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(ショートショート)投げやりな恋

 リハビリ室の隅。
それが、赤嶺 苺愛あかみね いちかの定位置だった。

 車椅子に座り、磨き上げられた窓から、憎らしいほど綺麗な青空をぼんやりと見つめる。

 (みんな、今ごろ何してるんだろう?)

 三ヶ月前までの自分なら、あの青空の下を、誰よりも速く駆け抜けていたはずだった。

 運動神経抜群で、友達にも恵まれて、キラキラした学生生活。

 それが自慢だった。 部活の練習中に、突然糸が切れたように意識が途絶えるまでは。

 生死の境をひと月さまよい、目が覚めた時、私の世界はすべて変わっていた。

 脳梗塞のうこうそく

 それが、キラキラした日常を奪った犯人の名前だった。

 中学受験をして、大学までエスカレーター式のこの女子校が、雰囲気が良くて大好きだった。

 もう、あの廊下を自分の足で歩くことはない。

 (なんで、私がこんな体に……) 答えのない問いが、投げやりな毎日を連れてくる。

 「いい天気だね」

 不意に、背後から明るい声がした。

 びっくりして振り向くと、そこには松葉杖をついた、私と同じ年くらいの男子が立っていた。

 汗で濡れた前髪の下で、爽やかな笑顔がこちらに向けられている。

 (誰かに似てる気がするけど……思い出せない)

「俺、水瀬 琉碧みずせ るあ。十五歳。よろしくね、苺愛いちかちゃん」 そう言って、彼はためらいもなく手を差し出してきた。

 その屈託のなさと、馴れ馴れしい軽さに、苺愛いちかの心の中で何かがささくれ立つ。

 (何なの、この人)

 苺愛いちかは差し出された手を無視し、車椅子のホイールに力を込めた。

 この場から逃げ出したかった。

 だが、麻痺の残る腕は言うことを聞かず、車椅子はびくとも動かない。

 「う、動かない……くそっ」 焦りと苛立ちで、涙が滲む。

 「ちょ、ちょっと危ないって!」 慌てる琉碧るあの声と、異変に気づいたリハビリの先生たちが駆け寄ってくる気配に、苺愛いちかは屈辱で顔を上げたまま固まった。

 その夜、病室のベッドの上で、苺愛いちかは今日の出来事を思い出していた。

 あの男の子……水瀬 琉碧みずせ るあ

 彼は、私のこの体を見て、同情もあわれみもしなかった。

 ただ、そこにいる「女の子」として、当たり前のように話しかけてきた。

 (私の未来なんて、もう真っ暗なのに)

 キラキラした学生生活も、部活の栄光も、全部終わった。もう何もかも、どうでもいい。

 (でも……) 苺愛いちかの唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。

 (あのイケメン君と、付き合ってみようかな)
どうせこの先どうなるか分からないなら、今のうちに少しでも「いい思い」をしとこう。

 今の私に残された、数少ない武器。
それが、まだ衰えていないこの顔だというのなら。

 それは、絶望の淵に立つ少女の、あまりにもゆがんだ反撃の狼煙のろしだった。


 翌日、リハビリ室の隅でいつものように窓の外を眺めていると、案の定、彼がやってきた。

 「やあ、苺愛いちかちゃん。今日は調子どう?」
松葉杖を器用につきながら、琉碧るあは昨日と変わらない笑顔で隣に立つ。

 苺愛いちかは、決意を固めて彼を見上げた。

 計画の第一歩。まずは、相手を油断させることだ。

 「別に。昨日よりはマシかも」 ぶっきらぼうだが、返事をした。

 それだけで、琉碧るあの顔がぱっと明るくなる。

 (単純なやつ) 心の中で毒づきながらも、苺愛いちかは彼のペースに乗ってみることにした。

 「そっか、よかった。俺も、昨日より足の角度、ちょっとだけ曲がるようになったんだぜ」 そう言って、琉碧るあは嬉しそうに自分の足を見せる。

 彼は、部活のバスケの試合前の練習でゴールに激突し、複雑骨折したのだと、あっけらかんと話した。

 「試合、もうすぐなのにさ。マジ最悪。チームの皆に申し訳なくて」  「ふうん……」
 「苺愛いちかちゃんは、何か部活とかやってたの?」

 その質問に、苺愛いちかの心臓が凍った。

 一番、触れられたくない場所。

 「陸上、やってた。短距離」
 「へえ、すげえ!だからか、なんかオーラあると思った」
琉碧るあの言葉に、嘘や同情の色はなかった。

 ただ、純粋な感心がそこにあるだけ。

 それが、苺愛いちかを余計に苛立たせた。

 「もう、やってないから」 過去形を強調して、会話を打ち切る。

 気まずい沈黙が落ちた、その時だった。

 リハビリの一環で読んでいた本が、力の抜けた手から滑り落ち、床に転がった。

 「あ……」 拾おうと身を乗り出すが、車椅子からは到底届かない。

 いつもなら、すぐにナースコールを押す場面だ。

 誰かの助けを借りなければ、本一冊拾えない。

 その事実が、また屈辱となって胸に突き刺さる。

 すると、隣にいた琉碧るあが、「よっと」と奇妙な声を上げながら、松葉杖を壁に立てかけた。

 そして、一本足でけんけんをしながら、ゆっくりと床に屈んでいく。
 「う、おっとっと……」 バランスを崩しそうになりながらも、彼は器用に本を拾い上げ、苺愛いちかの膝の上にそっと置いてくれた。

 「はい、どーぞ」 額に汗を浮かべ、息を切らしながら、彼はまた笑う。

 自分の足も不自由なはずなのに。彼にとっては、簡単なことではなかったはずだ。

 苺愛いちかは、膝の上の本と、琉碧るあの顔を交互に見つめた。

 「ありがとう」という言葉が、喉の奥に詰まって出てこない。

 昨日立てた、皮肉な計画が、頭の中でぐらぐらと揺れていた。

 この人の前では、どんな武器も、どんなよろいも、意味がないのかもしれない。

 その夜、苺愛いちかは初めて、琉碧るあのことで頭がいっぱいになっていた。

 投げやりな気持ちで「付き合ってやろう」なんて思った自分が、ひどくちっぽけで、子供っぽく思える。

 (水瀬 琉碧みずせ るあ……あいつ、一体、何なんだろう)
それは、絶望から生まれた歪んだ興味ではなかった。

 凍りついていた苺愛いちかの心に、ほんの少しだけ差し込んだ、温かい光のような、純粋な疑問だった。

おしまい。


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