みきれずにいた。

駅へと続く大通りに差し掛かったとき、目の前の信号が赤に変わった。流れている人の波が一斉に止まる。私たちもその流れに従って足を止める。

そのときだった。横断歩道の脇を、一台の黒塗りの車がゆっくりと通り過ぎていった。街の明るさを吸い込んで、光を返さない闇のような黒だった。窓の色も同じように深くて、中を見ることはできない。

何故だか分からないけど、目が離せなかった。ただ一瞬だけ、ガラスの奥に誰かがいる気がした。スーツを着た、知らない誰か。いや、知らないとは言い切れない、そんな感覚。引き寄せられるような、あるいは何かに呼ばれているような、言葉にならない感覚が足の裏から這い上がってきた。

車は滑らかに通り過ぎて、人混みの向こうへと消えた。

視線を隣にいる祖母へと移すと、祖母もその車を見ていた。ほんの一瞬だけ。視線をすぐに戻して、そこから何も言わなかった。横顔からは何も読み取れない表情なのが、かえって私には何かを知っているように見えた。

信号が青に変わった。人の波が再び動き出す。その流れに沿って祖母も歩き始めて、私もそれに続く。

「扉というのはね、開けるためだけにあるとは限らないんだ。」

祖母が前を向いたまま、静かに言った。

「閉じるための扉もある。」

さっきの車の黒さが、まだ目の奥に残っていた。

「それってどっちの扉も必要?どっちが大切なの?」

「それは扉の意味がわかる人間が決めることさ。」

そう言って黙ると、祖母の歩く速度がほんの少しだけ早まった気がした。私はさっき見かけた車の黒さと祖母の横顔、「後継者」という飲みきれない言葉を胸のなかで漂わせたまま、おぼつかない足を引きずるようにして、シャンとした後ろ姿に追いつくように歩く速度を上げた。

***

「動かなかった夜」◆

深夜に突然の着信で叩き起こされた日の出来事。

現場に着くと、依頼人の男が廊下で待っていた。
十数年以上母親と二人で暮らし、始終の世話を一人でしてきたという。

「深夜にすみません、こちらなんですけど。」

言葉と同時に手に向けられた方に視線を移す。

奥の部屋に、七十代くらいに見える女性が座っていた。

今まで見てきた顔つきと、少し違った。
焦点が合っている。ちゃんとこちらを見ていた。

「こんばんは、あんたが誰?」

「息子さんの友人で、かぎやと呼ばれてます。」

「あぁ、あんたがかぎやなの。」

「そうです。」

「来てくれてありがとう。息子から聞いたよ。」

色々なことを話しながら、向かいに座った。
目を合わせたまま、道具入れを開ける。

「これから始めるのかい、それって怖いこと?」
女性が針を見て言った。

「人によると思いますけど、そんなには。」

「そうかい。」

答えながら、右手を動かした。

——ある。ここだ。

向かった。

何も起きない。

空気が変わらなかった。
女性の表情も変わらなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。

もう一度試してみる。

やはり何も起きなかった。

「……だめなのかい。」

ただ確認されている。穏やかに、静かに。

「もう少しやらせてもらえますか?」

「うん、任せるよ。」

三回、四回と試してみる。

何も動かなかった。
これ以上は厳しい。

「申し訳ないんですけど、今夜は——」

「いいんだよ。わかっていたから。」

女性がこちらの言葉を待たずに言った。

「来てくれただけで、十分なんだ。」

その言葉が、思ったより重かった。
強く責められる方がまだよかった。責められれば、返す言葉がある。
でも「十分だよ」と言われてしまうと、何も返すことがなかった。

「また近いうちに来ます。」

「来なくていいよ、もう。」

「でも、それじゃ——」

「いいの、いいの、息子の気持ちは嬉しいんだ。でも、もういいんだよ。これはもう、そういうもんなんだから。あまりにも長い時間が経ちすぎちゃった。これはあんたが悪いわけじゃない。」

女性がこちらに向けていた視線を、少しだけ遠くにずらした。
でも焦点はまだ、合っていた。

近くでその様子をみていた息子に事情を説明して、外に出た。

帰り道、何も考えないようにした。
考えないようにすることを考えてしまって、うまくやり過ごせなかった。

「来なくていいよ」という言葉と「十分だよ」という言葉が、交互に頭の中を通り過ぎた。どちらも、優しい言葉だった。それだけに重かった。

家に帰った。その日は台所にも、茶の間に向かわず、そのまま布団に入った。

朝になっても、茶筒に手を伸ばしたが、お茶を淹れる気になれなかった。

***

「明け方は雨」◆

これは、今夜の依頼が来る前夜。

「ピロロ……」

間の抜けた音が枕元から聞こえた。夢の残り香がまだ頭の奥にまとわりついている。形になりきれなかった何かが、グズグズとしたまま残っている。

あの電話の声。あの問いかけ。「あん時みたいに開けてほしいんだよ」という言葉の湿り気が、まだ右耳の奥にある。充電ケーブルをスマホに繋いで、しばらくそのまま天井を見ていた。

眠れない夜には、たまにやることがある。スマホを開いて、匿名掲示板を眺めることだ。オレのことが書かれているスレッドを、他人事のように読む。

「かぎや彦」というスレッドは、今夜も更新されていた。

『かぎや彦に依頼した、本当に開いたよw』

『あれって詐欺師だろ、信じるやつの気が知れない』

『違う、オレは実際に会った、あいつは本物だ』

『カルトじゃないの?』

『魔法使いだと思ってる、マジで』

『いや死神だって、あいつが来たら終わりだって聞いた』

魔法使いか、死神か。どちらでもない、とは言えない。どちらでもある、とも言えない。ただ鍵を開けるだけのことなのに、人間は見えないものに名前をつけたがる。名前をつけることで、怖くなくなったり、逆に怖くなったりする。

扉が開かなくて、どうにもならなくて、夜中に誰かの名前を検索している人間が、どこかにいる。画面の向こうで好き放題に名前をつけている連中も、たぶん同じだ。

知らないから、名前をつける。名前をつけることで、知った気になれる。扉の前に立つか、立たないか。オレとそいつらの違いは、それだけかもしれない。

オレが続けてきたのは、掟があるからじゃない。——たぶん。少なくとも、それだけじゃない。——たぶん。

「たぶん」が二つ並ぶくらい、自分のことがよくわからない。それでも明日また電話が鳴ったら、受話器を取るんだろうな。

スマホを置いて、目を瞑った。夢の残り香がようやく薄れて、代わりに眠気が戻ってきた。意識が沈みかけたその時、窓の外でカラスが鳴いた。

朝とは違う周波数で、低く、湿度を含んでいた。少し土の匂いが混じっているような声だった。その鳴き方を聞いていると、明日の明け方から雨が降るらしいことがなんとなくわかった。

雨か。傘、どこにあったっけな。そんなことを考えながら、オレは眠った。

***

「傘の不在」◇

その日、雨が降り出したのは、昼を過ぎた頃だった。

初めは小雨だった。窓ガラスに細かい粒がたくさん張り付いて、外の景色がわずかに滲んだ。これくらいなら傘がなくても、と思っていたら、二十五分ほどで本降りになってしまった。

あわてて、傘を探した。

自分の傘は、玄関の傘立てに入っているはずだった。入っていなかった。傘立て自体はある。だけどいるはずの傘が不在だった。

おかしい。

玄関を見回した。靴箱の上、下駄箱の脇。どこにもない。

仕方なく、部屋を探してみる。そんなところにいるはずはないと思いながら、茶の間、台所、廊下。傘はどこにもなかった。

玄関に戻りかけたその時、茶の間の隅っこに、見慣れないものが立てかけてあるのが目に入る。

傘だ。

黒い、折りたたみでは長傘。これは私のではない。

持ち手の形が少し違う。ビニール傘でもなく、それなりにちゃんとした傘だ。

彼のものだろう?

