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もっと本が読みたかった人

むかしむかし、ある村に、本望(ほんもう)という年老いた賢者が住んでいました。本望は生涯を通じて多くの本を読み、知恵を蓄えてきましたが、晩年になってもなお、「もっと本が読みたかった」とよくつぶやいていました。
村人たちは不思議に思いました。
「賢者様は、もうたくさんの本を読まれたではないですか」
本望は穏やかな目で遠くを見つめながら答えました。
「読めば読むほど、まだ読んでいない素晴らしい本があることに気づくのじゃ。知識の海は、泳げば泳ぐほど広がっていく」
本望の家には、床から天井まで本が積み上げられ、
読みかけの本、
これから読む本、
何度も読み返した本、
友人から借りた本。
後に本望はこう語りました。
「人生は短く、本は多い。もっと読みたかったという思いは、知への渇望の証。それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことなのかもしれない」
そして「本への渇きは、知恵の源」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2025年3月11日16時38分に書く無名人インタビュー1034回目のまえがきでした!!!!!

【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは 小林昌広 さんです!

年齢:60代前半
性別:男
職業:(3月末まで)大学教授



現在:病気になってから、やっぱね、自分の体のことばっかり考えてて、これ面白いっていうか変なんですけどね。自分の体と自分の脳みそがね、別々なんですよ。

qbc:
小林さんは、今何をしている人でしょう。

小林昌広:
今ちょっと原稿書いてましたけどね。

qbc:
普段は何をされてる方なんですか。

小林昌広:
あの大学の先生をやってます。

qbc:
何を教えてらっしゃるんでしょうか。

小林昌広:
えーとね、難しい。まあ広くは哲学なんですけどね、あとは舞台芸術とか。

qbc:
なんか自分の専門はこれみたいなっていうと?

小林昌広:
専門ってのは特にないんですよね。だから昔、子どもの時に見てた舞台とか歌舞伎とか能とかの古典が多いんですけども、そういうものを授業で教えてます。

qbc:
どんなことを教えてるんですか。

小林昌広:
あの舞台の構造であるとか、ストーリーであるとかね、歌舞伎の歴史であるとかそういったことを授業で喋ってますね。

qbc:
はい。いつ頃からされてるんですか。

小林昌広:
そうですね。大学の教師になったのは22(歳)からですから、今から43年前。

qbc:
43年前から。テーマは同じ?

小林昌広:
えっとね、同じこともあるし、僕は医学部出てますから医学の授業をすることもありますね。

qbc:
歌舞伎とかそういう古典芸能ですかね。それも43年前から?

小林昌広:
はい。そう。多分ね、それはもっと前。だって歌舞伎は3つの時から見てますから。

qbc:
なるほど。じゃあ先生に、教授になられてからずっと(歌舞伎を)教えてらっしゃるんですか?

小林昌広:
そうそう、だから授業のテーマになったのはそうなんですけども、舞台そのものはもうずっと前から見てますよね。

qbc:
なるほど。ざっくり最近の気持ちってどんな気持ちで過ごされてるんすか。

小林昌広:
気持ち? 舞台に関してとかじゃなくてですか。

qbc:
そうですね。

小林昌広:
はい。今ちょうどね、65歳になったので、今年度の3月で定年退職なんですよ。なので特に考えはないんですけども、非常勤とかで教えるのは続くので、全く教師をやめちゃうわけじゃないんですけども、だいぶ仕事は減りますよね。
だからその65歳っていうか定年で辞めた後のこともちょっと考えなきゃいけないなと思ってますけども、そんな感じです。

qbc:
気持ちの部分で言うと?

小林昌広:
気持ち的にはね、なんかあの、自由で好きなことできればいいなと思ってる反面、やっぱ経済的なこととか、ちょっと病気してたんで体のこととかもあるので、その辺はちょっと不安ですけどね。

qbc:
何分の1ぐらいになるすかね、仕事量。

小林昌広:
そうだな。ざっくり1割ぐらいかな。

qbc:
1割になるんすか。1割減るじゃなくて?

小林昌広:
1割になる。

qbc:
1割になる、なるほど。

小林昌広:
ほとんどないも一緒ですよね。

qbc:
そうっすよね。

小林昌広:
うん。

qbc:
そんじゃ何やろうと思ってるかって、ぼやっと考えてらっしゃることがあれば。

小林昌広:
初め1年はですね、もう本当に自由になれるので、非常勤とか講座とかありますけども、それも少ないので、ゆっくり本を読んだりとか、今まで読めなかったやつを読んだりとかね。今僕は京都に住んでるので京都の図書館、大きい図書館がありますんで、平安神宮のそばに。そこにでも毎日通いながら読んだりしようかなと思ってます。

qbc:
なるほど。その他何かありますか。

小林昌広:
舞台はちょっと見続けたいと思ってますけど、僕は去年の9月に脳出血で入院してたもんですから。脳出血だと割と目からの情報が、要素が多いとめまいとか立ちくらみとかしちゃうので、まだちょっと舞台は自信がないんですよね。見に行くことはね。
映画は何とかなるんだけど。字幕のない日本の映画は観るようになったんすけど、ちょっとやっぱり字幕のある洋画ってのはまだ要素が多いんですよね、目から入ってくる情報が。だからそれは気をつけてるから、まあちょっと、少しずつ良くなってきているので、舞台にも足を運びたいなとは思ってます。

qbc:
なるほど。退院っていつごろされたんですか。

小林昌広:
退院はね、11月の終わりあたりかな。だから2ヶ月ぐらい入院してましたけど。

qbc:
うん。読書、舞台。その他何か。

小林昌広:
そうですね。
あとはだから僕はあの、これ(無名人インタビュー)に気づいてくれた僕のNoteにも書いてある、Noteのこともちょっと続けて書きたいなと。そんなに更新はできないけどNoteも書きたいなと思ってるのがありますね。
それから資料でお送りした「今週の1冊」ってYouTubeの配信も、なかなか毎週じゃいかなくなってるけども、そういうのもちょっとずつ続けていきたいなと思ってますね。

qbc:
Noteは何を書かれるんですか。

小林昌広:
ノートはね、一応僕の病気だった脳卒中の、「脳卒中の哲学」って全体的なタイトルで、哲学ですよね。今まで僕が考えてたいろんな哲学のことをまとめてるっていう感じですね。

qbc:
考えてらっしゃることって、どんなことを普段考えてらっしゃいますか。

小林昌広:
あの病気になってから、やっぱね、自分の体のことばっかり考えてて、これ面白いっていうか変なんですけどね。自分の体と自分の脳みそがね、別々なんですよ。
だから自分の脳みそが考えてるように体が動かなかったりするっていうのはまあよくあることなんですけども、そういう状態がずっと続いてるのでなんか脳だけが体の別の部分なんですよね。

qbc:
うん。うん。

小林昌広:
だからその辺の、何かうまく脳と体が繋がってない繋がらなさみたいなことはちょっと考えたりしてて、それを一応医学的にはどういうものなのかなとかね、医学では解明できないことも多いので、そうすると他のジャンルのことを調べながら、いろいろ考えたりするっていうことをしてますね。
基本的に自分の体中心に物事を考えたり、毎日が進んでるっていう感じかな。

