「沈黙」を選ぶテレビ局を描く——映画『偏向報道』が問いかける、報道を〝見極める力〟
架空のM県で、ある日の朝、知事を批判する怪文書が県警本部や新聞各社など計10カ所に届く。M県で最も力を持つとされる地方テレビ局「テレビトップ」は、親会社の東部新聞経由でその文書を手に入れる。直後、報道部の重役会議が秘密裏に開かれ、そこでの結論はこうだった。「県警は事件性なしと判断した。東京もこの件は扱わない。先に手を出した会社が叩かれる案件だ」。その場は「静観」で落ち着くかに見えた。
ところが、ほどなく別の声があがる。「そこはやはり権力と戦うためです」。正義の言葉だ。「権力と戦う」ことが局の存在意義なのだから、この怪文書は使える。そして、ある人物がこう続ける。「一番扱いやすいのはパワハラだ。パワハラをしていると言われると、どんな小さなことでも悪く見えてしまうものだ」。
2026年2月にYouTubeで公開された映画『偏向報道』のオープニング特別映像は、このシーンからタイトルにつながる約3分強の短い映像だ。が、その3分に詰め込まれたものは、「報道とはいったい何か」という問いそのものだった。2026年6月19日(金)に池袋シネマ・ロサほか全国順次公開が始まる映画『偏向報道』。今回は、その作品の成り立ちと意図を、公開されている情報をもとにひも解いていく。
たった3分の特別公開映像が映し出したもの
映画の冒頭シーンを特別公開した動画(YouTubeチャンネル「おぎのきんしろう【報道の裏側】」)を観ると、まず物語の舞台と構造が一気に提示されることがわかる。架空の地方都市に存在する地方テレビ局「テレビトップ」。この局は親会社「東部新聞」を持ち、さらにその下に制作会社がある。テレビ局、新聞社、制作会社という三層の力関係が、映画の縦軸として機能していることが冒頭から見えてくる。
怪文書をめぐって重役たちが集まる会議の場面は、報道現場のリアルを知る人間にはぞくりとする既視感があるかもしれない。「事件性なし」「東京も扱わない」「先に手を出した会社が叩かれる」——これらはどれも合理的な理由に聞こえる。しかし直後に「権力と戦うためだ」という大義が持ち出されると、話の流れが一変する。静観という判断が、「怪文書を活用する」という能動的な決断にすり替わるのだ。
ここで重要なのは、「権力と戦う」という言葉そのものは嘘ではないかもしれない、という点だ。報道機関がその存在意義として掲げてきた価値観は確かにある。しかし、「戦う」という動機が先にあって、そこに「パワハラ」というフレームを後から当てはめようとした瞬間、それはもはや事実の報道ではなく、結論ありきの取材になってしまう。「一番扱いやすいのはパワハラだ」という台詞が恐ろしいのは、その論理がとても「わかりやすい」からだ。パワハラという概念は現代において非常に強い印象を持つ。一度そのフレームで見始めると、どんな小さな言動も証拠に見えてくる。その「扱いやすさ」を意識的に利用しようとする思考が、あのわずか数秒の台詞に凝縮されていた。
なお、この動画の字幕は自動文字起こしによるもので誤認識が多く含まれている(「怪文書」が「会文書」、「M県」が「M件」など)。映画の設定はあくまで架空のM県であり、特定の実在する地域や組織を指したものではない。
映画『偏向報道』とは——基本情報を整理する
映画『偏向報道』は、監督・脚本を荻野欣士郎が手がけた社会派エンターテインメント作品だ。2026年製作、上映時間は90分。配給はエクラン。2026年6月19日(金)より、東京・池袋シネマ・ロサほか全国順次公開が予定されている。
主演は鳥居みゆき。芸人・俳優として幅広く活動してきた彼女が、地方テレビ局の下請け制作会社に所属する女性ディレクター・油神鈴子役を演じる。対する報道局長役には誠直也。その他、東さや香、大迫一平、時東ぁみ、郷田ほづみ、小野進也、螢雪次朗といった個性豊かな俳優陣が顔を揃えている。
テーマ曲は中島卓偉の「最後の一人になっても」。孤立しても信念を貫く強さを歌ったこの楽曲が、映画の世界観と重なる。
監督の荻野欣士郎はテレビ朝日「スーパーJチャンネル」の元ディレクターとして報道の現場に長く携わってきた人物だ。AbemaTV「ABEMA Prime」、TOKYO MX「モーニングCROSS」、テレビ東京「家、ついて行ってイイですか?」「YOUは何しに日本へ?」など、幅広いジャンルの番組を手がけてきた実績を持つ。映画作品としては「私の骨 MY BLOOD BONE」(主演:田口トモロヲ)、「浅草堂酔夢譚」(モナコ国際映画祭準グランプリ受賞)、「池島譚歌」(主演:金子昇・堀川りょう)などを監督・脚本している。
あらすじ——「ねつ造映像」を止めようとする下請けディレクター
