難病の私が輝けるまで第三話(創作大賞2025恋愛小説部門連作短編)
まきなは、ふと笑った。
「ずるいね。聖夜って。私が迷ってる時に、いつも居心地よさそうに横にいるんだもん」
「それ、ほめてる?」
「うん。ちょっとだけ」
(ああ、もう、これが日常になればいいのに)
(”病気持ち”の私じゃなくて、”私”として聖夜の隣にいられる日が来るなら)
日曜の朝は、あたたかくて、やさしかった。
焦らず、でも確かにふたりの時間が進んでいた。
「男性とふたりきりで水族館に行くの初めて」
聖夜の車の助手席に座りながら、まきなは少しうつむいて呟いた。
心臓が、鼓動と言うよりも弾けるように跳ねている。
普段なら気恥ずかしくて口にできないはずの言葉が、ポロリと唇からこぼれた。
聖夜は、驚くでもなく茶化すでもなく、穏やかに笑って「そうなんだ」と返してくれる。
その何気ない、相槌が、まきなには優しくて心地よかった。
「水族館に行く前に、洋服買いたいんだけど」
まきながそっと切り出すと、聖夜が首をかしげながらも楽しそうに返してきた。
「そうだね。俺、同じ服ばっかり着てるから、ちょっとはおしゃれしようかな」
まきなは小さく笑いながら、どこか嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、私が選んであげるね」
自分でもどうしてそんなことを言ったのか、分からなかった。
だけど、聖夜の新しい一面を見たいという思いと、ふたりで何かを選ぶというささやかな共同作業に、心が浮き立ったのだ。
「えっ」
自分の口から飛び出した声に、まきな自身が驚いた。
情けないほど間の抜けた声。
耳まで熱くなっているのが分かる。
恥ずかしさに目をそらしながらも、胸の奥にぽっと灯った光は消えそうになかった。
聖夜が連れて行ってくれた高級ブティック店「AIMEE BLEU 」の店内は静かで、どの服もハンガーから品の良さが伝わってくる。
上質な素材とエレガントで遊び心があるデザインが売りだ。
奥のラックから、店員がそっと聖夜の肩幅に合いそうなシャツとジャケットを提案してくる。
まきなは、迷わずうなずいた。
「これ、絶対似合う」
まきなが、ぽつりと言うと、聖夜は気恥ずかしそうに口元を緩めながら試着室へ向かっていった。
ほどなくして、着替えを終えた聖夜が現れる。
「どう?」
その姿に、まきなは一瞬言葉を失った。
シンプルながら計算されたシルエットの服が、聖夜の整った容姿と引き締まった体格を際立たせている。
「かっこよすぎて、声でなかった」
赤面しながらそうつぶやくと、聖夜の頬もほんのり朱に染まった。
「じゃあ、次はまきなの番だな」
聖夜がふと立ち止まって、ある一着を手に取る。
「これ、どう?」
それは、淡いラベンダーグレーのシフォン素材のワンピース。
裾はななめに流れるアシンメトリーカット。
肩はほんのり透け感のあるシフォンで、首元に細いリボンタイ。
ウエストは細めのベルトで軽く絞しぼられている。
華奢なラインが際立つデザインだ。
「ちょっと、大人っぽくなるけど…たまには、ね」
まきなは鏡の前でそっと当ててみる。
(こういう服、自分には似合わないと思ってた。でも…)
「すごく、かわいい」
「うん。俺が言いたかったのはそれ」
さらに、聖夜は小物もさりげなく選ぶ。
淡いブルーグレーのロングカーディガンに、シルバーのフラットパンプス。
杖を持っていても負担にならない、機能性も考慮されたセレクトだった。
聖夜がクレジットカードで支払いを行うためにレジへ向かう途中、店の入り口が開き端正な顔立ちの美人が高級ブランドを着こなしさっそうと入ってくる。
聖夜のお見合い相手だった氷室 桐華だ。