qbc:
はい。例えばどんなことが起きるんですか。

小林昌広:
僕は小脳出血っていう脳出血だったんすけど、小脳っていうのはものの平衡感覚とかバランスとかを司ってる場所なんですよね。

qbc:
ええ。

小林昌広:
だから歩くときはふらついちゃうんで杖ついて歩かなきゃいけないんだけど、例えば高いとこにある本を取ろうと思って見ようとすると、本の書名がありますよね。

qbc:
ええ。

小林昌広:
だから情報が多いわけよね。ただ空を見るのとは全然違うわけで。
その情報が多くなるとちょっと立ちくらみとかするので、今本屋さんと図書館の高い(ところにある)本、低い本でかがむのもしんどいから。そういうのがなかなかやりにくいんですね。できないことはないけど、やるとすごい立ちくらみがするので、それと闘いながら本を選んだり、読んだりしてるってとこですね。それが一番大きい。
あとはそうですね。やっぱり血圧のコントロールが難しいので、中山美穂ちゃんもそうだったけどね、お風呂に入ってからの血圧、お風呂に入ると血圧下がりますから、脱衣所に出ると温度が引き下がるので、ああいうコントロールが難しいから、ちょっと入浴とかいうのも、かなり気をつけてやってますね。

qbc:
それに伴う生活環境っていうのは何か、どういうふうに変化してるんすかね。

小林昌広:
だからそのね、万事動きはゆっくりですよね。動きなんかもね、部屋の中では杖つけないんで壁伝いで移動するって感じでしょ。
例えばトイレで座っても頭が下がるから、屈むのと同じになるからやっぱ具合悪くなるんですよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
だからそういうのも全部行動が、それから首なんかも、ただ首だけを右に曲げたりすると具合が悪くなるので、お腹から体全体を右に向けないとちょっときついですよね。
そういう万事、日常生活の動きがゆっくりなりましたね。だから速いことを要求されるとできない。

qbc:
はい。11月退院後からに比べると状況ってどうなってきてるんですか。

小林昌広:
でもまあ、だいぶマシになった気がします。だってね、入院してたときって移動はほとんど車椅子だったし、点滴つけてますよね。点滴の支持台ってありますよね。あれで動くのがせいぜいだったけども、杖ついて良くなった方なんですよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
だから今は杖つかなくても直進はできるんだけど曲がったりとか回ったりとか、あるいは後ずさりしたりっていうのができないので、あと段差とかね。

qbc:
はい。

小林昌広:
そういうのがなかなか大変なので杖を使ってますけど。だから退院した直後に比べるとまだマシになったかなって感じですね。

qbc:
ええ。うん。

小林昌広:
大学の授業なんかも、もちろんずっと休みにしてましたから。それも1月の終わりぐらいから再開はできるので休みながらではあったけど、喋られるようになったので、それは良かったなと。
大体脳卒中って言語の中枢がやられるんですよ。みんな。大抵の人が言葉ができなくなるので、呂律が回らなくなるとかね。
それは幸い僕はずっと長いこと大学の先生やって喋ってたでしょ。かつずっとこういう感じでお喋りだから、喋ることには大丈夫だったみたいですね。だから4年前にも脳梗塞でやっぱ2回ぐらい入院してるんですけども。

qbc:
はい。

小林昌広:
そのときも全然言葉の方は大丈夫だったんですね。呂律の方はね。だから一応商売道具といえば商売道具だから、これを使って今こうやってお話してるように、いろんなとこで配信したりとかね。やってるわけですね。

qbc:
YouTubeの方も、その前に倒れられたときをきっかけにされてるんすか。

小林昌広:
YouTubeはね、あれですよ。もう450冊近く紹介してるから、1年間で48週しかないから年間48冊しか紹介できないですよね。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
だからもう8年か9年ぐらいずっとやってるって感じですね。あれは僕が今の勤務先、岐阜県が勤務先なんだけど、勤務先の図書館長をやってましたから、そのとき図書館長だったから何かやるべ、と思って始めたことなんですよね。それを館長辞めた後もずっと継続してるっていう、学校とは関係なく継続してるって感じなんですよね。
あとはそう、言い忘れたけど、月に3回サブスクの講座っていうのをやっていて、「日々の哲学」っていう名前の講座なんですけども。多分「日々の哲学」で検索していただければ一発目に出るような科目名にしてるんですが。「哲学の日々」だと山ほど出てくんだけどね。「日々の哲学」はなかったんですよ。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
これも哲学だけじゃないけど月3回土曜日なんですけど、月3回土曜日に哲学をテーマとか、それから哲学者、人物とか、それから作品。古典とか映画とか小説とか含めたその3つのジャンルに分けて、毎回1時間ぐらいだけどお話してるっていうのはサブスクでやってるんですね。

qbc:
ご趣味ってなんでしょう。

小林昌広:
趣味、趣味といえば読書と、観劇だから、趣味だか仕事だかもわかんないですね。(笑)
趣味と仕事一緒みたいなもんですよね。

qbc:
そうですね。舞台を観られるっていうところについて、ちょっとお話いただけますかね。

小林昌広:
子どものときから、3つぐらいから見て、3つのときは何も覚えてないんだけども、なんか歌舞伎ってすごい照明が明るくて綺麗なんですよね。あの役者さんが着てる着物とかも本当に綺麗だからまずその様式美みたいなのに憧れたんですよね。
絶対今の演劇とは違ってそっち行けないじゃないすか、舞台の上に上がるなんてことはできないわけで。

qbc:
うん。

小林昌広:
だから全く異世界だっていうとこがすごいなと思って、ずっと見てるんです。歌舞伎が特に一番僕は古いんだけど。
それで少し前からスケッチを書くようになって、スケッチ書きながら歌舞伎見てるっていう感じ。そうすると役者の所作っていうかね、動きとか、そういうものにも気をつけて見るようになったっていうのもあるし。
とはいえ授業でやったのはそういう歌舞伎の見方だけじゃなくて、入門編では見方も教えるけども、歴史ですよね。こういう芝居がどういうふうに出来上がったかとか。例えば近松門左衛門って人が『曽根崎心中』って心中ものを書きますよね。
あれは近松にとってはものすごく新しい、本当に今のSNSより新しくて、心中事件が大阪で起こったっていうと京都から彼は籠を飛ばしてその日にも行くんです。心中現場にね。
で、関係者にインタビューして、3日ぐらいで『曽根崎心中』書いちゃうんですよね

qbc:
はい。はい。

小林昌広:
で、1ヶ月ぐらいで上演したらもう大当たりで、大阪でね。
それがやがて明治になると今度は人形から人間に変わるんだけど、そういう、エンターテイメントでありながらかなりニュースソース性も濃くてね。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
だからこれ、三谷幸喜が後で『其礼成心中』って作品を書くんだけど心中が流行っちゃうんですよね。だから『曽根崎心中』なんかが舞台になると。みんなああいうふうに美しく死にたいってみんな思うから、男女が心中するってのは流行しちゃうんですよね。
だから曽根崎のお初天神って神社があるとこだけど、あそこ昔は湿原で、そこで一応死んだってことになってんだけどカップルが心中しようと思って薮の中に行くとあちこちに死体がいるので、「今日やめて明日にしようか」ってまたカップル帰っていくっていうみたいなね。そういうのが日常あったようです、わからないけど。
そういうこともあって、面白い、そういう何か現実と現実じゃないってこと、今は歌舞伎そのものは全然現実じゃないんだけども、実際江戸時代にはそういうリアルなもんですよね。ちょんまげ結って着物着てるってのは当たり前のことだから。
そういう意味ではあの繋がりも当時はあったのかなと思って、そういう話をしたりはしてるんですよね。

qbc:
はい。うん。その歌舞伎を観に行ったきっかけっていうのは。

小林昌広:
うちは変なうちでね、変なうちっていうか、うちのばあちゃんがそういうのを、ばあちゃんとおふくろがそういうのが好きで、子どもの僕をよく連れてってくれたみたいですよね。うちの親父は落語が好きだったから、落語の寄席によく連れてってくれたんですよ。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
おふくろがアングラっていうか新劇の女優だったから。

qbc:
あー、はいはいはい。

小林昌広:
だからテント芝居とかね、ああいうのにも子どものときから連れてもらいましたね。小学生ぐらいから。

qbc:
場所はどこだったんすかね。

小林昌広:
東京です。

qbc:
じゃあ、現役のテント芝居の女優さんだった?