しかし彼が傘を持っているところを見たことがない。いつも手ぶらで出かけて、手ぶらで帰ってくる。雨の日も、濡れてびしゃびしゃの肩のまま、帰ってきて震えていることの方が多かった。

いったいどこで手に入れたのか。

借りた?拾ったのか?あるいは誰かに持たされたのか。

聞こうとしてやめた。聞いても、たぶん覚えていない。

だんだんと雨の音が大きくなっている。

少し考えてから、仕方なくその傘を手に取った。

持ち手が少し重かった。骨がしっかりしている。

広げると、思ったより大きかった。

玄関を出た。

雨粒が傘を叩く音がした。規則正しいようで、少しだけ不規則な音だった。

買い物を済ませて帰り道、傘を差しながら早足で歩いた。雨は相変わらず降っている。傘の重さが歩くたびに手に伝わってくる。

家に着いて、雨粒をパンパンと払って、傘立てに戻す。

濡れた傘が、傘立ての中で少しだけ重そうに立っていた。

夕方になると、雨がすっかり上がっていた。

翌朝、玄関の傘立てを見ると、傘立ての中がまた空っぽになっていた。

彼が持っていったのか、あるいは別のどこかに移したのか。

聞かなかった。聞いてもわからないから。

どうせまた、どこかに置いてきてしまうだろうと思った。

***

「目覚めのベル」◆

傘が消えた翌朝のこと。

もうそろそろ起き上がるべきなのはわかっている。重力に逆らうための「きっかけ」が見当たらない。

スマホはさっき眠りについた。バッテリーが限界を迎えて、空腹を告げた合図を最後に、世界とつながるための窓が真っ暗になった。これでピンポンさえ来なければ、もう少し布団の中にいられる。

こんなことを考えると鳴るというのがお決まりの展開だが、こちらはまだまだ寝ていたい。切実なお願いがどこかに届いたようだ。

なんだか、さっきの夢の中でインタビューに答えていたことを思い出してしまった。あの問いかけ——「あなたの仕事は世の中の役に立っていますか?」答えが口から出かかって、そこで切れた。あの続きに、何を言おうとしていたのか。

布団の中でぼんやりと考えていると、その答えのようなものが輪郭を持ちかけた。でもそれを掴もうとした瞬間に、別のことが頭をよぎった。

時計屋の婆さんのことだ。あの婆さんは、いつもややこしい案件ばかり回してくる。きっと自分の手には負えないから、こちらに押し付けてくるに決まっている。

妙に勘がいいあの婆さんが回してくるということは、今回もろくでもない案件に違いない。

うちの先々代、じいちゃんとは異常に仲が良かったから、何かしらわかっているのか。

「ガラガラガラ……」

「じゃあ、出かけてきますから、ピンポンと電話は出てくださいね。出なくても私は構わないですけど、後々に困るのはそちらですからね!どうせ起きてないでしょうけど……」

「ガラガラガラ……ガジャンッ」

強めに閉まった玄関の扉の音がしてから、オレは布団の中で丸まり続けた。

この家にはピンポンとスマホ以外に鳴るものがあったことを、今の今まで忘れていた。
それが鳴らないでくれよ、と思った瞬間——オレの天然パーマが、微かな空気の震えを感じた。

「ジリリリリッ、ジリリリリッ……」

得体の知れない宿命が、またオレを呼びに来た。仕方ない。受話器に手をかける。

「はい、お電話ありがとうございますぅ〜、お電話一本でいつでもどこでも——」

「あんた、ラーメン屋か?」

「あっ、そうですよ、ラーメン屋もやってます。」

「じゃあ、餃子と炒飯を急ぎで頼む。」

「ラーメンじゃないの?あー、すみません、今は一人なんでーー」

声が変わった。

「あんた、かぎやだよな?」

「……なんだ、いきなり?話がないなら切りますね。」

「待て待て、あっちの方の依頼だ。疑ってしまったことは謝る、こっちも切羽詰まっちまっているんだ、すまねぇ。」

「わかりましたよ、ちょっと話してみて。」

「電話では言えない。1時間後に迎えに行きますんで、ある人の扉を開けて欲しいんです。細かいことは迎えの車の中で話します。」

「うーん、はっきり言わないって、なんか面倒事な気がする。それに初めての依頼だっていうのに名乗らないってことは、誰かからの紹介ってことですか?」

「時計屋さんからの紹介で、ここに電話すれば何とかしてもらえるって言われて。」

「あ〜、時計屋か。時計屋ね〜。」

時計屋と聞いた瞬間、右肩の上で何かが重くなった。三つ目の掟の輪郭が、いつもより近くに来た気がした。

「あーわかりました、いいですよ。1時間後ね、準備しときますよ。」

「助かる!ありがとな!もう迎えは向かわせるから、じきに着く。よろしくな!」

「おいおいっ、1時間後じゃねーのかい。」

ガチャッ、ツーツー。

——こちらが答え切る前に切りやがった。

受話器を置いて、ちゃぶ台に飲み残していたはずのお茶を飲もうとしたが、ちゃぶ台は綺麗に片付けられていた。仕方なく気合を入れるためのタオルを頭に巻いて、枕元の道具入れを見遣る。

どんなにろくでもない案件だとわかっていても、この電話が鳴ってしまった以上は仕方ない。それにあの婆さんが回してくるということは、きっとオレにしか開けられない扉なのだ。

腹の底から、音がした。腹が減っている。どんなに緊張感があるタイミングでも、空腹だけは正直だ。

***

「満たす」◇

その日の夕方。

買い物から戻り、電線をチラッと見上げると、出かけに驚かせてしまったカラスがまだ戻ってきていない。いつもならこの時間にはあの電線にいるはずなのに、今日はまだどこかへ行ってしまっていた。

「ガラガラガラ……」

西日に照らされてオレンジ色になっている玄関を開けると、そこに漂っていた古びた紙やインクの匂いも、コンビニ袋の擦れた乾いた音も、綺麗に消えていた。

たった一人の人間がいなくなったというだけで、こんなにも家の空気が変わるものなのかと思う。床板を踏む自分の足元さえもが少しだけ高く響くのだから、驚きというか発見だ。