聖夜を見るなり、笑顔の裏に棘を隠した声を出す。
「あら、聖夜様。奇遇ね。……って、そちらは?」
まきなの杖に目をとめると桐華の目元がにやりと歪む。
「へぇ、おしゃれな障害者さんって、最近は増えてるのね。すごい。見せ物みたい。何着ても”普通”にはなれないのに、努力はしてるのね?」
その瞬間、聖夜の瞳が鋭く光。
聖夜は一歩前に出て、低い声で言った。
「もう二度と、まきなを侮辱するな」
「え?」
「”見せ物”?”普通じゃない”?君こそ自分の言葉の下品さに気づいた方がいい。君と俺の縁は、もう完全に切れたから」
桐華は唇を噛み、振り返らずに店を出た。
すぐに、スマホを手に取り、聖夜の母の海 冴絵へ連絡を入れる。
気まずい空気を変えるため、まきなと聖夜は新しい服に着替え水族館デートへ。
そこには、ゆっくりと泳ぐくらげの水槽。
まきなは、光の中で揺れるくらげを見ながら、心を落ち着かせる。
「ああいう人の言葉、まだちょっと怖い」
「わかってる。けど、俺が隣にいる。何があっても」
聖夜の手が、そっとまきなの手をつつむ。
(こんな手を握ってもらえるなんて…)
(怖さがゼロになるわけじゃない。でも、勇気の方がほんの少しだけ勝つ)
水族館のブルーの光の中、ふたりの影が静かに重なる。
まきなのマンションまで送る車の中で水族館デートの事で盛り上がるまきなと聖夜。
「中学生以来だよ。水族館なんて」
まきなは、助手席で声を弾ませた。
頬はほんのり桜色に染まり、心から楽しんだ様子がその笑顔に滲んでいる。
「くらげかわいかったね」
小さな手で空を泳ぐ真似をしながら、まきなはふふっと笑う。
そんな様子に、聖夜の胸がほのかに温かくなる。
マンションの前に車を止めた後も、まきなの笑顔が頭から離れなかった。
聖夜はふと、ハンドルに目を落としながら決意する。
逃げるのはもう辞める。
まきなとちゃんと未来を考えたい…。
まきなとデートの翌日、聖夜は自身の母の海 冴絵に面会する。
その態度は、冷静で、静かだが、内に強い怒りを孕んでいた。
「あなたたちが”選ぼう”とした相手が、どれだけ愚かか証明された。僕は、まきな以外の人間を妻にするつもりはない。今後、その意見を曲げることもない」
「聖夜、あなた、私たちはあなたの将来を…」
「僕の将来は、僕が選びます。もう、誰の支配も受けません」
その言葉に、冴絵が何かを言い返そうとしたとき、執事が割って入る。
「奥様、天野 鷹真様よりお電話が。かなりお怒りのご様子です」
天野 鷹真は財政界にも影響力がある財閥界の実力者で聖夜の亡き祖父とも懇意だった人物だ。
伝統的な老舗グループ「天野財団」の総帥。
物腰は穏やかでめったなことで怒ることはないが怒ると怖い人物である。
※総帥とは、組織全体のリーダー、特に大企業や財閥のトップを指す言葉です。最高指揮官や最高司令官といった意味合いもあります。
天野 鷹真からの電話に怯える聖夜の母・冴絵。
天野 鷹真は、偶然にもその日、孫娘への誕生日プレゼントを買いに同じブティックにいた。
氷室 桐華の暴言、聖夜の毅然とした態度をすべて目撃していた。
電話口で天野 鷹真は言う。
「海家の若者が実に立派だったよ。だが、氷室の令嬢、あれは恥だな。君たちは、まさかあんな品性のない者と縁を結ばせようとしたのか?」
「申し訳ございません。鷹真様」
「君たちの”見る目”と”品格”が、今すべて試されている。この件、私は”氷室 一誠”にも伝えた。さて、どう動くか見ものだな」
※氷室 一誠は氷室グループの代表取締役社長。氷室 桐華の父。娘には甘い。
財界で影響力のある天野 鷹真の言葉は、”絶対”に等しい。
氷室 一誠(氷室 桐華の父)は、すぐに天野 鷹真の屋敷に出向き、平身低頭で謝罪。