小林昌広:
テントってあんま教えてくれなかったけど一応アングラ演劇みたいなやつですよ。何だろうね、当時は声優って仕事がなかったからね。ナレーションをやってたけども。声の吹き替えですよね。あれもやってたみたい。だから(銀河鉄道)スリーナインのメーテルの池田昌子とか先輩なんですよね。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
それから銭形のとっつぁんの納谷悟朗とかも先輩なんですよね。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
だからあの人たちがよくうちに遊びに来て、いろいろやってくれて、本当に至福の時間でしたけどね。うちでね。

qbc:
もうそのお芝居が…

小林昌広:
なんか当たり前みたいな感じでしたね。

qbc:
はい、そうですね。

小林昌広:
ルパンやってる山田康雄さんと、納谷悟朗が飲みに来る。よくうちに飲みに来てたんだけど、それでうちのおふくろが峰不二子をね、あの峰不二子やってた人も先輩だったけど、二階堂有希子さんや増山江威子って方はね。3人でルパン三世を僕が中学のときやってくれるんですよ
これ漫画だから本物ってわけにいかないけど本物ですもんね、本当にこういう人だから。で、その2人がルパンと銭形のとっつぁんなわけだから。これ最高に面白かったですね。

qbc:
めちゃくちゃ贅沢ですよね。

小林昌広:
贅沢ですよね、これね。今はどっちも亡くなってしまったから絶対実現できないけどね。
で、納谷さんうちに電話してくるときに必ず声色変えて電話してくんですよ。それで僕がちょっとね、謎かけをして「沖田館長からですか?」っていうと沖田艦長の声でね、(宇宙戦艦)ヤマトの。してくれるし、「チャールトン・ヘストンですか」って言うとチャールトン・ヘストンの声でやってくれる。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
すごいおちゃめな声優さんでしたね。

qbc:
なんか家電話でよかったなって感じですね。

小林昌広:
本当そうですよね、面白かったですね。もちろんこっちも納谷さんとわかるんだけど、それでちょっとカマかけるとやってくれるっていうね。割と安上がりでそういうことを依頼できたわけですよね。今だと大変だと思うけど。

qbc:
お子さんだったからね。多分ね、そういう遊びをね、きっと。

小林昌広:
だから、そうそう。役者仲間とかよくうちに遊びにご飯食べに行ったりしてたときに、僕は子どもだったからあやしてもらったり遊んでくれたりするっていう人が多かったですよね。
あと歌舞伎の場合も、うちができる前だから僕がちっちゃいときだけど、ある歌舞伎役者さんの家に居候してたみたいですよね。だから歌舞伎との繋がりってのもちょっとそういう意味ではあったみたいですね。

qbc:
うん。うん。性格は人からなんて言われたりします?

小林昌広:
ああ、私?性格?性格は……根暗の反対だよね。でも、とっつきにくいとは時々言われますね。何考えてるかわかんないとかね。

qbc:
うん。うん。自分自身ではどんな性格だと思ってらっしゃいます?

小林昌広:
いたって普通じゃないかなと思うけど、でも実は自分としては根暗かなとは思ってますけどね。あんまり人と付き合うの好きじゃない。

qbc:
ふうん、何してるのが好きなんですか。

小林昌広:
何してんのが好きなのかな。うちの、今の写真でわかる通り猫飼ってるんで、この猫と遊んでるかな、っていうのが多いかな

qbc:
うん。身近な人、距離の近い人、家族、パートナー、そういう距離の近い人から言われる一面ってありますかね。

小林昌広:
もちろん教え子はたくさんいるわけですけど、教え子は結構慕ってくれますよね。僕はいろんな全然違う方向からアドバイスするので。

qbc:
うん。

小林昌広:
自分たちが例えば論文書いたり研究しますよね。すごい悩むわけですよ。そんなときに僕は全然違う方向から「こうやってみたら」とか言うみたいなんですよね。僕はそんな気はないんですよ、全然ね。でもそれであの、なんか、驚かれたり、尊敬されたりしてますけどね。

qbc:
好きな食べ物を教えてください。

小林昌広:
好きな食べ物、食べ物。蕎麦かな。

qbc:
それは何か東京生まれでそういう、何ですかね、観劇とかそういう趣味の方だからとか、何か特別な思い入れとかあるんすか。

小林昌広:
それは、ちょっとあるかもしれませんね。芝居に蕎麦食うシーン出てくるの歌舞伎は多いですからね。落語なんかも多いからね。それはあるかもしんないし蕎麦屋は東京に多かったですからね。
京都も割と多いけど、どこのお店も高いからあんまり行かないんですけど。だから蕎麦と鰻ぐらいかな。

qbc:
うん。

小林昌広:
やっぱ東京だったってのは大きいですよね。

qbc:
ちなみに京都は、どういう経緯で京都に?

小林昌広:
はい、ちょっとね、これ説明すると難しいんですけどね。大学が大阪だったんで20歳ぐらいで大阪へきたんですよね。大阪に住んでてから岐阜県が職場になったのが20年弱前なんで、その頃に岐阜の大垣にちょっと部屋を借りるんですね。

qbc:
うん、うん。

小林昌広:
だから大阪と大垣の二重生活になりますよね。その頃にたまたまだけど、うち今いる猫、イデアって名前の猫なんだけど、この黒猫を譲渡会で見つけて預かるんですね。
この子を飼わなきゃいけないからペットが飼えるマンションが必要だってことになったので、教え子が割と京都に就職してたり京都の大学行ってるやつが多かったので京都にするべか、と漠然と考えてね。京都でペット飼える場所を探してたんですよ。そしたらもう京都駅の一駅南側にある、もうどんぴしゃりのところがあったので今そこに移ったんですね。
で、大垣の部屋を引き払って、大阪はまだ部屋はあるんですよ。家賃だけ払って、本が4万冊ぐらいあるんで、どうしようもない書庫になってて、そこにはまだちょっといますけどね。いるって全然行ってないんですけど、書庫だから、うん。って感じだから、それで今は京都にいますね。東京には全然戻ってないですね。

qbc:
20年ぐらい京都にいらっしゃる。

小林昌広:
そんなにはいないですよね。20年前に岐阜の大垣の方に仕事で行くようになってから、大垣ですから。だから10年もいないかな。8年ぐらい。うちの猫が来て7年目ですからそんなもんですね。