物語の舞台は、架空の地方都市に存在する地方テレビ局「テレビトップ」とその下請け制作会社。主人公の油神鈴子は、この制作会社に所属するディレクターだ。テレビ局と制作会社のあいだには厳然たる力関係がある。仕事を発注するのはテレビ局で、制作会社はその指示に従う。元請と下請けという構造だ。
ある日、鈴子は重大な問題に直面する。テレビ局の子会社が、現知事のパワーハラスメントに関する真偽の定かでない情報をもとに「ねつ造映像」を制作しようとしているというのだ。そして鈴子は、その映像の放送を差し止めてほしいと頼まれる。
しかし、立ちはだかるのは報道局長(誠直也)の圧力だ。テレビ局の上層部は「権力と戦う」という大義を掲げ、制作を強行しようとする。下請け会社のディレクターである鈴子には、組織上の権限はほとんどない。それでも彼女は局長の圧力に抗い、真実のために動き始める。
この構図が秀逸なのは、「テレビ局が視聴者をだます」という単純な悪役構造ではなく、「正義を掲げた組織が、その正義の名の下に事実を歪める」という、より複雑で現実的な問題を描いている点だ。そして、その歪みに気づいて声を上げるのが「権限のない下請けのディレクター」であることも、示唆に富んでいる。組織の中で立場が弱い者が、しかし最も純粋に「事実を伝えること」にこだわる——そのドラマが物語の核にある。
動画の概要欄では本作について「偏向報道をしようとするプロデューサーとそれを阻止しようとする型破りディレクターの対決を描くエンターテインメント作品」と紹介されており、社会的テーマを持ちながらもエンターテインメントとして楽しめる作品として位置づけられている。
なぜ「偏向」は生まれるのか——劇中に組み込まれた手法
荻野監督が本作に込めた重要な要素の一つが、実際の報道現場で用いられうる「偏向の手法」を具体的なシーンとして描くことだ。監督の実体験をベースに構成されたという劇中には、「誘導インタビュー」や「モザイク(顔隠し)コメントの編集」といった手法が組み込まれているとされている。
「誘導インタビュー」とは、取材対象者が特定の発言をしやすいよう、あらかじめ設定された文脈や質問の組み立てによってインタビューを進める手法だ。取材者が「こういう発言を引き出したい」と意図を持って臨むと、質問の順序や言葉の選び方によって相手の発言が誘導されやすくなる。得られた発言は「当事者の言葉」として使われるが、その発言に至るまでの文脈が映像からは見えない。
「モザイク(顔隠し)コメントの編集」については、顔や声を加工することで匿名を確保したコメントを編集する手法が想定されているとみられる。匿名性が確保されているために内容の真偽を検証しにくく、かつ映像の性質上「隠れてまで証言しなければならない深刻な事態がある」という印象を視聴者に与えやすい。
これらの手法が「悪意ある人間だけが使う特別な技術」ではなく、現場の慣習や日常業務のなかで半ば自然に行われうるものだという点が、本作のリアリティの核心だろう。偏向は、誰か一人の悪人が意図的に引き起こすというよりも、組織の空気感、締め切りのプレッシャー、上からの圧力、そして「正義のためだから」という自己正当化の積み重ねによって生まれることがある。
概要欄には「マスコミの、火の粉が飛んできそうな時は黙るくせに、批判ができると知ると、黙っていたことを棚に上げて、ひたすら攻撃していく体制」という言葉がある。この指摘が刺さるのは、私たちの多くが「確かにそういう場面を見た気がする」と思い当たる節を持っているからではないだろうか。
監督・荻野欣士郎の「反省と謝罪」という出発点
本作を語るうえで外せないのが、監督・荻野欣士郎自身の立ち位置だ。荻野監督はかつてテレビ報道の現場に長く携わった元ディレクターであり、本作はその経験を土台にしている。だからこそ、この映画は「テレビ局を告発する作品」とは少し異なる性質を持つ。
監督はこう語っている。「この映画の基本は自分の反省と謝罪です。誰を責めるものではありません」。
この言葉は重い。報道の歪みを描くドキュメンタリーや内部告発ものは数多く存在するが、それらの多くは「問題を暴く」「責任を追及する」という形をとる。しかし荻野監督は「告発」ではなく「反省と謝罪」を出発点に置いた。自分もその現場の一部だったという自覚があるからこそ、誰かを一方的に責める立場に立てない、という誠実さが、この言葉には滲んでいる。
また、監督は「報道とは、正義を語るものではなく、事実を伝えるためのもの」という信念を持つ。この一文は、一見当たり前のことを言っているようでいて、じつは現代の報道状況に対する鋭い問題提起だ。いつの間にか報道が「事実を伝える」から「正義を語る」に変わっていく——その変質を、荻野監督は自分自身の経験のなかで感じてきたのではないだろうか。