だが、天野 鷹真はただ一言。「”教育の結果”は、親の責任だよ」
それだけ言って、背を向ける。
その直後、週刊経済誌が”氷室グループのインサイダー疑惑”を報道。
また、過去の秘書へのパワハラ、企業買収の強引なやり口なども暴露される。
すべて、かねてから財界内で問題視されていた件だった。
天野 鷹真が「見てみぬふりを辞めた」瞬間に、氷室家の信用は崩れた。
その後、聖夜は母・冴絵に最終通告する。
「僕にとって大切な人を傷つける人間を、家族とは呼ばない。母さん、あなたも、”試された”のは、僕じゃなくて、そっちだったんだ」
冴絵は言葉を失い、初めて”自分が見下していた相手に負けた”ことを悟る。
初めての恋にまきなはとまどっていたのは事実だ。
女性ばかりの環境で育ち、難病が分かってからは”誰かを好きになる資格なんてない”と封じてきたまきな。
そんな中、まっすぐな気持ちをぶつけてくる聖夜に心が揺れる。
(恋が”障害”を消してくれるんじゃない。恋があるから、不安なままでも歩いていける)
(”守られる”だけじゃなくて、”想いを返す”自分でいたい)
(釣り合わないんじゃない。”今の自分”を愛してもらえるのかが怖い)
あの日、距離を置こうと決めたのは私だった。
「時間がほしい」と言ったとき。
聖夜の目が一瞬揺れたのを覚えている。
その目に、ほんの少し罪悪感を覚えた。
でも、それでも離れなくてはいけなかった。
(自分の身体と向き合うために)
指定難病。脊髄小脳変性症。
病名が正式についたあの日、帰り道で見た夕焼けが、やけに鮮やかだった。
(あぁ、これからの私は、”普通”のままではいられないんだな)
そう思った。
薬も治療も、根本的に治すものではなかった。
進行を遅らせるだけ。
転倒も、ふらつきも、記憶力の低下さえも、いつか日常になるかもしれない。
そんな身体で、聖夜の隣に立っていていいのか。
聖夜は、眩しいほどまっすぐな人だ。
ずっと家族や期待と闘って、ようやく自分を見つけようとしていた。
その聖夜の手を、今の私が握っていいのか?
(ダメだ。私は、自分の事だけで精一杯だった)
でも、ただの”逃げ”じゃないようにしたかった。
逃げるなら、前に進むために、せめて強くなるように。
私は、より高度なリハビリができる専門病院に通う決意をした。
歩けるようになりたい。
自分の足で、もうう一度聖夜の前に立ちたい。
(いつか、ちゃんと、自分の足で会いに行こう)
それが、私の目標になった。
職場の上司、二宮 美咲に相談すると、美咲は少し驚いた顔をした後、すぐに笑ってくれた。
「資格?いいじゃない。私も一緒に受けようかな。会社帰りに一緒に勉強しようよ」
その言葉が、どれだけ心強かったか分からない。
深夜までの勉強。
転倒しながらも通ったリハビリ。
はじめは数歩しか進めなかった。
でも、ある日、自分の足で数十メートル歩けたとき、涙があふれた。
「歩けた。私、自分で歩けたんだ」
その日から、杖は”保険”になった。
頼るものではなく、”自信”の代わりに持ち歩くような存在。
そして、資格も取れた。
心のどこかで聖夜に褒めてほしいと思った。
だから、偶然とはいえ、あの日コンビニで聖夜を見かけたとき、胸がギュッと痛んだ。
再会なんて、もっとドラマチックなものであって欲しかった。 部屋にひとり。
でも、あの夜の月明かりの下、聖夜の「会いたかった」の一言で、すべてが報われたような気がした。
(ちゃんと自分の足で、聖夜に会いに来られた)
今度こそ、自分の意思でもう一度”恋”を始めたいと思えた。
夜の部屋にひとり。
東京湾を望む高層階の窓から見える夜景は、煌びやかで整っているのに、どこか空虚だった。
聖夜は、自分の部屋にいながら、居場所のない感覚に苛まれていた。
