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【掌編小説】 闇があるから光がある 〜青ブラ文学部〜

トンネルの中では、光はいつも遠くにある。

数か月前、私はショッピングモールのトイレで財布を拾った。

個室から出て手を洗おうとしたとき、洗面台の端にそれが置かれているのに気づいた。
黒い革の、よく手入れされた財布だった。

中を開くと、きれいに折られた紙幣が何枚も入っていた。
私はそのうちの三万円を抜き取った。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。
本当に必要だったわけではない。
ただ、指先が紙幣の角に触れた瞬間、なぜかそのまま抜き取ってしまった。

免許証が入っていた。
そこには、上品な響きの名前と、やや特徴のある苗字が並んでいた。

写真の女性は、少し微笑んでいるようにも見えた。
まっすぐ前を向いた、落ち着いた顔だった。
どこにでもいそうなのに、なぜかしばらく目を離すことができなかった。

財布はそのまま置いてきた。

それから何度も、あのときのことを思い出した。
とくに夜になると、免許証の写真の顔が、静かにこちらを見返してくる気がした。

ある日、郵便局でお金を下ろそうとしていたときだった。

窓口の前に立っている女性の横顔を見て、胸の奥がひどくざわついた。
忘れもしない、あの免許証の顔だった。

女性は高額の振り込み用紙を差し出していた。
職員の説明を何度も聞き返している。
どうやら、電話で何か言われたらしい。

私は反射的に声をかけていた。

「どうされたんですか、◯◯さん」

女性は振り向いて、不思議そうに目を丸くした。
「あら、どうして私の名前を……」

「そんなことより、その振り込みは、少し待った方がいいと思います」

結局、それは振り込め詐欺だった。
郵便局の人たちも慌ただしく動き始め、振り込みは止められた。

女性は何度も私に礼を言った。
ぜひお礼をさせてほしいとも言った。
けれども私には、その言葉を受け取る資格がない気がした。

私は軽く頭を下げただけで、すぐに郵便局を出た。
どうしても、目を合わせることができなかった。

その夜、車で帰る途中、長いトンネルを通った。
昼間はただの道路の一部なのに、夜になるとトンネルは別の場所のように思える。
車のライトがコンクリートの壁を流れていく。
自分の走る音だけが、低く反響していた。

トンネルの先に、小さな光が浮かんでいた。

ふと、思った。
あのとき財布から三万円を抜き取っていなければ、
今日、あの人の名前を呼ぶこともなかったのだろう。

トンネルを抜ける。

夜の空はまだ深く暗かったけれど、
上澄みのあたりだけが、少し白くなり始めていた。




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