(ショートショート)携帯電話を川に落としたよ
私の住む場所は、見渡す限りの緑しかない超田舎だ。
都会のような派手な娯楽もなければ、有名人に会えるチャンスもない。
「別に、そんなもの興味ないし」と心の中で強がってみるけれど、それはここではないどこかへ憧れる自分を隠すための、小さな嘘だった。
通学路の途中にある小さな川が、私の唯一の聖域だ。
学校でも家でも、誰かの顔色を窺って生活していると、時々息が詰まりそうになる。
そんな時、この川のせせらぎだけが私を「ただの私」に戻してくれた。
この場所があるだけで、田舎も悪くないと思える。
「ポトン」
静寂を破ったのは、あまりにも無機質な音だった。
「あ、携帯電話を川に落としたよ」
誰もいないのをいいことに、私は情けなくて笑いながら独り言を漏らした。
川は浅く、携帯は逃げることもなく底に沈んでいる。
すぐに拾い上げたけれど、防水機能もむなしく、画面は真っ暗なまま息を吹き返さない。
さっきまでのゆったりとした時間は、一瞬で重い後悔へと変わった。
唯一の都会への窓口でもあった液晶画面を失い、私は途方に暮れる。
「お母さんに、なんて説明しよう」
夕暮れが迫る帰路、私は言い訳を何度も飲み込みながら、いつになく重い足取りで家へと向かった。
スマホを失って二日目の朝。
ポケットの中にあるはずの重みが消え、私は何度も無意識に空のポケットを探っては、「あぁ、もうないんだ」と苦笑いした。
音楽も、通知もない通学路。
最初は耳が寂しくて、手持ち無沙汰で仕方がなかったけれど、顔を上げるとこれまで気づかなかった「音」が飛び込んできた。
風が杉林を揺らす「ザワザワ」という深い音。
畑の霜柱を誰かが踏む「サクッ」という心地よい響き。
そして、あの川のせせらぎが、思っていたよりずっと複雑で、音楽のように美しい旋律を奏でていることに気づいた。
「きれいだな」
ふと足を止めたのは、いつも素通りしていた古い石橋の上だった。
スマホの画面越しに見ていた「映える景色」とは違う、本物の光がそこにあった。
朝陽が川面に反射して、無数のダイヤモンドを散りばめたようにキラキラと揺れている。
これまでの私は、この景色を「何もない田舎の風景」として一括りにして、小さな液晶画面の中にある都会の輝きばかりを追いかけていた。
けれど、画面を消した瞬間に、世界はこんなにも鮮やかな色彩で溢れていたんだ。
「携帯電話を川に落としたよ」 あの時の独り言をもう一度呟いてみる。
今度は、後悔ではなく、少しだけの感謝を込めて。
学校までの道のり。
誰に気を使うでもなく、ただ移り変わる光の色や、鳥の羽ばたきを追いかける。
それは、不自由だけれど、これまでにないほど自由で贅沢な時間だった。
家に帰ったら、壊れた携帯の言い訳を考える前に、今日見つけた「川の宝石」の話を母にしてみよう。
画面の中には映らない、私だけの特別な景色がある。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場人物は、存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