ソファーの肘掛けに肘をつき、グラスを傾ける。
中身はもうぬるくなったウイスキーだった。
「なぁ、これが俺の人生なのかよ」
ため息のように呟いた声は、誰にも届かない。
華やかな家柄。
大手企業の役員席。
周囲からの称賛と期待。
だが、そのすべてが「他人が用意した人生」でしかないことに、ずっと気づいていた。
「お前は、”海 冴絵の息子”なんだから」
「”海財閥の後継ぎ”としてふさわしい振る舞いをしなさい」
幼い頃から、選ぶ前に道が用意されていた。
誤った選択技は与えられず、用意された正解だけをなぞる毎日。
でも、まきなと再会して気づいてしまった…
まきなは、自分の足で立とうとしていた。
病気という現実を抱えながらも、苦しんで、前に進もうとしていた。
「俺は、何をしてるんだ?」
それからの聖夜は早かった。
母・海 冴絵に「家を出る」と告げたとき、リビングは氷のように冷えた空気に包まれた。
「逃げるの?何も成し遂げないまま?」
「聖夜という名前に恥じない選択をしなさい」
もう、それには応えない。
「俺はもう、誰かの期待に応えるために生きないよ」
母の静かな怒りにも、父の落胆にも、かつてのように怯えなかった。
海グループの関連会社を辞め、地道でも”自分で選ぶ道”を始めることにした。
マンションも、自分で探した。
まきなの近く。
でも、両親にもまきなにも知らせるつもりはなかった。
「本当に、自立できたと胸を張れるようになってから、会いに行こう」
口に出さず、心の奥に置いたその想いが、彼を支えていた。
カーテン越しに漏れる街の灯りを眺めながら聖夜は静かに誓った。
(もう、誰の人生でもない。これは俺自身の人生だ)
(そしていつか、対等な立場で、まきなの手をもう一度取りたい)
それが彼の「自立」の原動力だった。
夜風が、春の匂いを運んでいた。
コンビニを出たあと、どちらからともなく歩きだし、気づけば聖夜の棲むマンションの前に立っていた。
「ちょっと、寄っていく?」
と聖夜が言ったとき、まきなはためらいもなく頷いていた。
新しく借りたというその部屋は、以前より少しだけ広くて、落ち着いた色のインテリアが並んでいた。
どこか静かな空気をまとう空間は、まるで今の聖夜を映しているようだった。
ソファーに並んで座ると、しばらく言葉もなく、ただ時の流れに身を任せていた。
時計の針が静かに進む音だけが、やけに耳に残る。
ふいに、聖夜がまきなの手をそっと取った。
温かくて、力強くて、あの頃と変わらない手だった。
「まきな」
まっすぐに、見つめられるその瞳に偽りはなかった。
「結婚を前提に、付き合ってほしい」
まきなの胸に、熱いものがこみ上げた。
この数ヶ月間、あの日離れてからこの不安も、葛藤も、今この瞬間にすべて溶けていくようだった。
まきなは、少しだけ潤んだ目で聖夜を見つめ返す。
「ハイ。たとえこの先、体が思うように動かなくなってもーーそれでも聖夜のそばにいたいって思った」
言葉を紡ぎながら、自然と笑みがこぼれた。
「好きって気持ちに、釣り合いとか立場とか、必要ないって。やっとそう思えた」
ふたりの間には、もう余計なものは必要なかった。
過去の傷も、不安も、病気の影も、それをすべて包み込むような”今”があった。
聖夜は、まきなの手を優しく握りしめたまま、一言だけ言った。
「ありがとう。まきな」
月明かりが、ふたりを優しく照らしていた。
そしてその夜から、まきなと聖夜の新しい時間が、本当の意味で始まったのだった。
いくつものすれ違いと、不安と、それでも繋がろうとする気持ちを乗り越えて。
まきなと聖夜は、結婚を前提に歩み始めることを選んだ。
初めてのデートの日。
春の柔らかな陽射しが街を包む午後、聖夜はまきなの隣を歩いていた。
