見出し画像

(ショートショート)ありがとう0円

 かつて某ファストフード店が掲げた「スマイル0円」という看板。

 それに対抗するように、あるコンビニチェーンは「ありがとう0円」というキャンペーンを打ち出した。

 「感謝は無料なのだから、どんどん言葉にしよう」

 というそのコンセプトは、皮肉にも言葉の価値を暴落させることになった。


 街には、空っぽの「ありがとう」を乱発する人々があふれかえった。

 何も買わずにレジで感謝だけを告げて去る者、あるいは「ありがとう」とだけ繰り返して受話器を置く迷惑電話。

 言葉にすることのハードルが下がりすぎたせいで、人々は沈黙の美徳を忘れ、言わなくてもいいことまで何でもかんでも言語化し、消費し始めた。

 「スマイル0円なんだから笑えよ」と、バカの一つ覚えのように要求する客も後を絶たない。

 本来、それは「いつでもお客様を笑顔でお迎えする」という店側の誇り、すなわちホスピタリティの姿勢を形にしたものだったはずだ。

 店員が笑顔を差し出し、客がそれに対して自然と感謝の念を抱く。

 そんな当たり前の心の通い合いは、いつしか「無料の商品」というドライな取引へと成り下がってしまったように感じる。

 僕は、今日もレジに向かう。

 精算を終え、商品を受け取る瞬間、店員の目を見て静かに告げる。

 「ありがとうございます」

 それは、キャンペーンに背中を押されたからではない。

 誰かに強制されるものでもない。

 言いたい人だけが、心の中に湧き上がった熱量をそのまま届ける。

 それこそが、本来の言葉の姿だと思うからだ。

 僕の小さな一言が、安っぽい無料の商品としてではなく、ひとつの「真心」として届くことを願いながら、僕は店を後にした。



Fin。


※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
「ありがとう0円」っていうキャンペーンはございません。


↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。