「シャンッ」

いつも通りに静かに扉を閉めて、部屋へと上がる。茶の間から隣の部屋を眺めてみたが、万年床の布団の山に埋もれていた天然パーマの塊もない。

いつも枕元に置かれている道具入れがないということは、きっと依頼があって出かけていったのだろう。

行く先がどこなのかは知らない。ただ今日の夕方、駅前であの黒い車を見かけた。祖母も同じ車を見ていた。あの時の感覚が、まだ足の裏に残っている。

もしどこかで、どうにも開かない扉の前で途方に暮れている人の役に立っているのならば、私が買い物に行ったことは無駄にならなそうだ。

今日の献立の豚の生姜焼きが、晩餐になるのか、それとも朝餉になるのかはわからない。
けれど、空っぽの胃袋を抱えて今にも泣き出してしまいそうな顔で帰ってくることだけは確信している。
それは彼が仕事終わりに、外食や出来合いの食事を口にせずに帰ってきて、家のちゃぶ台でお茶を飲みながらご飯を食べることがお決まりの展開だから。

血肉を補給しなければ、重力を失ってしまって、コンビニのビニール袋みたいに軽薄で落ち着かないのだという。本当かどうかは確かめたことはないけれど。

買い物の詰まったビニールを置きながら、ふと思う。前に聞いたときのことを。彼のいう扉というのはどこにでも存在しているらしい。

決まった形のものがあるわけではなくて、大きさも人それぞれ。扉を開けた先のことは彼もよく知らないと言っていた。一度聞いただけではピンと来ないし、なんと呼べばいいのかも、こちらにはまだわからない。

ただ、この世でたった一人の誰かの大切なことを思い出せるきっかけを取り戻す仕事だというなら、それだけで十分なことなのではないだろうか。

***

「軽さを羽織る」◆

「ビィーーー、ビィーーー……」

玄関のピンポンの音がした。おい、おい、1時間どころか、すぐじゃねーか。

「ビィーーー、ビィーーー……」

電話のベルもそうだったが、玄関もしつこい。一度でいいものを、律儀に二度三度と鳴らしてくる。

「しゃーねー、開けるか。」

「はい、はい、そんなに押さなくても開けますよ。」

「ガラガラガラ……」

玄関を開けると、思っていた景色とは一味違っていた。三つの影が立っていた。両端が壁のように分厚く、真ん中が一回り小さい。黒、黒、黒。三人ともスーツが黒かった。

頭の中でSF映画の効果音が鳴った。吹き出しそうになった。

必死に笑いをこらえていると、真ん中の小柄な男の顔が見えた。見慣れた顔だ。

「ご無沙汰しています、八代目、お迎えにあがりました。」

「お迎えも何もおまえかよっ、ご無沙汰もないだろ。どうせ時計屋の婆さんに言われて駆り出されてきたんだろ。」

「まぁ、そうなんすけど、とりあえず来てください。」

「わかった、わかった、とりあえず行きゃあいいんだろ。」

「お願いします!八代目、ってまさかそのままで行きませんよね?」

小柄の男が驚くのは当然だ。オレの服装がいつものスウェットにサンダル履きだから。

「何言ってんだよ、これは一軍のスウェットだよ。それに、これが動きやすくていいんだよ、なぁ?」

メジャーリーガー級の上質なスーツを着ている男たちを前に発する台詞じゃないことは理解している。だが、個人には事実なので仕方ない。両脇のガードマンに話しかけたが、無視された。

二人の屈強ブラザーズは微動だにしなかった。前を向いたまま、瞬きもせずに表情も変えない。こういうプロの人間というのは笑わないように訓練でも受けているんだろうか。

「なんかやたらと急いでんだろ、このままでいいよ。」

「そ、そうすね。じゃあそのままでいいっす。行きましょう。」

「あっ、わりぃ、靴下だけ履いていいか?」

断りをいれて、いつものアンクルソックスを履いた。玄関のたたきにへたり込んでいるコンビニのビニール袋には、ソックスを履くついでに冷蔵庫から出したコーヒー牛乳を持つ。
枕元に置いていた道具入れとスマホをポケットに入れて、サンダルを履いて、家を出る。

仕事の前にはコーヒー牛乳がどんなエナジードリンクよりも効果的だと思っている。

「ガラ……カシャンッ」

二度寝を決め込む予定だったが、たった一本の電話で今日も仕事に行くことになった。助けてほしいと聞かされては、放っておくわけにはいかない。

家を出ると、小柄の男がいつも迎えに来るミニクーパーではなかった。やたらと存在感を際立たせている黒塗りの高そうな車に導かれて、やや強引に後ろの席へ押し込まれた。

***

「重さを纏う」◆

中はツヤツヤの革張りで、座ると身体が沈んで、馴染む仕立てのいいシート。
スウェットのままの自分が座っている姿と手に持つビニール袋のカサカサした音が、優越感を持てるカッコよさというよりも劣等感を味わう居心地の悪さに似ていて、少し笑ってしまった。

「ンッ」

強いていえばこれくらいの音。ほとんど音がしないレベルでドアが閉められた。密閉性なのか、なんか空気が重たくなる。
耳の奥がツンとするような感覚。外の音が遮断されてシンとした静けさの中、乗った瞬間には気づかなかったコロンの香りが微かに漂ってきた。

「じゃあ、八代目、車出しますよ。」

「はーい、たのんまーす。この迎えの車がいつものと違うけど、いつものあれは故障中?」

「いえ、この車は今回の依頼者が用意したもので、自分も乗せられてビビってます。」

「だよな。今回の相手って……厄介そうだな。」

黒塗りの車が走り出した。

「とりあえずコンビニ行ってきますから、八代目は乗っててください。絶対に逃げないでくださいね、探してる時間がもったいないんで。」

小柄な男が完全に行動を先読みしてやがる。

「あーい、わかりましたよ。逃げるにも強そうな人に見張られてるんでね。今回はおとなしくしておきますよ。」

黒塗りの車の窓の外に、見慣れているコンビニの看板が見えた。檻の向こう側から観客を眺めている獣のような気持ちで、その光に照らされた自動ドアを見つめていた。

あのドア、今日のオレには開くんだろうか。

そんなことを考えていると、小柄な男が戻ってきて、窓をコンコンと叩いた。両の手にはパンパンに膨らんだはち切れんばかりのレジ袋があった。

「とりあえず、あるだけ買ってきたんで。」

渡された袋の中には大量のキューブ型チョコが入っていた。

「おいおい、子どもじゃないんだから、チョコくらいでどうにかならんよ。こちとら大人なんだから、大人の頼み方してくれよ。」

と言いながら、一つ口に入れる。

「では、こちらも言わせてもらいますけどね。大人は仕事着に着替えるくらいのことはゴネないんすよ。用意されたものはありがたく着ればいいんです、大人しく。」

「あー、はいはい、わかりましたよ。着替えくらいね、朝飯前ですよ。」

と言葉では答えながら、隣の漆黒の箱を開けた瞬間、さっきまでの軽口が喉の奥へと引っ込んだ。

深い海の底を思わせる静かな光沢を放つミッドナイトブルーのいかにも高そうなオーダースーツ。
もう一つの箱にはバシッと糊の効いたシャツと、職人の手仕事の細やかさが素人目にもわかるネクタイ。足元の小さめの箱を開けると、オレの履いてきたサンダルを嘲笑うかのようにピッカピカに磨き上げられた革靴が鎮座していた。