qbc:
うん。うん。

小林昌広:
ああ、今、言われてわかったんだけど、猫の譲渡会でもらう前にもね、ペットを飼えるマンションに入ってたんですね、僕ね。

qbc:
うん。

小林昌広:
そうか。それで準備してたんで猫もらえたってことになりますよね。


過去:だからよく言われたのが、勉強しろって言われたことは一度もなかったけども、本は読むなと言われましたね。

qbc:
過去について、子どもの頃から聞いてくんですけど、大体20分ぐらいしか時間がないのでもう超駆け足みたいになってしまうんですけれども。

小林昌広:
はい。

qbc:
一通り聞きたいなというところで、まず子どもの頃、どんなお子さんでしたかね。

小林昌広:
子どもんときはね、本はよく読んでましたね、やっぱりね。
これ笑っちゃうんですけどね、この小学校の頃から本をどんどん買う。当時は岩波文庫とかが、星1個が50円というやつだったんですね、だからまあ非常に安かったのね。だからお小遣いとかお年玉で岩波文庫は簡単に買えたわけですよ。
文庫以外はあまり買えないんだけど、それであんまり読めないかもしれないけど岩波文庫、頑張って小学生のときにどんどん買って集めて、たくさん集まりますよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
そうすっとまだ僕は、僕の時代はまだ子ども部屋なんて作ってもらえる時代じゃなかったので、台所のお客様用のお皿が並んでるところに岩波文庫を並べてたわけですよ。お皿を他のとこに移してね。お客さん来るとうちのおふくろが開けるとないわけね。お皿がね。岩波文庫がずらっと並んでるわけで。
だいぶ怒られて、だからよく言われたのが勉強しろって言われたことは一度もなかったけども、本は読むなと言われましたね。

qbc:
へえ。

小林昌広:
読むな、買うな、ってことをね。散々言われて、でも全然やめないで僕はずっと、どんどんどんどんクローゼットがいっぱいなってくるのね。キッチンがね。

qbc:
はい。

小林昌広:
それでさすがに諦めて、うちの親父が部屋を間仕切って子ども部屋を作ってくれたんですよ。っていう思い出がありますね。

qbc:
ふうん。それ何歳ぐらいの頃ですか?

小林昌広:
小学校高学年から中学校にかけてですね。

qbc:
もっとちっちゃい頃どんな子だったか覚えてます? 幼稚園とか小学校とか。

小林昌広:
そうですね。そんなに記憶はないんだけど、でも本を読むの好きだから割と1人でいるのは好きな子だったんですよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
それとあと、どの子どもさんもそうかもしれないけどね、男の子の場合、虫とか何とか好きよね。

qbc:
うんうん。

小林昌広:
ああいうもので遊んでるっていうことが多かったかもしれないすね。
変に大人じみてたから、子どもの時にやっぱ芝居とか見てるじゃない。歌舞伎とかね。落語とかもやっぱり子ども、小学校の低学年ぐらいからうちの親父に連れてってもらったから、変なとこが大人じみてたっていうか、子ども離れしてるとこがありましたね。うん。

qbc:
なんか覚えてらっしゃいます? 大人じみてたエピソードというか。

小林昌広:
あのね、うちのじいちゃんが遊び人でね、神楽坂ってところで僕生まれてんだけど、神楽坂は料亭がいっぱいあるんですよ。芸者さんをいっぱいあげてドンチャン騒ぎする場所があって、うちのじいちゃん1人でサラッと行ってね。
芸者の置屋っていう、いわゆる芸者の派遣所があるわけですよね。神楽坂ってとこはね。そこの置屋ってのは普通はそこでは飲めないんだけど、うちのおじいちゃんはそこの玄関口に座って、お酒飲んでんですよ
孫である僕、多分孫である僕をダシにしてね、うちのばあちゃん、奥さんには言って出かけると思うんですね。夕方ね。で、行くわけで、僕は暇だからドタドタ部屋の中入ってて、まだ芸者さんなる前の半玉さんっていうんだけど、芸者さんになる前の僕と同世代の子どもがいっぱいいるので。

qbc:
はい。

小林昌広:
そこでおままごとやったりとか。女の子だけですからね。だからそこで三味線を習ったりとか、習うっていうか一緒に弾いたりとかしてたりですね。それでお酒、うちのじいさんがコップ酒が好きだったから、日本酒をコップに入れて飲むんですよね。あれの真似して、コップにバヤリース、今は懐かしいバヤリースオレンジを入れて、あれをうちのじいちゃんみたいにブハーって言って飲んでたってのをよく覚えてますね。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
じいちゃんの影響が強かったな。だから子どものときの僕をいろんなとこ連れてってくれました。いろんなところって、そういう大人の遊び場ね。に連れてってくれて。
芸者さんがきて、お三味線弾いて歌ったり踊ったりするんだけど、太鼓も叩きますよね。そうするとおじいちゃんが太鼓叩いてる芸者にね、駄目出しをするんですよ。「ちょっと貸してみろ」ってバチを預かって叩くと、子どもの僕が聞いてもさっきの芸者さんよりもうちのじいちゃんの方がうまいのね。
そういうのを何度も経験してるんで、小学校に入ってから「お前なんか習い事行く?」って、習い事は大体あのね、お金持ちの子ピアノとかバイオリンとかじゃないすか。

qbc:
はい。

小林昌広:
三味線習いたい」って言ってね。清元って邦楽のジャンルがあるんだけど清元に習いに行ったりとかはさせてもらいましたね。

qbc:
生まれ育った場所、当時の神楽坂の風景ってどんなところだったなっていうふうに覚えてらっしゃいますか。

小林昌広:
そうですね。だから生まれ育ったのは神楽坂っていう下町なんだけども、本当にその色街である神楽坂の芸者のお客さんとか多かったから、とても今考えると幸せだと思うんだけど、歩くと三味線の音が聞こえたりとかね。夕方でもね。
そういう幸田文の文学の世界みたいでしたね。

qbc:
そうですよね。当時から出版社とか、その辺り、ちょこちょこ文化的な会社が多いですけど。

小林昌広:
新潮社と旺文社はありましたね。それで早稲田の鶴巻町っていうのが西側にあったので、鶴巻町は、あのね、あの紙屋さんとか印刷屋さんが多いですよね、製本屋さん。

qbc:
へえ。

小林昌広:
今減っちゃったけど、ものすごいたくさんあったんで、製本機のガチャンガチャンっていう機械の音とかはしょっちゅうしてましたよね。だから僕の小学校の同級生でもやっぱそこの製本屋の息子とかが何人かいますしね。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
そういうとこで、だからあれですよ。新宿区の中で丁名が唯一ない町なんですよね。僕は矢来町、弓矢の矢に来るって書いて、昔は、城下町なんでお城の外に矢垣があったんですよ。矢来って言うんだけど、その「矢来町3」で終わりなんですよ。何丁目何番地なんてないの。

qbc:
よくわかんないってことですか、そのあたり。

小林昌広:
よくわかんないってか、矢来町3番地がたくさんあるんですよ。

qbc:
でっかい区画になっちゃってるんすね。(笑)

小林昌広:
そうそうそうそうそう。何丁目って分けてないの。みんなで対抗してその新宿区に文句言ったらしいです、何10年か前に。
だからすごい人は二十騎町とか、20の兵隊、騎兵がいるから二十騎町とか、箪笥職人がいたら箪笥町とかね。お寺さんがあったんで横寺町とか。山伏が多かったら山伏町とか言って、全部「何とか町」だけど何番って番地だけなんですよ。
矢来町3番地ってのは6軒ぐらいあって、そのうち小林が3人ぐらいいるんですよ。本当に郵便が間違えて届くんですよね。

qbc:
それは届かないですよね。(笑)

