(ショートショート)蛍の宇宙、スープの夜、虫よけの夏
フロントガラスの向こうに広がる、静かな夜の闇。
彼女を家まで送り届ける車内は、いつも通りの穏やかな時間が流れているはずだった。
「見て、光ってる」
助手席の彼女がいきなり声を上げた。
驚いて視線を泳がせると、暗い車内のダッシュボードのあたりで、小さな緑色の光がぽつりと灯っている。
いつの間にか窓の隙間から紛れ込んでいたのだろう、一匹の蛍が、思い出したように明滅を始めたのだ。
「なんか宇宙みたいね」
小さな光を見つめながら、彼女はうっとりとした表情で、少し突飛なことを口にする。
フロントガラスの黒と、そこに浮かぶ蛍の光が、彼女の目には無限の星空のように映ったのだろうか。
ロマンチックな余韻に浸る僕を置いて、彼女の思考はすぐに次の次元へとワープする。
「こんな日はスープでも飲みたいわ」
宇宙から、温かいスープへ。
彼女との会話は、いつも一苦労だ。
あっちへ飛び、こっちへ散らかる脈絡のない言葉たちを追いかけるだけで、僕の脳内はフル回転を余儀なくされる。
次から次へとテンポよく変わる話題のスピード感は、まるで弾かれるピンボールのようだ。
「あ、ねえ。虫よけ買うから、そこのドラッグストアに寄ってくれる?」
今度は一気に、現実的な日常へと引き戻された。
最近、めっきり気温が上がって虫が多くなってきたから困っているのだと、彼女は少し眉をひそめて続ける。
蛍の幻想的な光から、実用的な虫対策へ。
そのあまりのギャップに思わず苦笑いが漏れた。
「了解。ちょっと寄るね」
ハンドルを切り、ロードサイドの明るい看板を目指す。
車窓から入り込む夜風は、確かに数日前よりも生ぬるさを帯び始めていた。
目まぐるしく変わる彼女の言葉に振り回されながら、僕は心の中で思う。
今年もまた、あの容赦のない暑さと闘う季節が、すぐそこまでやってきているのだと。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
