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[詩] 天気図

芽吹きはじめの草木にいぶされ
眠たげに起毛した仔馬の肌のような
どんなにゆるやかに見える水面であっても
踏みあやまったつま先をとらえ
ひとをあやめた記憶をもつ
その痕跡を隠すゆえの静けさに
目を 耳を ふかく沈ませ
わたしは
故郷を離れていらい
はじめて水からあがったいきもののように
おなじ種族のことばを忘れ
熱を帯びた足取りで
見知らぬ海図のなかを
長雨に寄り添って歩いている
 
冷えた夢に繰り返し現れる
幼い足で歩んだ橋や路地は
枯れかけたとぎれとぎれの冬の葉脈
いまではみな厚い雨雲に封鎖され
濡れた鳥の羽ばたきだけが
隣町へと許された
唯一の交通として
ひと気のない広場を旋回しては
弔いの花影をちらし消えていく
 
重い水滴に浸された
窓をもたない心の
時計という時計はくるい
脚の揃わないテーブルのうえに
夜ごと積もる蠟の量と
不器用に伸び縮みする影の長さで
めぐる季節をはかり
愛することを誰かに請いもせず
夜の水底に溶けかかる腕を
雨季のやさしい植物の欄干にあずけもせず
長いときをひとり歩いてきたはずだが
生まれてからいちども
どこかの町に満足に停泊した記憶はなく
世の波に足をすくわれまいと
まぼろしの海岸線を小さな手鏡にうつし
過去を追い 記憶に追われ
吐いた息のぶんだけ後ろに戻りながら
生きることから逃れるために
ささくれ立って血の滲んだ岸をつたい
浦々から裏町へと
どこまでも反転してきただけだったのだ
撃ちもしない空から
鳥が落下するのを夢見る
年老いた猟犬のように
かたくななわたしの背を
かるがると風が越え ひとが越え
いつのまにか季節は
取り返しがつかないほど遠ざかっていた
 
あてもなく歩きまわり
雨粒を受け続けた瞼は傷みやすく
歩むにつれ淀みだす視界に疲れ
雨音のなか はじめて立ち止まれば
凍てつく耳の余白にしめやかに
聞き慣れたはずの けれど
いつまでも自分ではうまく発語できない
わたし自身の名の 母音が響きわたる
ひどく懐かしい唇のかたち それは
いちどだけ傷口をかさねあわせた
静かな栗色の目のひとの住む
遠い港町の波が流した
輪廻の呼び子かもしれず
雪解けにも似た響きが わたしを
冬のある寒い朝に
聖夜まで静寂を守ることを約束した
寄宿舎の少女のひとりにかえす
内のみに鳴る祈りのことばを音もなく唱え
柔らかい手から手へ受け渡す燭台の列に
わたしの冷えきった指先はすべりこみ
故郷の温かな漁火の輪へと
傷んだ日々を手放していく
 
手のうちにひとつだけ残った燭台の火に
荒れた波はなだめられ 雨音は消され
凪に安らぐ命の温みをたしかめるように
わたしはもはや
どんな季節の内側にも立ち止まることを恐れず
もういちど
赤子のわたしが流れついた
まだ早い春の海岸に降り立ち
わたし自身の名を
無数の通行人に向かって
ゆっくりと 呼ぶ
 
すこしかすれた やさしげな母音は
いつしか小さな気流となり
新しい天気図のうえで
わたしの通り過ぎたすべての岸辺が
ひとつの風につながれる
 




『水版画』(ふらんす堂、2008年)より。