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(ショートショート)私、どろんします

 深夜まで働き詰めだった私の唯一の話し相手は、夜道で見守ってくれるお月様だけだった。

 けれどある夜、ついに糸が切れた。

 視界がぐらりと揺れ、冷たいアスファルトが顔に迫る。

 意識が途切れる直前、香水の香りと「ちょっと、大丈夫!?」という華やかな声が聞こえた。

 通りがかりのキャバ嬢のお姉さんが、倒れた私を見つけて救急車を呼んでくれたらしい。

 深い眠りの中で、私は銀色に輝くお月様の世界にいた。

 目の前には、透き通るような瞳をした月の王子が立っている。

 「こっちに来ないかい? 私はずっと、君がボロボロになるまで頑張る姿を見ていたよ。もう、十分だろう」

 王子の差し伸べた手は、甘い誘惑のように優しかった。

 けれど、この手を取れば、本当の意味で「あっち側」へ行ってしまう。

 そう直感した私は、力の限りに叫んでいた。

 「私、どろんします

 ハッと目を開けると、そこは病院のベッドの上だった。

「私、どろんしますっ」と叫びながら跳ね起きた私を、巡回中の看護師さんや隣の患者さんたちが、氷のように冷たい目で見つめている。

 「……あ」

 静まり返った病室に、時代錯誤な「どろん」という言葉の残響だけが虚しく響く。

 お月様の王子からのスカウトを蹴った代償は、あまりにも大きな羞恥心だった。

 私は顔を真っ赤にし、今度こそ本当の意味で布団の中に「どろん」と消えてしまいたいと思いながら、深く深く下を向いた。

 病院でのあの大騒動から数日。

 私は再び、パソコンの青白い光に照らされていた。

 デスクに積み上がった書類は、まるで「お月様の世界」への招待状のように私を誘惑してくる。

 (また、あの日みたいになったらどうしよう……)

 ふと窓の外を見ると、あの日と同じ満月が、ビルの隙間からこちらをじっと見つめていた。

 でも、不思議と怖くはない。

 今の私には、あの時の恥ずかしい、けれど必死だった「合言葉」がある。

 「よし、今日はここまで」

 私はキーボードを叩く手を止め、勢いよく立ち上がった。

 上司や同僚の視線が少しだけ刺さった気がしたけれど、あの病室での冷たい目線に比べれば、なんてことはない。

 オフィスを出て、夜の空気の中に踏み出す。

 見上げれば、お月様は銀色の光を優しく降らせていた。

 夢の中の王子様のような強引な誘いではなく、ただ静かに「よく頑張ったね、お疲れ様」と、穏やかに笑いかけてくれているような気がした。

 「もう無茶はしませんよ、お月様」

 私は誰にともなく小さく呟き、軽やかな足取りで駅へと向かう。

 角を曲がる瞬間、私は夜空に向かって、あの時よりもずっと晴れやかな気持ちで、心の中でこう告げた。

 「私、どろんします

 今度の「どろん」は、逃げ出すためじゃない。

 明日、また元気に笑うために、自分を大切にするための魔法の呪文だ。

 私は一度も振り返ることなく、温かな光の灯る家へと、颯爽と駆け抜けていった。


Fin。


※この小説はフィクションです。
登場人物は、存在しません。


↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。