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【エッセイ】 指差呼称 〜青ブラ文学部〜

ある雨の日の朝
我が子を送りに駅へ車を運ぶ。
いつもの日常だ、いや、いつもよりも1分も遅れていた。1分遅れると、信号に捕まってしまう。あそこの信号は長い。

見晴らしのよい信号のない交差点に差し掛かる。
フロントガラスに叩きつける雨音と忙しく動くワイパーの音のせいで、ラジオパーソナリティの声がよく聞き取れない。 

「右よし、左よし」と心の中で唱えたつもりだった。いつものように。いや、少し油断していたのかもしれない。

と、突然、赤い車が目の前を猛スピードで通過。

「うわっ」
反射的に急ブレーキを踏む。
子供らはそんな状況にもかかわらず、スマホをいじり続けている。

あと1秒こっちが早ければ‥‥‥変な汗が。
ハンドルを握ったまま、どこかで自分を見守ってくれている神様に感謝した。

それでも時間は進む。
子供を駅へ。ちょっとだけ遅れだけどセーフ。
「信号なんて気にしなくてもいいんだよ」と次女。

職場へ向かう車の中で考える。
赤信号で止まるたびに、あの赤い車が脳裏を横切る。本当に見ていたのだろうか、と何度も同じ場所をなぞる。

あの時、私が呼称した「もの」は何だったのだろう。
安全だ、と確信した記憶だけはある。
けれど、右から来た赤い車も、濡れたアスファルトも、その瞬間の景色も思い出せない。
思い出せるのは、「確認した」という事実だけだった。

指差呼称には事故を減らす効果があるという。
けれど、いつしか指差呼称そのものが目的になってしまうことはないだろうか。
「確認した」という言葉だけが先に完成し、現実はその後に置き去りになる。例え現実が「危険」であったとしても。

私たちは、世界を見ているつもりで、実は自分の「見たことにした」という言葉だけを見ているのかもしれない。

その日の夜
妻が美容院に行ったようだ。
髪が短くなっていて、ウェーブが目立つ。

「髪切ったんだね、いいよ、似合ってる」

「2日前だけどね、切ったの」

妻の姿も指差呼称しないといけないみたいだ。

「ちゃんとみています。あなたのことを。あいしているから」
「ほんとうに?」
「もちろん」
前髪が少し短くなっていた。
耳元で小さく揺れる髪が、以前より軽そうだった。
よく見ると、ウェーブは以前よりも細かく波打っていてシャープだ。何かを主張しているような感じがした。

今度は妻の姿をちゃんと見て言った。 

「あいしてる」
指差呼称と同じで、この言葉も相手をちゃんと見たときに初めて意味を持つのかもしれない。



こちらのお題に参加させていただきます。

運転中に指差呼称なんてしないけれど、「確認という仕草」と「認識という実態」は一致するのかなって思って書いてみました。
よろしくお願いします。

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