人の波の中で、まきなの歩幅にそっと合わせながら、何度も信号のタイミングを気にしてくれるその仕草に、まきなは胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。
事前に調べていたおしゃれのカフェの前にたどり着いたとき、まきなの足がふと止まった。
店の入り口には、小さな段差と急な階段があった。
ほんの数段。
だけど、まきなにはそれが簡単じゃない。
「ごめん。ここ、ちょっと厳しいかも」
まきなが申し訳なさそうにつぶやくと、聖夜はまるで最初から想定したかのように、微笑みながら答えた。
「うん、分かってる。実はね、もう別の店を予約してあるんだ」
「え?」
「ここから歩いて五分。完全バリアフリーのレストラン。口コミで雰囲気も料理もいいって評判だったから、行ってみようよ」

その声には、優しさと自然さがあった。
”気を遣ってる”とか、”遠慮されてる”とか、そんな温度を一切感じさせない。
まるであたりまえのような口ぶりに、まきなは胸がギュッと締めつけられた。
「なんか、私のためにいろいろ調べさせちゃってごめんね。重いでしょ?」
思わず出た本音。
罪悪感が声を出した。
すると、聖夜は立ち止まり、まきなの正面に回って優しく目を見つめた。
「まきな、俺ね、”してあげてる”なんて、一度も思ったことないよ。好きな人と、一緒に楽しみたいだけ。段差があったら別の道探す。それだけだよ」
その言葉に、まきなの目の奥が熱くなった。
自分の歩幅に合わせてくれる人。
自分の”できない”に寄り添って、”できる方法”を一緒に探してくれる人。
それだけで、こんなにも救われるんだと、まきなは改めて思った。
「ありがとう。聖夜」
小さく呟く声は、春の風にそっと溶けていった。
そしてふたりは、穏やかな午後の光の中、並んで歩きだした。
その先には、優しさで包まれたレストランと、少しずつ深まっていくふたりの距離が待っていた。
予約してあった完全バリアフリーのレストランは、大きなガラス窓から光が差し込む静かな空間だった。
落ち着いた照明と、木のぬくもりを感じる内装。
テーブルの間隔も広く取られていて、車椅子でも気兼ねなく過ごせる設計だった。
案内された席に座ると、まきなは「ふうっ」と一息ついた。
「なんか、すごく落ち着くね、ここ」
「うん。静かで、空気も柔らかい感じがする」
聖夜は、メニューを手に取りながら、まきなの顔をちらりと見た。
「何食べたい?」
「ん~、お肉。でも魚もいいなぁ。でもさ、こうやってふたりで外食って、ほんと夢みたいだなって思ってたから、メニューなんて見てる余裕ないかも」
まきなが笑いながらそう言うと、聖夜もつられるように笑った。
「夢か。俺も、こうしてまきなと一緒にご飯食べられる日が来るなんて思ってなかった」
「え、そうなの?」
「うん、中学生の頃、保健室で渡したポケットティッシュ覚えてる?」
「もちろん。あれなかったら鼻血まみれだったよ」
ふたりはふっと笑いあう。
まきなの笑顔が自然とこぼれた。
そのとき、聖夜が少し真剣な表情になった。
「まきな。今日、バリアフリーのレストランにしたの、たしかに少しはまきなのためでもある。でも、それよりもまきなとちゃんと、ちゃんと向き合って、一緒に過ごしたいって思ったからなんだ」
その言葉に、まきなは視線を落とした。
「私ね、まだ”迷惑かけるかも”って思ってしまう瞬間がある。でも、それを受け止めてくれる人が隣にいるって、こんなにも安心できることなんだって、今日実感した」
「ありがとう。ほんとに」
言葉に詰まるまきなの手に、聖夜の手がそっと重ねられる。
「まきなは、ただそこにいるだけで、俺の力になるんだよ」