助手席の小柄な男がバックミラー越しに申し訳なさそうだけど確信犯めいた笑みでこちらを見ていたので、「馬子にも衣装だよな。」と言われる前に言ってやった。

「いやいや、そんなことないっすよ。八代目はちゃんとした格好をすればね……。」

まだ笑いが押さえられていない。

密閉されて窮屈な車内で一軍のスウェットを脱ぎ捨てる。せっかく身軽にしている身体を「型」という重力に押し込まれながら纏っていく。

「サイズはご心配なく。八代目の身体に一ミリの狂いもなく出来上がってますから。」

「確かになぁ……。」

袖を通した瞬間、身体が少しだけ重くなった気がした。重力が増したわけじゃない。ただ、ちゃんと地面に立っているという感覚だった。

——これが重苦しい仕事をするための皮膚なのかもしれない。

夕陽でオレンジに染まっていく窓の外の景色が綺麗で、気を取られてしまった。ビルボードにデカい広告が掲げられていて、それが目に入った。「ノーと言える強さを持とう!」と書かれていた。

それが言えりゃ苦労はしないんだよ。

看板を見た反動で頭の中の抽斗が開いちまった。一つ目の「磨くな」と言われている唯一の道具である鍵開け針。ところどころに錆があり、何かしらの金属で出来ているが、素材を特定するには色や質感だけではわからない。

手入れをしてはいけないと言われている以上は確認のしようがないが、ひとたび手に持てば異様に馴染む奇妙な逸品だ。

二つ目の「見るな」というのは、扉の鍵を開けることがこの仕事の目的であり、扉の中にあるソレに関してはこちらの範疇ではない。

依頼を引き受けてきた仲介者と、依頼をしてきた人間のものだということを、親父の仕事に対する姿勢を見続けていて気づいたことだ。

そして三つ目のことに関しては——

頭の中でその言葉に近づきかけた瞬間、止まった。いつもと少し違った。今日は輪郭まで来た。言葉そのものではなく、言葉が発せられたときの親父の顔の記憶が、眉間の裏側に映像として浮かびかけた。

あの表情を、なんと呼べばいいのか。謝っているような顔、というのが一番近い。でも誰に謝っているのかが、あの時はわからなかった。

今もわからない。自分自身に謝っているのか、これから同じ夜を歩くことになるオレに対して謝っているのか、それとも掟を作ったもっと遠い誰かに謝っているのか。

あの顔を見た瞬間、三つ目の内容を聞き返すことができなくなった。聞いてしまったら、その重さを親父が全部背負ったまま口にしなければならない。それが嫌だった。だから聞かなかった。
でも聞かなかったことで、今もその重さだけが宙に浮いている。

親父は今も実家にいる。電話すれば出る。それでも、かけたことがない。

初めて受話器が置けなかったあの夜。仕事を終えて帰ってきた時、ちゃぶ台の前に親父が座っていた。何も言わずにお茶を出してきた。
その横顔が、三つ目の掟を言った時と同じ顔をしていた。

あの夜、親父は三つ目の掟の意味を知っていて待っていたんだろうか。知っていたから、一人で夜中に待っていたんだろうか。

眉間の奥に何かが刺さる感覚。これ以上近づくと、今夜の仕事の前に何かを崩してしまう。

やめた。考えるのをやめた。窓の外に視線を逃がす。雨粒が張り付いたガラス越しに、街の明かりが歪んで流れていく。三つ目のことを考えないことで、続けてこられた。今夜もそうする。

「八代目、ちゃんと聞いてます?」

小柄の男が話を止めて、聞いてきた。

「あっ、なんだっけ?あんまり聞いてなかったから、もっかい最初から……。」

「えっ?どこから聞いてませんでした?」

この車は空気が閉じ込められているような感じがして、耳が詰まった状態になっていることにも要因はある。

「ちなみに現場まではあとどんくらい?」


「ざっと見て、1時間半くらいっすかね。」

何とも絶妙な時間だなぁ。

「オッケー、んじゃ、現場ついたら起こして。」

「承知です、おやすみなさい八代目。」

「なぁ、外、雨になってきてないか?」

窓に細かい雨粒が張り付き始めていた。昨夜のカラスが言っていた通りだ。

「そうっすね、明け方から降るって予報でしたよ。」

「傘、持ってきてないんだけど。」

「……それは八代目が悪いんで。」

「帰り、送ってくれるよな?」

「……状況次第っすね。」

「えー、そこんとこは頼むよ。」

似合わない格好をしたオレを乗せた黒塗りの車が、さらに深い黒の入り口かのように見えるトンネルへと吸い込まれていった。窓に自分の顔が映ったので、思わずそらした。

一瞬だけ、音が消えた気がして、フッと後ろの窓を振り返ってみた。そこには今乗っている黒い車と同じ型で、同じスピードで、ずっと後ろから付いてきている車が見えた。

なんで付いてきてんのかなぁ……。

窓ガラスの向こう、その車のシルエットの中に、一瞬だけ何かが見えた気がした。人影のような、あるいは光のような。それが何かを確かめようとした瞬間、トンネルの光がガラスを白く弾いて、消えた。

「まぁ、いいか。着いてから……。」

目を瞑る。

腹の底から、また音がした。そういや、今日まだ飯食ってなかったな。今日の晩ご飯は豚の生姜焼きだったらいいなぁ。あれがちゃぶ台にあるなら今日の仕事も悪くないことかもな。

そんなことを考えながら、意識が沈んでいった。


*****

「待つこと」■

「じゃ、終わったら連絡くださいよ。」

「おー、了解。」

八代目はそう返事をして、古びた雑居ビルの外階段を上がっていった。その背中が見えなくなるまで見送ってから、俺は車の窓を少しだけ開けた。

雨上がりの空気が入ってくる。湿ったアスファルトと、どこか遠くの焼き鳥屋の煙の匂いが混ざっていた。

エンジンは切らない。これは親父が最初に教えてくれたことの一つだった。

『待ってる間も車は生かしておけよ。帰り道まで止めるな。』

理由は聞かなかった。聞かなかったというより、聞いても答えない気がしたから。

ハンドルに手を置いたまま、フロントガラス越しにビルの入口を見る。この仕事は、とにかく待つ時間が長い。

運転している時間より待っている時間のほうが長いんじゃないかと思う日もある。だから向いてない人は本当に向いてないらしい。親父も昔そう言っていた。

『運び屋は"待てる奴"じゃないと続かない。』

今ならその言葉の意味が少しずつわかってきた。

八代目は毎回、帰ってくる顔が違う。疲れている時もあるし、妙に腹が減っている顔の時もある。逆に、行きより軽くなって戻ってきたり、生き生きしていたりすることもある。
でも、どんな夜でも共通していることが一つだけあった。

帰ってきた直後、ほんの一瞬だけ、少しだけ焦点が遠く感じる。車に乗って、缶コーヒーを渡して、二、三分くらい経つと戻ってくる。
でも戻ってくるまでは、どこか半歩だけ遠い場所に立っている感じがある。