小林昌広:
届かない。僕大学の合格通知が届かなかったの。で、夕方になってくしゃくしゃになったやつが何か運び込まれてきて、それが合格通知だったの。ってこともありましたね。今多分、矢来町は700何番地までありますよ。

qbc:
すごい。

小林昌広:
町名変更しないからね。古い町ではありました。昔はそういうとこだといろんなお店がうちの近くにありましたよね。隣が八百屋さんだったし、ラーメン屋さんがお向かいにあったりとか、ごくごく普通の下町でした。
だからちょっと一歩その神楽坂の方に行くとやっぱ三味線の音が聞こえたり芸者さんがいたりとか、あと足袋屋さんとか下駄屋さんとか三味線の糸だけ売ってる店とか、今だったら絶対営業できないようなお店ばっかりでしたね。

qbc:
小中高と、学校ではどんなお子さんでしたか。

小林昌広:
小学校の低学年のときにはよく高学年からいじめられてましたけどね。ていうのはうちの、さっき申し上げたじいちゃんばあちゃんが住んでたのが、その小学校の隣の家だったんですよ。

qbc:
うん。

小林昌広:
うちは結婚して離れたんで違うとこから僕は帰ってましたけど、でも時々はじいちゃんばあちゃん家に泊まるんでその隣ですよね。だから、授業の1時間目の鐘が鳴ると窓開けて飛び降りて学校行ってた、ということしてましたね。だからそういうのがあって近くにいるってだけでね、なんていうかそういうふうに目立っちゃいますから。

qbc:
うん。

小林昌広:
小学校1年生のときに6年生にいじめられてましたね。もうこれどうしようもないですもんね、これね。

qbc:
今のいじめとはちょっと違う感じですよね。

小林昌広:
ちょっと違います。いや、だいぶ違います。そんな、なんか直接的なんですよね。なんかいろいろ憎しみが深く深く浸透して、みたいなんじゃないのね。

qbc:
うん。

小林昌広:
なんか隣から来てるやつなんで生意気だっていうんでよくいじめられて、っていうことはあったけど、でもそれを除けば普通の小学校だったかな。水泳教室には通わされてたんで、泳ぎは得意だったのでよく1時間目がプールの授業だと海水パンツのまんまおばあちゃんちから窓を開けて学校に降りたんで、困るのは1時間目終わると、僕は海パンだけなんですよ。

qbc:
はいはい。(笑)

小林昌広:
もう1回家帰って着替えなきゃいけないんですけど、先生先生に意地悪されてね、「それで授業を受けなさい」とか言われて、海パンで授業を受けたこともありましたね。

qbc:
はい。

小林昌広:
うん。

qbc:
中学校はどうでしょう。

小林昌広:
中高はね、私立の学校、進学校だったんすけど、そこに受験して行って、そこが僕の人間形成では大きかったですよね。いろんな同級生もいたし。今でも付き合いますけどね。今卒業して40年以上経つけど、今でも同窓会って年に一遍やってるので、その300人ぐらい集まるんですよ。とんでもない同窓会があって毎月20人ぐらい集まるのもやってるので。
だからその連中と付き合いっていうのが当時からあったんで、音楽をやったり芝居もやってましたし。そういうのが多かったですね。
僕は、でも実はもう中学に行った頃から歌舞伎座に通ってたので、本当、通ってたんですけどね。毎日歌舞伎座行ってましたから。

qbc:
それは観られるんですか、中。

小林昌広:
なんかそう、そうです。だから、もちろんそんなチケットは買えないから、幕見といって今の、今でも1500円ぐらいかな。当時は300円とかそんなもんなんだけど、それで全部、立ち見だけどね。

qbc:
うん。

小林昌広:
それで劇場の4階、いわゆる天井桟敷のところから歌舞伎を見るっていうのはできる。それだと毎日通えるわけですよ。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
学校行かず毎日行ってましたね。歌舞伎座。
で、歌舞伎ってのは初日が大体3日か4日に開いて千秋楽25日なんですよ。学校行くと、同級生が「あ、そうか、もう楽日過ぎたから学校いるのね。4日ぐらい」とか言われて、同級生の方が僕のスケジュールをちゃんとわかってるっていうね。ことがあります。しょっちゅう行ってて、それと図書委員会っていうのも入ってたものだから、なんで図書委員会入ってるかっていうとやっぱ本をたくさん借りられて、無制限に借りられるんですよね、図書委員がね。っていうメリットがあったんだけど、借りるよりも読んじゃった方がいいやっていうんで歌舞伎がないときは図書館にずっと行ってて、まあ学校で授業やってたみたいですけど、授業やってたんで図書館でずっと僕は本借りて読んでましたね。
そうすっとおっかないおっかない図書館長の、高校の先生ってのは当時図書館長だったから。その先生がやってきたんで「あ〜俺怒られるな」と思ってびびってたら、お茶を運んでくれてね。

qbc:
うん。

小林昌広:
たまたま僕は「谷崎潤一郎全集」を呼んでたんですけど、そしたらあの「谷崎はどうですか」とか何か言って、その先生は、おじいちゃんの先生だったから谷崎純一郎と直接会ったこともある方だったんですね。その思い出話なんかをしてくれるんですよ。授業中に。図書館で、2人でお茶を酌み交わしながら。それで「まあゆっくりしてください」とかっていう、去っていくっていうとてもいい先生だったですね。
だからあんまり授業は出ない、図書館にいるか歌舞伎座にいるかって感じだったんですね。同級生みんなそれをわかってたから代返してくれたりとか、やってくれましたね、みんなね。

qbc:
大学はどんな感じですか。

小林昌広:
大学はね、初め理学部に行って、僕は動物実験するの嫌なので植物の、今は植物も嫌だけど、植物の、植物生化学ってのをやってましたね。光合成の研究してたんですよ。それからタンパク質の研究をしたいなと思って医学部に移るんですよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
大阪大学の方に移って、阪大に行ったのは手塚治虫に憧れてっていう、もうすごい単純な理由なんですけどね。

qbc:
はい。

小林昌広:
ちょうど僕が中学2年のときに「ブラックジャック」が始まったのね。でも「ブラックジャック」の少年チャンピオンの連載第1回の表紙が「ブラックジャック」でしたからね、あれがね。それを見た瞬間には自分にもう手塚先生は大阪大学行けって言ってるんだって何かその神の啓示を受けたんですね。それでずっと阪大を狙ってたっていうのがありますから。で、行ったわけですね。
それで行ってみて面白かったのは同級生が100人、120人ぐらいいるんだけど、一応アンケートをとったの。なんで医学部のアンケートをとったんですよ。3分の1と40人はね、嫌なやつらね、これ灘高が多いんだけど、自分の偏差値を横に見て大学別のやつ見たら、京大の石油化学か阪大の医学部があったと。「石油化学の勉強するの嫌だなと思ったから理学部に来た」ってすごい嫌なやつが3分の1。残りの3分の1はね、やっぱり「自分が病気したり怪我をしたときに医療の世話になったんで、ナースや医者がすごく優しかった、技術があった」とかいう非常に真面目な人ね。「だから医学をやりたいと思ってきました」ってのが3分の1。
残りの3分の1がもれなく「ブラックジャックを読んで」っていうね。

qbc:
本当ですか。(笑)