まきなはその手をぎゅっと握り返した。
心と心が、静かに寄り添うような瞬間。
レストランの窓の外では、夕陽が街を柔らかく染め始めていた。
とはいえまきなは初めての恋に戸惑っていた。
聖夜の優しさが、時に”憐れみに感じてしまう葛藤。
レストランでの食事を終え、席を立とうとしたまきなの手元に、淡い色のバッグが視界に入った。
「重たいなら、バッグ持つよ」
聖夜がそっと声をかける。
「自分で持てるから、大丈夫」
まきなは微笑みながらも、少しだけ視線を逸らした。
すると聖夜は何も言わず、店の前に車をまきなが乗りやすいように回してくれていた。
扉を開けると、まきなは深く息を吸って、静かに言った
「結婚のこと、まだ答えを出せなくてごめんね。怖いの。自分の事で足を引っ張るかもしれないから」
聖夜はハンドルの前で、ただ真っすぐまきなを見つめていた。
言葉はなくても、その沈黙がまきなには、温かくて優しかった。
車内に静かな夜の気配が満ちていた。
まきなの言葉を受け止めたまま、聖夜は少しだけ顔を伏せていたが、やがてゆっくりとまきなの方へ向き直った。
「まきな、もう一度ちゃんと言わせてほしい」
その声は低く、真剣で、揺るぎがなかった。
「僕はまきなと生きていきたい。どんな未来でも、一緒に向き合っていけるって信じてる。結婚を前提に、改めて付き合ってください」
まきなは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、小さくうなずいた。
涙でにじむ聖夜の笑顔が、夜の街灯に優しく照らされていた。
夜、まきなはひとりでベッドに座り、灯りを落とした部屋の中で、静かに目を閉じた。
手元の杖をぎゅっと握りしめる。
難病になってから、何かを「選ぶ」ことが怖くなった。
「誰かの荷物になるかも」と思えば、好意すら疑ってしまう。
(でも、聖夜は、一歩も引かなかった。私のことを、選び続けてくれた。なら私も、もう、逃げたくない)
聖夜は次の日、ブティックで選んだ質のいいスーツに身を包み、ジュエリー店にいた。
ジュエリー店の奥で、小さな箱を手に取る。
「まきなには、これがいい」
選んだのは、シンプルなプラチナに、青く澄んだサファイアが一粒あしらわれた綺麗な指輪。
意味は「誠実な愛」「困難を乗り越え、成功へと導いてくれる力」があるとされている。
聖夜は独立することにした。
海グループの御曹司でありながら、聖夜は一切の後ろ盾を断ち、自らの会社を立ち上げることが出来た。
会社名:「S.Able」
”Seiya+Able”
Able=できる
「共に生きるAble」とは、お互いの違いを認め合い、共に協力して生活していくという考え方です。障害者や高齢者、外国人など、様々な人々が、それぞれの個性と能力を尊重され、共に社会に参加し、活発に活動できる社会を指します。
できる・共に生きると言う意味を込めた福祉×広告ベンチャー。
「どんな立場にあっても、”選べる未来”を提供したい。だからこそ、まずは自分の足で立たなきゃ、意味がない」
聖夜は、まきなとの将来を見据えての決断だった。
まきなは静かに決断していた。
聖夜が新たに立ち上げた会社「S.Able」。
その名前には、聖夜の「出来ることを増やし、支え合える場所にしたい」という願いが込められていた。
「私も、あなたと一緒に進みたい」
ある日、まきなはそう口にした。
株式会社エルアークを退社し、聖夜の元で新しい一歩を踏み出す。
過去に縛られず、未来を共に築いていく。
その決断に迷いはなかった。
とはいうものの、まきなは、自分の中で揺れる想いを整理しきれずにいたのだ。
(エルアークを辞めるべきか?聖夜の新しい会社に行くべきか?)