だから親父は、『帰りには温かいもんを用意しろ。』と言ったのかもしれない。

俺はコンビニ袋を見た。今日は肉まんと缶コーヒーを買ってある。雨の日は甘いものより、湯気があるもののほうがいい気がした。

ビルの入口は静かなままだ。ワイパーが乾きかけの雨粒を一度だけ撫でる。時計を見る。もう一時間半経っていた。今日は長いほうだな。

キーに手をかけて、エンジンを切るか一瞬だけ迷ったが止めた。理由は自分でもよくわからない。ただ切ることで何かが途切れるような感じがした。

帰り道まで止めるな、という親父の言葉のせいだけじゃなくて、説明のつかない思いのようなものだと思う。

建物のなかで、何をしているのかは知らない。知らないが、長い夜ほど、帰ってきた八代目は「腹減った……」と最初に言う。それはもう決まっているみたいに。

ふと、助手席を見た。親父が座っていた頃の癖で、今でもたまにそちらを見てしまう。まぁ、当然、誰もいないんだけど。

でも、へたり方だけは昔のままだった。三十年、同じ場所に座っていた人間の沈み込みは簡単には消えないらしい。

「……長ぇな。」

独り言がフロントガラスで小さく反射する。

その時だった。ビルの入口の暗がりが動いた。八代目だった。スーツの肩が少し濡れていた。ネクタイが曲がっている。歩き方はいつも通りなのに、何故か少し重そうだった。

助手席のドアが開く。

「お疲れっす。」

「……おー。」

座るなり、深く息を吐いた。俺は缶コーヒーを差し出した。

「熱いうちにどうぞ。」

「あ、マジで、神じゃん。」

八代目が両手で缶を包む。その瞬間だけ、焦点が少し戻る。親父の言っていた「隙間」というのは、きっとこういう瞬間のことなのかもしれなかった。

「今日は長かったっすね。」

「まぁな。」

「重めだったんすか?」

八代目は少し考えてから、窓の外を見た。

「……いや。」

缶コーヒーを一口飲む。

「重いっていうより、長かったんだな。」

「長い?」

「十年分って、やっぱ長いよ。」

それだけ言って、また黙った。俺はそれ以上聞かなかった。深く聞かないのも運び屋の仕事だった。

車を発進させる。バックミラーに、遠ざかる雑居ビルの灯りが映った。助手席から、小さく肉まんの袋を開ける音がした。湯気がほんのりと車内に広がる。その匂いで、八代目がちゃんとこっち側に戻ってきた気がした。

***

「天へ帰る、地に還る」■

その日は仕事帰りだった。八代目を家まで送り届けて、空が白み始めた頃。

いつもは通らない住宅街を抜ける細い道で、それを見つけた。黒い塊が道路の真ん中に落ちていた。最初はゴミ袋かなんかだと思った。

でもゆっくりと近づくと違った。カラスだった。羽が雨で濡れて、アスファルトに貼りついている。片方の翼だけが不自然な向きに曲がっていた。

車を徐行させながら横を通り過ぎる。そのまま行こうとした。正直、珍しいことじゃない。道路脇で死んでいる動物なんて、探せばいくらでもある。

でも十メートルほど進んだところで、アクセルを踏む足が止まった。

『運び屋は、帰れなかったものを放っておくな。』

頭の奥のほうで、親父の声がよみがえった。あー面倒くさいな、と正直思った。こういうところが親父は嫌だった。大事なことだけ言うくせに、その理由を説明しない。

バックミラーを見る。黒い塊が小さく映っていた。

「……はぁ。」

溜息をついて、車を路肩に寄せた。雨はまだ降っている。傘を差して外に出る。朝の雨は夜の雨より静かだった。

近づくと、カラスは思っていたより軽そうに見えた。死ぬと魂のぶんだけ、重さが抜けるのかもしれないな。

車に積んであった新聞紙とコンビニ袋を一枚取り出して、そっと包む。羽根が一枚、指に張りついた。真っ黒だ。でも濡れていたから、少し青く見えた。

車に戻る。どこへ持っていくか少し迷ったが、結局、親父が昔よく煙草を吸っていた河川敷へ向かった。土手の脇に小さな林がある。

車を停めて、濡れた草を踏みながら奥へ入った。スコップなんて積んでいないから、木の枝で土を掘る。思ったより時間がかかった。穴は浅かった。でも、そのまま置いていくよりはましな気がした。

袋ごと埋める。最後に土を被せて、少しだけ押し固めた。雨粒が土を黒くしていく。

「……ちゃんと帰れたか?」

言葉が口を出てから、自分で変なことを言っていると思った。死んだカラスに帰るも何もない。でも親父はきっと、こういうことを言いたかったんじゃないかと思った。

帰る場所があるものは、帰したほうがいい。それだけの話だ。

林を出る。空はだいぶ明るくなっていた。車に戻ると、シートに雨の匂いが移った。エンジンをかける。ワイパーがゆっくり動き出す。

ふと電線を見ると、別のカラスが二羽並んで止まっていた。鳴きもしない。ただこちらを見ていた。

「……なんすか。」

小さく呟く。当然、返事はない。でも何故か、なんだか少しだけ見送られている気がした。

車を発進させる。朝の道路には、もう通勤の車が増え始めていた。

***

「移る癖」◆

「八代目、そろそろ降りる準備を。近くに横付けしますから、ちゃちゃと降りますよ。」

「はい、はーい、ちゃちゃと降りまーす。」

結局、依頼の詳細が何一つわからないまま、導かれるままに車を降りることになった。

小さな電子音がして、重厚なドアが「スッ」とまるで重力を無視したような滑らかな動きで開く。

用意されていた新品の革靴がアスファルトの地面についた時の違和感と、謎だらけの今回の依頼の怪しさが相まって、目の前にある見慣れている建物が薄気味悪く見える。

なぜか、来たことがある気がした。来たことはないはずなのに。

車から降りると、空は真っ黒になっているけど、街全体が昼間よりも明るくて、目が眩みそうになったので空を見上げた。

あー、ネクタイはどうも苦手だ。喉元が締まる感覚が、自由を奪われる不快感に似ているから。

その嫌な感覚を拭うために右側の内ポケットに忍ばせた革の道具入れに手を当てた。オレの背筋を「シャン」とさせてくれる。

見上げた視界に、カラスが群れて家路へと向かっているのが見えた。鳴くこともなく真っ直ぐ飛んでいる。どこへ帰るんだろう。

オレは少しの間、その黒い影を目で追った。

地上へと視線を戻す。ごちゃごちゃとしている人混みの中に、動かない影が一つあった。全身が暗闇だと見分けがつかない真っ黒。

車から降りたときにはそこにいるのに気づかなかった。周りが明るいおかげで、シルエットのように見えた。

——見覚えがある。

どこかで見た。いや、直接は会ったことがない。でも、この輪郭を、どこかで知っている。

姿を現した目の前の女がこちらに話しかけてきた。

「ごきげんよう、八代目。やっと来てくれたわね。車の中の贈り物も着てくれて嬉しいわ。」

「やっと?依頼自体が初めてだと聞いてるけど?」

「えぇ、あなたへの依頼は初めてだけど、あなたの家族にはいつもお世話になってたのよぉ。もちろん、あなたのお父様にもね。だから、どうしても今回のことはあなたにお願いしたくて。」

