【掌編小説】 還付 〜シロクマ文芸部〜
三月は確定申告で忙しい。
会計事務所で働いている私は、この時期になると帰りが遅くなる。
書類に埋もれながら、他人の一年を数字に変換する毎日。医療費、住宅ローン控除、寄附金。人の生活は整然とした欄に収まり、還付か追徴かに振り分けられる。
その日、昼休みにペットボトルの緑茶を流し込みながらメールを開いたとき、一通の件名が視界に引っかかった。
〜あなたの幸福を申告してください〜
幸福が多ければ、不幸が還付され、
不幸が多ければ、幸福が還付されます
迷惑メールにしては妙に簡潔で、税務署の文面に似た乾いた響きがあった。削除する指が、なぜか止まる。机の上の書類に蛍光灯の光が落ちている。
思えば、この一年は散々だった。
ぼんやり歩いていて段差につまずき、足首の骨を折った。
気晴らしのつもりのパチンコでは負けが込み、ついに小遣いを止められた。
職場では小さな判断ミスが重なり、私が座るはずだった係長の椅子には後輩が座った。
幸福を申告する余地など、どこにあるのだろう。
毎日、他人の税金を還付しているのだ。不幸だった私に、少しくらい幸福が戻ってきてもいいはずだ。
査定ボタンを押した。
仕事で慣れ親しんだ「申告」という言葉が、私を甘く誘ったのだ。
即座に返信が届く。
今年度、あなたは幸福度が573ポイントオーバーしています。
一カ月以内に不幸を還付します。
異議申し立てはこちらから。
胸の奥で、何かがひやりと鳴った。
幸福過剰?
冗談ではない。
反射的に異議を送信する。
返答はさらに早かった。
足の骨折により、後日の旅行で遭遇予定だったバス横転事故を回避。
パチンコをやめた結果、妻は金の積立投資を開始。増加分よりネクタイを購入。
昇進した後輩は過重業務により心身を損ない、現在通院中。
以上により、今年度の貴殿は幸福過剰と判断。
異議を却下す。
画面の文字は黒々と、まるで公的な証明書のように揺るがない。
自分の足首に残る鈍い痛みを思い出す。あれは不幸ではなかったのか。
後輩の青白い顔を思い出す。あれは私の代わりだったのか。
幸福とは、おそらく目に見えるものではない。
私の横を、音もなく通り過ぎていったものの気配。
それらを私は「申告」しなかった。
それにしても、一カ月以内に還付される不幸とは、どんな形をしているのだろう。
封筒で届くのか、それとも音もなく届くのか。
あわててメールの受信箱を閉じた。
画面は暗くなり、机の上の申告書だけが白く浮かび上がる。紙の白さがやけに冷たい。
査定は、もう済んでいる。
申告しなくても、向こうは知っているのだ。
私は何も入力していない手のひらを、そっと裏返してみた。
こちらのお題に参加させていただきました。
よろしくお願いします。