「誰を責めるものでもない」という姿勢は、作品のトーンにも影響しているはずだ。悪役を一人立てて解決するエンターテインメントではなく、「なぜこういうことが起きるのか」という問いを観客と一緒に考える作品として構成されているとすれば、それは荻野監督の経験と自省から必然的に導かれた選択だと言える。
クラウドファンディングで〝観客と一緒に育てた〟映画
映画『偏向報道』の制作には、もう一つ注目すべき背景がある。制作にあたりCAMPFIREでクラウドファンディングが実施され、目標金額500万円に対して約753万円(約150%達成)が集まった。支援者は845人にのぼり、募集期間は2025年5月31日から7月10日だった。
なぜクラウドファンディングを選んだのか。監督の説明はシンプルだ。「マスコミの構造的問題を扱うため、企業協賛が得にくかった」からだという。テレビ局や広告代理店がスポンサーにつきにくいテーマを映画にしようとすれば、自ずと資金調達の手段が限られる。そこで直接、観客となりうる人々に支援を求めた。
しかし荻野監督のアプローチはそれだけにとどまらなかった。脚本・制作過程・会議内容をオールオープンにし、「観客と共に映画を育てる」参加型プロジェクトとして設計したというのだ。これは映画制作の常識からすれば異例のことだ。通常、脚本は公開前に漏れることを避け、制作過程は非公開で進められる。しかし荻野監督はあえてその逆を選んだ。
背景には「視聴者が報道を鵜呑みにせず、自分の視点で『見極める力』を育む参加型プロジェクト」にしたいという意図があったとされる。映画そのもののテーマである「情報をどう受け取るか」という問いを、映画の制作プロセスにまで貫いた形だ。
映画が完成するまでの過程を支援者と共有し、作品ができあがっていくのを一緒に見守る——この体験自体が、「情報の作られ方を知る」という意味で、映画のテーマと地続きになっていた。クラウドファンディングで支援者845人と作った映画、という事実そのものが、すでにこの映画の主張の一部になっているとも言えるだろう。
テーマ曲と、観る前に考えておきたいこと
映画のテーマ曲として選ばれたのは、中島卓偉の「最後の一人になっても」だ。どれだけ孤立しようとも信念を貫く強さを歌ったこの楽曲は、主人公・油神鈴子が一人でテレビ局の圧力に立ち向かっていくストーリーと深く重なる。制作側は「力強いメッセージとエモーショナルなボーカルが、本作の世界観と深く共鳴し、物語の余韻をより一層際立たせる」とコメントしている。中島卓偉はこれまでも数々の場面で「本音を貫く姿勢」を示してきたアーティストであり、この楽曲においてもその真骨頂が発揮されているという。
さて、映画を観る前に少し立ち止まって考えてみたいことがある。私たちは普段、テレビのニュースやネットの記事を見るとき、何を根拠に「これは正確な情報だ」と判断しているだろうか。有名な局のニュースだから信頼できる、と思っていないだろうか。逆に、最初から「マスコミは偏っている」という前提で読んでいないだろうか。
どちらの態度も、実は「見極め」ではない。前者は媒体の権威に依存し、後者は先入観に依存している。「見極める力」とは、一つひとつの情報について「何が根拠か」「誰が何の目的で発信しているか」「他の情報源と照らし合わせるとどうか」を確認する習慣のことだ。それは面倒くさい作業かもしれないが、荻野監督が映画を通して問いかけているのは、まさにその習慣を持つことの価値なのだろうと思う。
映画『偏向報道』は、悪いテレビ局が懲らしめられるスカッとする話ではないかもしれない。「自分の反省と謝罪だ」と言う監督の言葉を思い出せば、むしろ観た後にざわざわとした感覚が残る作品なのではないかと想像する。そのざわざわを手がかりに、自分自身の情報との付き合い方を見直すきっかけにできるとしたら、それはとても価値のある90分になるのではないだろうか。
2026年6月19日(金)より、東京・池袋シネマ・ロサほか全国順次公開。
偏向報道は、一握りの悪人が嘘をつくことで生まれるわけではない。正義感、組織の力学、締め切りのプレッシャー、慣習——そうした日常的な要素が積み重なって生まれることがある。荻野欣士郎監督は自らその現場にいた者として、「誰かを責める」のではなく「問いかける」映画を作った。フィクションという形式を通して、「報道とは何か、そして私たちはどう報道と向き合うべきか」を問いかけてくる90分。
ニュースを見る習慣のある人、メディアに疑問を感じたことのある人、そして単純に骨太なドラマを楽しみたい人——それぞれに何かを持ち帰れる作品になっているはずだ。
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