優雅な話し方だけど、ほんの少しだけ違和感。「お世話になってたのよぉ」という伸ばし方が、この女の話し方とわずかに合っていない。

借りてきた言葉のような、あるいは誰かの言い方が長い時間をかけて染みついてしまったような。

「あー、なるほどな。だからか、時計屋の婆さんからのいつものスマホでの連絡じゃなくて、なんか知らない奴が黒電話にかけてきたわけだ。」

「スマホは鳴らないようにしていたけどな。」

「今回の依頼者は私じゃなくて、私の旦那なのぉ。本当は彼自身が直接依頼できればよかったんだけどね。」

移ったのか、と思った。誰かの癖が、長い時間をかけて。でもその誰かが誰なのかは、まだわからなかった。

「ハッキリ言ってくれると助かるんだけど……」

女が差し込んできた。

「私の旦那の扉の鍵を開けてもらうことが依頼。だから、ここまで来てもらったわけ。」

「はーん、やっとわかったよ。」

この仕事を一言で言おうとするたびに、言葉が形になる前に消えていく。扉を開けること、とは言える。でも言った瞬間に、何かが少し嘘になる気がする。だから今も、そこで止まった。

「あんたを見た時思ったんだよな。どっかで見たなぁって。」

女の話し方の癖が、もう一度頭の中で鳴った。あの湿度。切羽詰まった声の湿度。夢の中で聞いた声と、同じ湿度だった。

「あんたの旦那、」

「………?」

言いかけて、止まった。夢の中の話だ。でも夢の中でも声の湿度は本物だった。芸人の顔をしながら、芸人の目をしていなかったアイツ。

オレの言葉を聞いて、女は驚いた。明らかに想定していなかった答えだったのだろう。優雅に振る舞っていた微笑みの顔が一瞬だけ、色をなくしたのを見逃さなかった。

「……依頼、してくれたことあるよな。」

「気づかれないように、あんた必死に誤魔化しながら話しているけど、さっきほんの少し漏れてたからな。」

「アイツといると癖が消せないんだよな。」

「それでアイツの扉、どれくらいの時間が経ってるんだ?」

女は答えなかった。答えないことが答えだった。

「……そうか。長いよな。」

「わかったわ、ありがとう。どんな手順でも鍵を開けてもらえるならそれでいいわ。」

「じゃあ、アイツのところに連れてってくれ。どうせここはただの待ち合わせ場所なんだろ。」

「えぇ、そうよ。車はあなたの車を追わせていた車が用意していたものなの。それに乗り換えて出ましょう。」

女との会話を聞いて棒立ちになっている小柄の男を呼びかけた。

「おい、とりあえずここじゃないらしい。お前、一緒に来いよ。乗りかかった船は最後までだろ。」

「了解っす!八代目が行くとこならば、地獄まで〜。」

「地獄はねぇだろ。あっ、まぁ……行く先は地獄かもな。」

「え〜、そうなんすか〜、地獄ってどんなとこなんすかね〜。」

と軽口を交わしながら、用意されていた車に乗り込んだ。車は再び、明るい場所から黒い深みへと向かって走り出した。

「はぁ〜、オレの夜は長くなりそうだ……。まだまだ重力から逃れられない……。」

さっき乗り慣れたはずの身体が沈むシートに全身をどっぷりともたれかかって、口に二つほどキューブ型のチョコを入れて、甘みを溶かしていく。車の窓のザワザワとした賑やかな明るさから、少しずつ色を変えていく気配を感じながら、目を瞑った。

これから先の仕事のことより、さっきのカラスたちは無事に家へと帰れたのだろうか。こんなときにどうでもいいことを考えていた。

車が止まった。

***

「呼吸は深く」◆

「八代目、着きましたよ。」

目を開けると、窓の外は真っ暗だった。街灯が一本だけ、雨に濡れたアスファルトに細長い光の染みを作っている。

「ここ……?」

「ここっす。」

見慣れている建物だと思った理由が、降りてみてようやくわかった。見慣れているのではなく、この場所には「見慣れている何か」が染み込んでいる。

古い公共施設に漂う、乾いた紙と消毒液の混じったあの匂い。何百人もの人間が何十年もかけて置いていった、目に見えない堆積物の匂い。

小柄な男が傘を差し出してきた。

「持っていきますか?」

「いらない。傘なんて邪魔なだけだろ。」

なぜそう答えたのか、自分でもわからなかった。ただ、傘を差すと何かが変わる気がした。雨粒が頭や肩に落ちてくる感触が、今夜は必要な気がした。

女が先に歩き出した。建物の裏手に回り、鉄の扉の前で立ち止まった。すごい桁数の暗証番号を打ち込んで開錠する。音もなく開いた。

中は廊下で、蛍光灯が一本だけついていた。その光が古びた白い壁をのっぺりと照らしている。

「こちらよ。」

廊下を進む。靴音が天井に吸い込まれていく。女の足音は聞こえないが、オレの革靴は歩くたびに主張する。場違いだと言いたいのか。

「静かにしてほしいってことかよ。」

口の中でつぶやく。

突き当たりを左に折れると、扉があった。病院の個室のような扉だった。小さな窓がついていて、中は薄暗かった。女が立ち止まって、振り返った。

「旦那は、ここにいます。」

「もう十数年。正確には十九年かしら。」

その数字が耳の中で転がった。転がるうちに重くなった。

「意識はある。話すこともできる。でも彼は言う。自分の中に入れない、と。部屋の中にいるのに、部屋の中に入れない。

鍵がどこにあるのかもわからない。自分で自分の扉が開けられない、と。」

「……それだけ、言い続けてきたのか。」

「えぇ。」

女の声は揺れなかった。揺れないように、長い時間をかけて慣らしてきた声だった。

「入るわね。」

扉が開いた。部屋の中は、静かだった。窓には厚いカーテンが引かれていて、外の雨音がほとんど聞こえない。

ポツンと置かれた椅子に座る男がいた。目は開いている。天井の一点を見ている?いや、どこでもないのか。

視線は向いているのだが、焦点が合っていない。何か遠いものを、天井を通して眺めているような顔だった。

「八代目がやって来てくれたわよ。」

女が男に話しかけた。男の目が、ゆっくりとこちらに向いた。

「……か。いや、今は跡継ぎか。」

「あっ、まぁそう。」

「親父にあんま似てないな。」

「それはみんなによく言われます。」

男がかすかに笑った。笑ったことで、顔に皺が寄った。その皺の一本一本に、十九年分の時間が入っているように見えた。

女が静かに部屋を出た。扉が閉まる音がした。

「痛いか、とか、苦しいか、とか聞かないのか。」

男が言った。

「聞かないですよ。興味ないんで。」

「そうか。親父も聞かなかった。」

部屋に置かれたもう一つの椅子を引いて、腰を下ろした。右側の内ポケットから道具入れを取り出す。蓋をそっと開ける。針が一本、鈍い光を反射していた。

「やっぱりその針、磨いてないんだな。」

男が言った。

「磨いちゃいけないんでね。」

「なぜかは聞いてるか?」

「聞いてないですよ。掟なのは知ってますけど。」

男がこちらを見ている。ちゃんと見ている。コンビニの自動ドアにも気づかれなかった日のことを、なぜかこの瞬間だけ思い出した。ここでは存在を確認してもらうのに、手間がかからなかった。