小林昌広:
本当ですよ。馬鹿が僕以外にも30人いたんですね。

qbc:
へえ。

小林昌広:
多分僕ら中学んときのショックってやっぱ大きいんですよ、「ブラックジャック」の影響ってすごいと思いますよね。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
今でもね、だから僕は「ブラックジャック」の授業をやるって芸大に行ったとき、京都に行ったときに、20代から30代のときブラックジャックの授業をすると。ブラックジャックの漫画、当時はね、コンピュータないんでコピーしたやつを全員に配って。
まず漫画のコマの説明とかしますよね。漫画的な進み方、その後に医療倫理の問題とか、技術、本当にこんな手術をするのかどうかとかね。
僕が思うには多分ブラックジャックを見てた人が今は医者になっていろんな手術を開発すんだけど、ブラックジャックの影響を受けた手術のやり方ってのはいくつもあるんですよね。時間ないから具体的に言えないけど。明らかに手塚先生が漫画中で考えたやつは今実現してるんですよね。現実の医療の世界で。そういうのはいくらでもあるんですよ。
そういう話をしてたりしたんですよ。初め30人ぐらいの授業で。そしたらいつの間にかね、近くの京大病院から白衣着た医者たちが、若い人たちがね、授業を聴講するようになってきてね。当時SNSなんかないから口コミかなんかだったんでしょうね。「ブラックジャック」の授業やってるんで、京大からみんな白衣着たまま自転車ですっ飛ばしてきてね。当時もちろんポケベルの時代だから。でポケベルがピーピー鳴るんです、授業中。「すいません急患が」とか「いつも診てる患者の様態が急変したんで帰ります」とか言ってみんなで帰っていく、ということがしょっちゅうありましたね。

qbc:
はいはい。

小林昌広:
で、いつの間にか学生数が10倍ぐらいになっちゃったんで、教室を体育館に変えてやったっていう記憶がありますね。そのぐらい「ブラックジャック」が人気あったのね、まずね、僕よりもね。
僕みたいにあんまり医学の話とそういう漫画の話が両方できる人ってあんまりなかったから、すごいそれはあの人気があった授業で、1年しかやらなかったけどね。だからアンケートとって同級生の30人ぐらいがブラックジャック見て、読んでっていうのはなんか納得できましたよね。

qbc:
うん。

小林昌広:
うん。そういう時代。ただ僕は医学部行ったときはそういう外科の手術とか何かやるんじゃなくて、いわゆる基礎、社会医学っていうんですけども、社会の中にいろんな潜在的な患者がいるわけですよ。僕は実際患者だったわけだけども、どんな人もやがては死ぬわけだから。なんかいろんな意味でみんな病人なわけですよね。今はそうじゃない人もね。
そういうのを見ていく領域がいろいろ、医学史って医学の歴史とかね、医療社会学とかね、医学哲学とか、そういうちょっと小難しい社会、医学の世界があるのでそれに行くようになるんですね。

qbc:
なるほど。それは何歳ぐらい?

小林昌広:
大学を終えて医学の修行が終わって大学院に上がってからですね。

qbc:
うん。20代半ばぐらいですかね。

小林昌広:
そうですね。そうです。だってもうその頃既に僕、大学で教えてましたもん。

qbc:
へえ。

小林昌広:
それはあんまり言っちゃいけないかもしれないな。(笑)
あの年ごまかして卒業したことにして教えてましたけどね。

qbc:
そう。そんな、昭和ってそんなに許されましたっけ。(笑)

小林昌広:
いやもう全然何でもされますからね。もう大体うちのボス、指導教官の代わりに授業をしたり、やってましたから。「今日私まだ執筆の仕事があるから君行って授業してくれ」とか、「わかりました」とか言って行って授業してましたね。だから自分より年上の学生に教えてましたもん。

qbc:
それで大学卒業してからどんな感じだったんですか。

小林昌広:
で、その段階ではいろんな大学の看護学校とかで教師やってましたから、横にシフトして大学院。大学院は結局最後まで僕は行けなかったんですね。僕のボスがもう定年で移っちゃって他の学校に。で、その後がんで亡くなってしまうから、もう僕の指導してくれる人がいなくなってしまったわけで。

qbc:
はいはいはい。

小林昌広:
中途退学じゃない、単位取得満期退学というややこしいやつなんですけど、単位を全部取ってるので、時間が来たのでやめたって感じになります。そのときにはもういろんなところの大学の先生やってたので、そういうとこの仕事にシフトしたって感じですね。

qbc:
てことは博士号を取ってないんすか。

小林昌広:
とってないんです、実は。

qbc:
へえ、なるほど。

小林昌広:
驚かれるかも知れないけど医師免も持ってないんですよ、僕。

qbc:
なるほど、研究だけしたっていう。

小林昌広:
そうそうそう。ちょっとキザで今考えるとすごい後悔してますけども、あの研究職やりたいっていうんで、まあ変な言い方、医者になっちゃうと医者になっちゃうじゃないすか。

qbc:
うん。

小林昌広:
それはそれで良かったかもしれないんだけども、でもそれじゃ面白くないなと思ったんで、あえてそうしないで研究者の道に進もうとしたってこともありますよね。

qbc:
うん。その後30代、40代、50代ってどんな感じのキャリアでしょう。

小林昌広:
そうですね。なんか、どういったらいいかな。
あの、割と普通にいろんな大学の先生やってて、いろんな大学がいろんな科目を要求してくるんですよね。やりにくいものね、やったことない科目とかね。それでそうすると、僕ら準備しなきゃいけないわけじゃないすか。15コマ分、あの半期分ね。だから、それの準備が研究みたいな感じですよね。

qbc:
なるほどね。うん。

小林昌広:
だから授業で喋ってることが研究になるみたいな感じ。だから、昔の先生は授業で喋ったやつを半期分を原稿にすれば本になったみたいで。

qbc:
うんうん。

小林昌広:
今でもフランスとかドイツの先生は授業のためにちゃんと原稿を用意して、原稿読むだけってつまらない授業をみんなしてるんですけども、だからそれが本になっちゃうんすよね、講義用の原稿がね。

qbc:
はい。

小林昌広:
ということがあるんで、そういうことも入れると研究者というか、何か授業をやってる人、あの落語の世界では舌耕って言うんです、「舌で耕す」って書いて舌耕って言うんですけども。だから喋ることで、自給自足するっていうかね、収入を得るみたいなのを舌耕芸って言うんですね、落語のことを、昔、江戸時代は。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
だから僕は芸じゃないけども舌耕人ですよね。舌で耕して稼いでる人ってことになるので。そういうのをずっとやってたって感じかな。ですね。本も何冊か出してますけども。

qbc:
そうですね。そう(本を)検索してみて、でもあれですね、ジャンルがちょっと、一口に言いにくい感じの。

小林昌広:
同じ人が書いたのかなって思われちゃいますけどね、でも実は僕の中ではね、全部繋がってんですよ。これ喋ると本当に授業1コマ分になっちゃうんだけど、要するに簡単に言うと、人間の体、身体ってことで全部繋がってるわけですよね。

qbc:
はい。

小林昌広:
医学も舞台も哲学も全部身体なんですよね。
哲学に身体論という領域があるんだけど、だけど哲学の身体論ってすごい、なんていうのかな、胡散臭いっていうか表面的っていうかね。みんな医学のことをご存知ないから細かいとこまでいきませんよね。