その葛藤を打ち明けられたのは、会社の上司であり、誰よりも信頼できる存在・二宮 美咲だった。
「迷ってるなら、一歩踏み出してみたら?」
美咲の言葉は、押しつけがましくなく、けれど確かにまきなの背中をそっと押してくれた。
「私、行ってみます。聖夜のもとへ」
そう口にしたとき、まきなの心には風が吹き抜けたような、静かな覚悟が芽生えていた。
そしてまきなは、優しく笑う美咲に見送られ、新しい一歩を踏み出した。
季節の変わり目。
まきなは、体調が不安定になり、ある朝、マンションでふらついて転倒する。
病院に搬送される。
病室の窓から、夜の景色をぼんやりと見つめるまきな。
聖夜が静かにやってくる。
その姿を見て、まきなは涙を浮かべながら言う。
「怖いの。こうして、聖夜に来てもらえるのが嬉しいのに…”また倒れたらどうしよう”って、そればかり考えてる。
支えてもらうたびに、好きなのに自信がなくなるの…」
聖夜はまきなの手を握りしめ、穏やかに言う。
「じゃあ、俺が倒れたら、支えてくれる?」
「え?」
「そのとき、”俺は君の足手まといになる”って言われたら、悲しいだろ?同じだよ。支えるのは重荷じゃない。”君と一緒にいる”って、そういうことだろ?」
まきなは、こらえていた涙を一気にこぼす。
それは、悲しみではなくて、救われた安堵の涙。
「ありがとう。聖夜。私、ちゃんと、”一緒に生きていきたい”って思えた」
聖夜の手を握り返した瞬間、まきなは、「支えられる」ことを恐れるのではなく、「支え合う」ことの意味を知る。
まきなの退院の日。玄関まで迎えに来た聖夜に、まきなは”笑顔”を浮かべながら言う。
「あのね……。やっぱり私、あなたとちゃんと向き合いたい。前みたいに、”ありがとう”だけでごまかさない。聖夜がいてくれると、嬉しい。怖いけど、嬉しい。ずっと、そうだった」
聖夜は、ほほ笑み返す。
「ちゃんと伝えてくれて、ありがとう。俺も、隣にいるって決めたんだから」
まきなは、日中リハビリセンターに通いながら、午後からは在宅勤務として聖夜の会社「S.Able」のブランディング企画に参加する。
初めは、デザインや文章校正など広告代理店時代のスキルを活かしたサポート役。
だんだんと、障害者当事者としての目線を活かした企画案やプレゼンでも力を発揮し始める。
「”無理しなくていい”って言われるより、”必要とされたい”って思ってたんだと気づいた」
聖夜がまきなのマンションに荷物を運びこみ、同棲生活がスタート。
ソファーで並んでテレビを見たり、リモート会議の横でお互いの存在を感じたりしていた。
ある夜、食器を洗うまきなに聖夜がタオルを渡しながら言う。
「ここが、俺の帰る場所だなって、思う」
ベッドに並んで横になる夜。
静かに手を繋ぎながら、まきなが心の中でつぶやく。
(きっと、まだ不安もある。でも、今なら言える。”私、幸せになっていいんだ”って)
(この手を、これからも離さない。いつかちゃんと、隣に立てる私になるから)
その手のぬくもりが、未来を照らしていた。