「……そうか。」

男はそれきり黙った。オレも黙った。しばらく、雨の音と蛍光灯の微かな唸りだけがあった。

針を手に持つ。毎回そうなのだが、持つと馴染む。自分の手の一部のような気がしてくる。温度がない。重さもほとんどない。あるのかないのかわからない存在感だけがある。

「怖いか。」

男が言った。

「何が。」

「開けることが。」

答えに少し時間がかかった。

「怖いとか怖くないとか、考えたことがないです。」

「なぜ。」

「考える前に、手が動くんで。」

男がまた笑った。さっきより深く。

「そうか。それがかぎやってもんか。」

「そうかもしれないですね。」

立ち上がる。男の頭の少し上の空間に、針の先を向ける。

この瞬間だけは、いつも、説明できない。

扉がどこにあるのかは、見えない。形も、大きさも、わからない。ただ針が向かいたい方向がある。向かいたいというより、向かうべき方向が、手に伝わってくる。

右手が動いた。針の先が、空気に触れた。

その瞬間、部屋の温度が変わった。気がした。正確には変わっていないのかもしれない。でも何かが、ほんの少し動いた。空気の層が剥がれるような、長い時間ここに溜まっていた重たいものが、一センチだけ浮き上がるような。

男が、息を吸った。

普通の息だった。でも今まで彼が吸っていた息と、少しだけ違う音がした。十九年ぶりに使う肺の底を、空気が通るような音だった。

オレは何もしていない。針を持って、手を動かしただけだ。それだけだ。

道具入れの蓋を静かに閉めた。「カチリ」とすごく小さな音がした。

開ける音と閉める音は同じ音がする。何かが開くときは、何かが閉まるときでもあるのかもな。

道具入れをポケットに戻す。椅子を元の場所に戻して、扉の方へ歩く。

「かぎや、いや八代目か。」

呼び止められて、振り返る。男はこちらを見ていた。さっきとはっきりと何かが違った。焦点が、合っていた。遠くを見ているのではなく、ちゃんとそこにあるこちらを、見ていた。

「ありがとうございますぅ。」

「はい、はい、どういたしましてぇ。」

それだけだった。

扉を開けて廊下に出ると、女が壁にもたれて待っていた。オレの顔を見て、目を細めた。

「終わったの?」

「終わったよ。」

「……どんな感じだったか、聞いてもいいかしら。」

少し考えた。

「聞いてもわからないですよ。開けたかどうかも、正確にはわからない。ただ、何か動いた気はするよ。」

「それに細かいことは旦那と直接話すといいよ。」

「確かにそうよね、今はそれだけで十分よ。」

女がハンドバッグからハンカチを出した。目には当てなかった。ただ手の中でそれを握って、廊下の端を見ていた。

「帰りましょう。」

「あ、送ってもらえるんですか、家まで。」

「えぇ。」

「傘、借りられますか。持ってこなかったんで。」

女が少し間を置いてから、笑った。

「あなたは、お父様に似てないと思っていたけど、やっぱり似ているのね。」

意味がよくわからなかったが、とりあえず傘を借りることはできた。

廊下を戻りながら、右手を開いたり閉じたりした。何かの感触が残っているような気がしたが、何なのかはわからなかった。気のせいかもしれなかった。

外に出ると、雨は少し弱まっていた。濡れ羽色したカラスがこちらを一瞬にらんで、飛び立った。

***

「湯気は引力」◇

ほんの少しだけ寝るつもりが、思っていたより眠ってしまったようだ。耳を澄ませば時を刻む音だけが等間隔に部屋の沈黙を切り分けている。

この音が寝ぼけた私の意識を現実へと引き戻す楔のような感じがした。

うたた寝から目が覚めると部屋は青から黒みがかった群青になっていた。眠りが薄かったのか、どこか遠くのほうで本のページをめくる音が聞こえた気がした。

目覚めたときには何も残っていないけれど、指の先の手触りというか、胸の奥にほんの少し紙の匂いのようなものが残っている感じがした。

突然明かりをつけてしまうと夜の端っこが真白く弾けてしまいそうだったので、ちゃぶ台に置かれている間接照明だけつけることにした。

温かみのあるオレンジに照らされて、静かな部屋に少しだけ生命のぬくもりが戻ったようだ。

時計を見た。振り子は律儀に往復して時を刻んでいる。夜というには遅すぎる時間になっていたが、彼が帰ってくるにはまだ早い。

「……さて、準備しよう!」

私は重たい腰を上げ、台所に向かう。鴨居のフックに掛けられているエプロンを身に着けて、紐をキツめに締めて気合を入れた。

まず玉ねぎから取り掛かる。繊維に沿って包丁を入れる。「トントントン」と刻むリズムは秒針より少しだけ速く、私の心拍数と同じくらいだ。

ガス台に鉄のフライパンを乗せ、油を引く。ポークソテー用に少し厚めの豚肉に包丁を入れていく。脂身と赤身の間の筋を切り、数ミリ間隔で筋切りも入れておく。

このひと手間が焼いたときの反り返りを防いで、口に入れたときの柔らかさを作り出す。用意できた肉を二枚並べていく。

「ジュゥ〜」と小気味よく音がした。

フライパンに何かを置いたときの「ジュゥ」という音が、振り子の「コチッ」とどこか似ていると思う。規則正しいわけではないけれど、時間を確かに前へと進めている音だから。

生姜をすりおろしながら、入れていく。さっきスライスしておいた玉ねぎも同じタイミングで入れる。ここで蓋をして、少し蒸し焼きにしていく。

「生姜はね、繊維に逆らわず下ろすんだよ。香りを殺しちゃいけないからね。」

今日習った時の祖母の言葉が頭をよぎった。

生姜が二回に分けているのは他にも意味があるらしい。一度目の生姜は肉を黙らせるためのもので、二度目の生姜は魂を呼び戻すためのもの。

蓋を開けて、お肉がいい感じになっていたら、ひっくり返してもう一度蓋をして待つこと数分間。フライパンの中で肉がしっかりと熱を帯びていき、うまみを閉じ込めていく。

豚肉がいい匂いで合図をしてきたら、黒糖を入れる。

「甘みは重みだ、甘みはケチるな。白い甘さの砂糖では軽すぎて、すぐに飛んでいってしまう。黒糖くらいの色と匂いがあることで、ようやく腹の底に落ちて、重みを持たせるんだ。」