qbc:
あー、なるほど。はいはい。

小林昌広:
哲学ってのはもう4000年前のギリシャ時代から「自我とは何か」とか「意識とは何か」とか難しいこと言ってるわけだけど、それを医学的なことは全然してないわけです、哲学ではね。今でこそ医学やってる哲学者とか哲学やってた医学者が出てきたので少し良くなってるんだけども、まだ足りないんですよね。
僕はそこの領域で喋ることが多かった。しかもそこに舞台芸術、舞台とかパフォーマンス、ダンスとかなんかも全部身体ですから。そういうのが関わってくると、いろいろと豊かな面白い授業ができるってことですよね。

qbc:
うん。うん。

小林昌広:
だから僕の中ではその身体を中心にして、芸術と医療医学と哲学っていうその三角形の中に身体を置いてるって感じで繋がってはいるんですよ。

qbc:
ありがとうございます。ご両親からどのように育てられたと思ってますか。

小林昌広:
ああ、両親。あの、うちのおふくろはまだ東京の神楽坂の実家で93(歳)ですけど、健在なんですけども。

qbc:
はい。

小林昌広:
この人は本当に面白い人でね、自分の母親で言うのは変なんだけど、申し上げたように女優さんをやって、あの子どものとき銀河鉄道スリーナインを見るとね、あのメーテルの声を池田昌子さんがやってるわけですよ。自分の先輩が。そうするともう少し大人になってくるとよくおふくろと飲みに行ってたんだけど、そうすっと飲みながらね、あの、「お前さえ生まれなければ私がメーテルだったのに」っていつも言ってました。
「そんなことないぞ、お母さん。声優がいっぱいいるんだから池田昌子じゃなかったらあなたってことないですよ」って言うんだけど、「お前さえ生まれなかったら私は結婚して声優を諦めたりしなかったのに」とか言っていつも怒られてましたね。
でも非常におおらかな人で、やっぱり東京の江戸時代から続く家のお嬢様であったからね、その辺のおおらかなとこがすごく残ってて、僕はすごく付き合いやすいですね。変な言い方だけどね。
いつも笑顔が絶えない人でね、今LINEができるようになったからiPhoneでLINEを彼女はしてくるんでね、毎日やってんですけど、まあ、もう面白い冗談ばっかりでね。「お疲れんこん」とか何かそういう変な絵文字を送ってくるのね。ちゃんとわかってやってますからね、全然ぼけてないわけですよね。
親父はね、今から何年前かな、3年か4年前に94(歳)で亡くなってうちは割と長寿なんですよね。94で亡くなったんだけど、申し上げたとおり落語とかそういう古典が好きで、歌舞伎も好きだったんだけど、子どものときから僕を寄席とかなんか連れてってくれて、お酒は1滴も飲めない人で建築家だったんですよ。

qbc:
はい。はい。

小林昌広:
いわゆる橋梁建築って橋の建築とか、かなりでかい公共事業を請け負ってたみたいで、それ作るのに例えばメキシコに行くとか、ロサンゼルス行くとかやってましたね。

qbc:
あ、海外ですか。

小林昌広:
海外ですね。日本に帰ってきてからね、ガソリンスタンド、東名高速のガソリンスタンドほとんどうちの親父が作ってるんですけど、ものすごい数がありますよね。
一応施工は1個やればユニット決まってくるからあんまり変わらないんだけど、それをほとんど東名のやつはやったって言ってましたね。

qbc:
うん。

小林昌広:
でも仕事の話は一切うちには持ち込まない人だったから、何してるか本当にわかんなかったですね。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
おっかない人でありましたね。でもおっかない人だけど落語が好きだからやっぱりうちのおふくろとよく冗談やってて、うちは僕は兄弟ないんで一人っ子なんで。多分ね。多分ねってうちの親父もおふくろも最後まで言ってましたね。
それに僕は「お母さん僕一人っ子なの?」って言うと、「今はね」とかね。なんかいきなりお皿を洗う水の蛇口の音を大きくするとか、くだらない小芝居をしてごまかすんですけど、そういうことやってた人だけど、多分一人っ子だと思うんですよね。
そうすっと親子3人だけだから、3人でよくご飯食べに行ったりとか、芝居を観に行ったりとかしてたんですけどね。本当に笑いの絶えない、明るいうちでしたね。

qbc:
人生に転換点を置くとしたら、どこになりますか。あったとしたらですけど。

小林昌広:
転換点は「ブラックジャック」の影響を受けて医学部に行ったことと、それからやっぱ4年前に脳梗塞2回やって、去年脳出血1回やって、病気を、大病をしましたよね。多分どっちも一歩間違えると死んでましたから、私ね。だからそれは転換点て言えば転換点かな。だから、転換点があるから何か変わったじゃなくて、転換点があっても何も変わらないっていう方が転換点かもしれない。


未来:ピンピンコロリで亡くなるのが一番いいのかもしんないけど、なかなか世の中そうはさしてくれないですよね。絶対病院運ばれちゃうから。

qbc:
最後に未来についてお伺いするんですけれども。

小林昌広:
はい。

qbc:
この先5年10年、何10年ってあると思うんすけど、自分が最後死ぬっていうところまでイメージして、どんな未来を今思い描けますかね。

小林昌広:
これは難しいですね。実際病気で入院しちゃうとね、なんかずっと入院したままの未来っていうのを考えちゃって、もう早く病院出たいと思ってたし、もちろん今また病院行くのはもうまっぴらごめんって感じなんですよね。
だからピンピンコロリで亡くなるのが一番いいのかもしんないけど、なかなか世の中そうはさしてくれないですよね。絶対病院運ばれちゃうから
だからそれだったら本当は眠るように死んでいきたいか、僕はよく授業で言ってるのは、ターミネーター2の最後みたいにあの指だけ出して水銀の中に沈んでいくってシーンがエンディングでありますよね。ああいう感じで死体もなくなったまんま、なぜかと言うと医学部出た人間は死体は必ず献体しなきゃいけないんですよ。

qbc:
え、そうなんすか。

小林昌広:
解剖実習に使われるんですよ。拒否すればいいけど普通はしないから。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
それもまっぴらごめんだから、ああいうターミネーター2みたいにすっと溶けてなくなっちゃったらいいなっていうのはよく言ってんですけども、実際はそういうわけにもいかないので、どうするかな。
一番いいなと僕が思ったのはあれっすよね、歌舞伎座とか何かで芝居を見ながらそのまま死んでいくっていったら自分は夢、理想なんだけど、これはものすごい周りの人に迷惑をかけちゃいますよね。
自分だけはそれ、構わないけど周りの人に悪いから、本当はそれが理想だけどそうもいかないですよね。

qbc:
その席は売れなくなっちゃいますよね。(笑)

小林昌広:
そうですよね。ちょっと忌み嫌われてね。
あとはうちの学生1人が言ってたんだけど、授業するときにみんな学生も寝ちゃってね。僕もなんか喋ってるうちにだんだん喋ってる音が小さくなってそのまま逝っちゃってると。で、学生もみんな寝ちゃって俺も死んじゃって、何か気づかないまま授業の鐘が鳴るっていうのはかっこいいんじゃない?って言われて、それもいいかもしんないけど、それもやっぱりいろんな人様に迷惑をかけるので。
やっぱり縁起がよろしくないなって感じてましたから、そうだな。本が墓場みたいなもんだから本の山で、ちょっと僕のある種の理想だけど、本の山で亡くなってしばらく経ってから発見されるってのが一番いいかなって感じですね。
本当にそうなればいいけど、なかなか難しいですよね。

qbc:
なんか仕事を残しておきたいみたいな、あったりします?

