(ショートショート)売り物ですから
澄み渡るような秋晴れの中、小林 勇の節くれだった太い指が、朝露の残るトマトを優しく拭っていた。
土と共に生きてきた、実直なその手。
妻の静江は、そんな夫の背中を見ながら、今日も準備に精を出す。
二人が営む、道端の小さな無人販売所。
「100円野菜」と手書きされた看板の下に、丹精込めて育てた色とりどりの野菜が並んでいく。
だが、日の傾き始めた夕方。
お金を入れるための缶カラを回収してきた静江は、いつもと同じように短く、重いため息を「ハァ」とついた。
「お父さん、今日も売り上げはこれだけでしたよ」
彼女が開いた手のひらの上には、数枚の100円玉が寂しげに転がっているだけ。
並べた野菜の半分以上がなくなっているというのに、あんまりな仕打ちだった。
原因は、もう分かっている。
この無人販売所を、善意だけで利用してくれる人ばかりではないのだ。
いい車に乗った人が、野菜だけを掴んで走り去っていく姿も一度や二度ではない。
お金がないわけではないのに、なぜ。
その夜、食卓を囲みながら、静江がぽつりと言った。
「もう、やめましょうか。こんなことをしても、私たちの気持ちがすり減るばかりです」
「……そうは言うてもなあ」
勇は湯呑をすすり、黙り込む。
「楽しみにしてくれとる人も、きっとおるはずじゃ」
「ええ、分かっています。でも…」
言葉を濁す妻の気持ちが、勇には痛いほど分かった。
人を疑うのは辛い。
だが、信じ続けるのはもっと辛い時がある。
しばらくの沈黙の後、勇は顔を上げた。
「よし。最後に一枚だけ、賭けてみよう。それで駄目なら、きっぱり諦めよう」
翌朝。
勇はチラシの裏に、震える手で、けれど一文字一文字力を込めて太いマジックで文字を書いた。
静江は、その背中を黙って見守っている。
完成した貼り紙を持って、二人はいつもの場所へ向かう。
朝日に照らされた瑞々しい野菜が並ぶ後ろの壁に勇はある文字を書いた紙を貼った。
『売り物ですから』
それは、あまりにもささやかな抵抗であり、そして、あまりにも大きな賭けだった。
二人は並んで立ち、自分たちの小さな城である無人販売所を、ただ静かに見つめていた。
もう一度だけ、「人間」というものを信じて。
おしまい。
(あとがき)
この企画を目にしたとき思いついたのがこの話でした。
半分実話です。
自分が住んでるところは田舎です。
農家を営んでる方が多いです。
「無人販売」ということを利用してタダで野菜を持っていく人の多さ。
人間は悪い人ばかりじゃないと思っています。
↑こちらの企画に参加させていただきました