お酒を入れてフツフツとしてきたら、後入れ用に準備していた生姜を入れて、ほんの少し待つ。そこに醤油を回し入れた瞬間に、フライパンの中で何かが弾けた。

香ばしさと甘みが混ざり合った匂いが台所に広がる。空腹でなくても立ち止まらずにはいられない引力だ。

最後に一振りだけこしょうをする。これで完成なのだけど、ここで手が止まった。生姜をもう少しだけ足して、はちみつを数滴だけ落とした。

理由は分からないけど、今夜はそういう気がした。これくらいの重みが必要な気が。

山盛りのキャベツとツヤツヤに照り輝く生姜焼きを皿に盛り、薄めにスライスして水にさらしておいた玉ねぎを肉の上にそっと乗せる。

玉ねぎの隙間から湯気が静かに立ちのぼる。少しずつ細くなり、消えていく。匂いとなって目に見えなくなっただけで、存在を残している。

ちゃぶ台の上にはちゃんと引力がある。彼はまだ帰ってきていない。ちゃぶ台は無防備なまでに空席のままだ。

振り子時計を見た。コチ、コチ、コチ——と律儀に往復していた針が、その時、一度だけ止まった。止まった、と思った瞬間には、また動いていた。コチ、コチ、コチ。

見間違いだったかもしれない。疲れているせいかもしれない。ただ確かに、空気が一瞬だけ薄くなるような感覚があった。

でも今この振り子が止まりかけたのは、こちら側の話ではない気がした。どこか遠くで、何かが動いた気がした。扉が、一枚。

根拠はない。ただそんな気がした。

時計の針はもう止まらずに、コチ、コチ、と続いていた。フライパンの中で豚肉がいい匂いで合図をしてきたので、視線を台所へ戻した。

「ガラガラ……」

呼び水のように玄関を開けて、湯気を少し外へと逃がしてみた。向かいの電線に目をやると、黒い影が二つ、重なってそこにあった。

「ガラ……シャン」

ドアを締めて、チラリと時計を見る。振り子の揺れを眺めていたら、祖母の言葉が頭に浮かんできた。

「振り子が止まるときはだいたい人間のほうが先に諦めているときだ。」

時計は重力に従っている。重力に逆らうことは大層なことのように思えるけど、本当は従い続ける方がずっと難しいのだと。

私は未だにその意味を完全には理解していないけど、分かることもある。

振り子は重力に従って往復する。湯気は重力に逆らって片道をいく。どちらも、続いている。

「……コチ、コチ。」

***

「黄金色の夜明け」◆

これは、いつの日かの夜明けの話だ。

空の色が変わるころ、家に帰ってきた。

玄関を開けると、家の中は静かだった。電気は消えていて、振り子時計だけが暗闇の中で音を立てていた。コチ、コチ、コチ。

サンダルを脱いで、台所へ向かった。いつも通りお茶を淹れようとして、流しの中に目が止まった。

湯呑みが一つ、伏せて置いてあるのが目に入る。

いつもと違う置き方だった。ただ洗って伏せているのではなく、何か隠すような感じに、そっと置いてある気配がした。

そっと手に取って、ひっくり返してみた。

欠けている。

縁の一部が、小指の爪くらいの大きさで、きれいに欠けていた。

割れたのではなく、欠けた。破片がどこかにあるはずだが、流しの中にも、周りにも見当たらなかった。

古い湯呑みだった。薄い青磁で、長い時間使い込んでいて、ところどころ色味が薄くなっている。この家にずっとある、オレよりも長生きの湯呑みだ。

捨ててもいいか、と一瞬思った。

でも手に伝わる重さが、捨てる気持ちにさせなかった。

押し入れの奥を探した。じいちゃんが使っていた金継ぎの道具が、確かあったはずだ。まだ小さかった頃に、一度だけ、じいちゃんが欠けた茶碗を直しているのを見たことがある。

縁に細い金色が走った瞬間だけ、壊れたものが静かに息を吹き返したみたいに見えた。漆と金粉、細い筆、ほこりをかぶった木箱の中に、まとめて収められていた。

それを手にちゃぶ台の前に座って、湯呑みを手のひらに乗せた。

欠けた縁を、指でそっと撫でた。鋭くなっている部分と、滑らかになっている部分がある。時間をかけて欠けたのではなく、一瞬で欠けた形だな。

細い筆に漆をつけて、欠けた縁に沿って薄く塗る。

乾くまで少し時間がかかる。急いでも意味はない。

塗り終えて、湯呑みを窓際に置く。夜明けの光が少しずつ入ってきている。白から薄い桃色に変わっていく空の色が、窓ガラスに映っていた。

乾くのを待ちながら、お茶を淹れる。

同じ柄の湯呑みで飲んだ。

一時間ほど経って、金粉をそっと乗せる。細めの筆の先で、欠けた縁に沿って丁寧に押さえていく。余分な粉を落とすと、綺麗に金色の線が残った。

完全には元に戻ることはない。欠けた部分は欠けたまま、そこに金色の継ぎ目ができただけ。

でも、まぁ、これはこれでいいんじゃないか。

湯呑みを流しの脇に戻した。いつも置かれてある場所に、いつも通りの佇まいで。

布団に入るころには、すっかり明るくなっていた。

気持ちも少し晴れたような気がした。

***

「ごめんね大福」◇

その日は決まった予定がなかったので、朝寝坊の日。

目が覚めた時、部屋の中は昼前の光で満ちていた。

昨日の夕方のことが、起き上がる前から頭に残っていた。

台所で湯呑みを洗っていて、手が滑った。流しの縁にぶつかった音がして、欠けた破片が排水口へ消えた。

そんなに大きな音ではなかったけど、静かな一人きりの夕方の台所では、十分すぎる音だった。

古い湯呑みだった。この家にもともとあったもので、どこのものかも、誰が使っていたものかも、聞いたことがなかった。聞くほど貴重なものというわけではなさそうだったから。

欠けた湯呑みを流しに伏せて、そのままにしていた。欠けさせたことを謝ろうとしたが、彼はそのとき不在だった。今は帰ってきていることは知っていた。明け方に玄関の音がした。でも起き出てまでの動き出すところまではなれなかった。

意識するわけでもなく、台所へ向かって、流しに視線を落とす。

湯呑みが、いつもの場所に置いてあった。

そっと手に取ってみる。

欠けていたはずの縁のところに、細い金色の線が走っていた。

ほんの小指の爪ほどの長さの、静かな金色だった。完全には元に戻っていない。欠けた形はそのままで、そこに金が入っただけだ。

でも縁を指で撫でると、鋭さが消えていた。

いつ直したのか。

夜明け前に帰ってきて、気づいて直してくれたのか。それとも私が起きてくる前の朝になる頃に直してくれたのか。
どちらにしても、何もなかったように直して、何も言わずに布団に入ったということだ。

茶の間の隣の部屋では、布団の山から天然パーマの塊が突き出ていた。

湯呑みを、慎重にいつもの場所に戻す。

お茶を淹れてみた。欠けていた縁から金色の線が覗いている。口をつける場所を、少しだけ変えた。

変えなくても良かったのかもしれない。ただそうしてみた。

飲み終えて、湯呑みを流しで気をつけながら洗った。金色の線は、水をかけても消えなかった。当たり前だよね。そういうものだから。

きちんと謝ろうとして、やめた。

言葉にしてしまうと、この金色が別のものになってしまう気がした。

このままにしておく方が、この家の空気とは合っている気がする。

代わりに彼が好きな大福を買っておくことにしよう。

振り子時計が、コチ、コチ、と鳴っていた。


*****

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