小林昌広:
本はあと1冊ぐらい書きたいなと思ってるんですけども、それはさっき申し上げた講座ね、サブスクの講座で喋ってることとか、あるいはNoteで今6回目か7回目までに書いてるんですけども、あれをまとめたやつが本になればいいかなと思ってますね。
さっき申し上げたみたいに医療と芸術と哲学から身体を見たものってあんまりないので、それがちゃんと満足できるものがあれば、僕に続く人がいっぱい出てくればもっといいじゃないすかね。そういうのは1個ぐらい残しておきたいなとは思ってますね。

qbc:
なるほど。もしもの未来の質問っていうのをしておりまして。

小林昌広:
うん。

qbc:
もしも人生の中の芸術の部分が抜けていたら、どうなってますかね。舞台を見なかったとか、出会わなかったら。

小林昌広:
多分あんまり変わらないけどアニメオタクとかになってたでしょうね。

qbc:
なるほど。

小林昌広:
オタク気質だから。

qbc:
なるほど、はい。

小林昌広:
なんか納得しました?(笑)

qbc:
いや、まあ、なるほどって思って。

小林昌広:
なんか好きになると、ずっと追っかけてっちゃうとこあるから、今で言うと推しが増えてきますよね。今話さなかったけど実は僕はアイドル、AKB48の超ガチオタだから。AKB48結成されたときからずっと追いかけてましたからね。今でもね。

qbc:
今でも?

小林昌広:
うん。19年間。だから再来週も卒業する込山榛香って子の写真集のお渡し会に大阪まで行くんですけどね。

qbc:
そうなんですね。

小林昌広:
そういう、だから多分舞台とか見てなかったとしても、そういうアイドルとかアニメとか、多少わかんないけど何かのオタクにはなってたでしょうね、ずっとね。
だからそれでコアなオタになって、だからそれほど変わらなかったでしょうね、やってること。言ってること。

qbc:
でもその古典芸能に出会ったことによって、その話の深みというか、それが飛躍的に深まった気はしますけどね。

小林昌広:
でも例えばそれがアニメとか、そうだな、アイドルになっても、結構メディア論的にとんがったこと言ってたかもしんないし。

qbc:
ああ、逆にそっちの方に寄った議論ができるのか。

小林昌広:
「古典なんか見るやつ馬鹿だよね」とか言ってるでしょうね、多分ね。今は僕アニメやアイドル追っかけるのを馬鹿とは全然思わない。自分もそうだから全く思わないけども、多分そうやって古典を揶揄してるかなっていうのは想像できますよね。

qbc:
うん。でも繋げて考えていけるっていうのは、すごいことですけどね。何かこういう人にメッセージを伝えたいとか明確に、今のお仕事の話もそうですけど、誰に伝えたいっていうのを聞きたいですね。

小林昌広:
もう最近なんか知り合い2、3人から突然共通して言われたのはね、「本が読めない」って言われたんですよね。うちの学校の事務局とか教員も含めてだけど、「いつ本読んでんの」とかね、僕が話すと。「どうやったら本読めるの」って言われて、実はこれ難しいことで本読んでる人どうやったら本読めんのっていう質問は愚問なんですよね。答えられないんです。だって本を読めない自分が想像できないから。
僕の同級生で英語がすごいできるやつがいたけど、そいつが一番嫌がる質問が「どうやったら英語できるようになるの」って質問がね。自分はできるんだもん。
だから答えられないんだけど、最近そういう質問を続けて受けたからちょっと考えてみたんですけども、やっぱりいろんなものに関心を持つと、その関心を持ったものについて資料を調べたくなりますよね、普通はね。これはアイドルでも映画でも、音楽でも一緒だと思うんだけど。そういう何か興味を持つ者を増やすのがいいのかなと思って。
これ誰にメッセージって言ってるわけじゃないけど、僕に続くような人で勉強とか研究とかいろいろされる人はいると思う、いるんでしょうけども、いろんなことに関心を持ってもらいたいんですね。1つのものだと、昔は「専門馬鹿」とか言ってたけど今はその言葉使わないけど。
そういうのじゃなくて、もっといろんなものとか多様なものに、僕がそうしてきたようにね。

qbc:
うん。

小林昌広:
そういうものに興味を持ってもらうと、その中でどっかのフックになって引っかかるから、そうするとそこを調べて深掘りしますから。必ず。
深掘りするためにはたくさん穴掘っておかないとね、あっちこっち。モグラのすみかみたいにね、あちこち掘っとかないと、どこにモグラがいるかわかんないですもんね。あんだけ穴多いとね。

qbc:
はい。

小林昌広:
だからいっぱい穴掘っとくっていうのは大事かなと思いますね

qbc:
なるほど。なんか今、そうですね、一番楽しいことってなんすかね。小林さんにとって。

小林昌広:
今一番楽しいこと。今ちょうどね、あれなんです、デアゴスティーニで、あのDVDコレクション鬼平犯科帳ってのが出始めたんですよ。

qbc:
はい。

小林昌広:
これが今4号まで出てるんですよね。1号につき、あの2話収められたDVDが付いてるんですよ。

qbc:
はい。

小林昌広:
これが多分88枚ぐらい来るみたいなんで、ちょっとびっくり、戦々恐々としてんだけど、だって4年ぐらい来るわけですよね。

qbc:
はい。

小林昌広:
だけどこれ見るのが楽しみですね。鬼平やってたのが中村吉右衛門って僕の、それこそ推しの歌舞伎役者でもあったから。この人がねずっと89年ぐらいから、30年前からずっとやってたわけだから、若い時からね。
これを見るのと、これを朗読がありますんでね、Audibleで。この朗読を古今亭志ん朝って落語家がやってくれてるんですよ。これ僕の推しの噺家で。志ん朝師匠はうちの町内会で、僕んちのそばの矢来町に住んでたんですよね。だからあの志ん朝が出てくると大向こうで「矢来町」って声かかってたくらいで。何度かお会いしたこともありますけども。その志ん朝の朗読を聞きながら、この鬼犯科帳のDVDを見るっていうのが今、至極の楽しみですね。

qbc:
ありがとうございます。最後の質問ですね。最後に言い残したことは何ですかね。遺言でもいいし、読者向けメッセージでも独り言でもいいですけど、最後に言い残したことがあればお伺いしております。

小林昌広:
もっと本が読みたかった。

あとがき(編集)

ちっちゃい頃に全然興味なかったことが大きくなって急に興味深く思えること、ありませんか。子どもの頃食べられなかったキノコが食べられるようになるみたいに。私の場合はバレエでした。子どもの頃はまあ興味がなかった。長い、セリフなし、予備知識もなし。なんなら苦痛だった。でも去年、東京の新国立劇場まで「眠れる森の美女」を観に行って、なんとまあ面白いこと。身体ってすごい。身体って美しい。身体は無限。言葉がなくても伝えられることが人間にはまだまだあるんですね。と思いながら今度は自分で指揮者をしてみました。目に見えない音楽を身体で表現することの楽しさといったら!身体って素晴らしい。
ということを思い出したインタビューでした。ご参加ありがとうございました!京都にお住まいなら、いつかすれ違うかもしれませんね。

【インタビュー:qbc】

【編集・あとがき:meadow】

#無名人インタビュー #インタビュー #大学教授 #哲学


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