【短編小説】カトウの珈琲
うだるような暑さが続く8月。
お盆を過ぎたというのに、秋の気配はおろか、一向に気温が下がろうとしない灼熱の残暑が続いている。
「テツヤ、あのお店に入ろう」
「わかったー」
買い物帰りのヒロコと、息子のテツヤは自転車の速度を緩める。
喫茶店の前に自転車を停める。
自家焙煎珈琲というのぼりが立っている。
ヒロコがドアを開けると、カランという心地よいカウベルの音がした。
「いらっしゃいませ」
マスターが出迎えてくれる。
店内は薄暗く、エアコンがよく効いていて、外の世界とは遮断されたような涼しい空間だ。
ヒロコとテツヤはボックス席には座らずカウンターに腰をかける。
「えっ、こっちに座るの。あっちにテーブルあるじゃん」
「いいの、コーヒーを淹れるところを見たいの」
ヒロコはそう言いながらメニューを眺める。
テツヤも見よう見まねでメニューを見る。
マンデリン?
モカ・マタリ?
人の名前か、呪文のような単語が並んでいる。
他には社会の授業に出てきて知っている国があった。
ブラジルやコロンビア、エチオピアや、あまり聞いたことのないブルンジ、エルサルバドルという国も書いてあった。
そのあとに農園の名前が書いてあるけど、さっぱりわからない。
隣でヒロコが、
「わたしはエチオピアのTADE GGのナチュラルをホットで」
と言っている。
テツヤは本当に呪文のように感じていた。
「テツヤはどうする? 小学生にコーヒーはまだ早いと思うけど試してみる?」
ヒロコの少し挑戦的な言い方に少し腹が立った。
「おれもコーヒー飲むよ」
と言ったものの、何を選べばいいかさっぱりわからない。
ちらっとマスターを見ると少し目が合ったような気もしたが、一瞬のことだったのでよくわからなかった。
(ちぇっ、助けてくれてもいいのに)
仕方なく、もう一度メニューに目をやる。
アイスコーヒーの文字が見えた。
買い物中はヒロコに荷物を持たされて疲れていたし、暑くて喉が渇いていたことを思い出した。
座った時に出された水は一気に飲み干し、すでに2杯目が注がれているが、飲むのが少し恥ずかしかったので我慢して飲まずに置いていた。
「おれはアイスコーヒーにする」
「じゃあ決まりね」
ヒロコがアイスコーヒーを伝え、【アイスコーヒーはカトウでお願いします】と言っていた。
アイスコーヒーが加藤? 加藤さんが作ってくれるのか。
じゃあ目の前にいる人は加藤さんじゃないのか。
よくわからない。
テツヤは頭の中にはてなマークをたくさん浮かべていた。
マスターは手際よくホットコーヒーとアイスコーヒーの準備をしている。
大きな機械に豆を入れ、スイッチを入れる。
その機械は掃除機のような大きな音と、さらにガリガリとコーヒー豆を砕いているような音を立てていた。
その瞬間にふわりと甘くて、どこか花を思わせるような香りがした。
マスターはすぐに同じ要領で豆を機械の中に入れた。
今度は香ばしくて、すぐにコーヒーとわかる香りだった。
マスターは挽いた豆が入ったシルバーのカップを、ヒロコの顔に近づけた。
「すごくいい香り。おいしそう」
と言っている。
「テツヤも試してみなよ」
テツヤも顔を近づける。
一気に空気を吸い込んだせいか濃厚かつ華やかな香りがテツヤの鼻の奥に突き抜ける。
「ぶほっ!」
派手にむせてしまった。
ヒロコはおかしそうに笑う。
マスターが、「こっちは君のだよ、ゆっくり嗅いでごらん」
恐る恐る顔を近づける。
土っぽい香ばしさとバターのような香りがした。
テツヤはなにも言えずにいると、マスターはかすかにほほえんだ。
挽いた粉を、紙を敷いたカップのようなところに入れていく。
それを少しゆすって粉を平らにしてお湯を注いでいく。
すると、粉が膨らんでハンバーグのような形になってきた。
下のサーバーという、ビーカーのような容器に黒い雫がぽたぽたと落ちる。
底から壁にコーヒーが流れていく。
底を伝うコーヒーはすこしとろりとしていた。
テツヤは見惚れていた。
ヒロコはそれを見て、
「ね、カウンターにしてよかったでしょ」
と得意げだ。
テツヤはうなずいただけで、ドリッパーとサーバーから目を離さない。
テツヤが飲むであろうコーヒーのサーバーには氷がたくさん入っていた。
ドリッパーから最初の一滴が氷を伝う。
熱い液体が氷を伝い、急冷されていく。
数滴落ちたとき、溶けだした氷がガシャガシャと音を立てて崩れていく。
マスターがお湯を注ぐと、黒くて細い糸が氷に当たる。
すぐにサーバーは曇ってしまい、中が見えなくなってしまった。
ヒロコのサーバーには抽出されたコーヒーが少しずつ溜まっていた。
最初は黒い液体がサーバーに落ちていると思っていたが、テツヤのコーヒーより色が薄く、茶色いように見えた。
氷を入れたほうが薄くなるはずなのになんでだろうと思っていると、
「お母さんのコーヒーは色が薄いのがわかるかい?」
マスターが声をかけてきた。
テツヤはうなずく。
「コーヒー豆は焙煎と言って、焼く作業が必要なんだ。肉の焼き加減でレアやミディアムって聞いたことあるかい?」
テツヤは首を縦に振る。
「それと同じで、コーヒーにも焼き加減あるんだ。この豆は焼く時間を短めにしたほうが香りがいいとか、こっちの豆はしっかり焼いたほうが甘みを感じておいしいとか、そういうのがたくさんあるんだよ」
テツヤはわかったようなわからないような表所でうなずく。
「あとでお母さんのコーヒーも味見して確かめてみるといいよ」
そうしている間にお湯を注ぎ終わったようで、マスターは上のカップのようなものを流しに置いた。
テツヤのアイスコーヒーはサーバー内で混ぜて冷やされ、冷凍庫から出してきたグラスに氷を入れ、サーバーからグラスに注ぐ。
そのあとに透明でとろみのある液体を入れ、ゆっくりと混ぜる。
サーバーには少しコーヒーが残っていたけど、氷の入った別の小さいグラスに注がれた。
マスターがあとで飲むのだろうか。
「お待たせしました」
テツヤの前にアイスコーヒーが置かれる。
飲みあぐねていると、ヒロコが目で合図する。
恐るおそる口をつける。
ひと口含む。
冷たくて少しとろりとしていた。
思ったより苦くなく、そして甘い。
テツヤが想像していたコーヒーと全然違っていた。
もっと苦いだけの飲み物だと思っていた。
衝撃的だった。
「おいしいでしょ」
ヒロコは嬉しそうな表情だ。
テツヤは喉が渇いていたからこの冷たい液体を一気に飲んでしまいたかった。
でも甘くて香ばしい味を、一気に喉の奥に流し込むのはもったいないと思い、少しずつ飲むことにした。
そうしている間にヒロコにもコーヒーがサーヴされていた。
「わあ、いい香り」
ひと口すする。
「うん、おいしい」
数分経ったところで、テツヤはアイスコーヒーをほとんど飲み干していた。
それを見たマスターが、さっき余っていたアイスコーヒーをそっとテツヤの前に置く。
量にすると3口分ぐらいしかなかったが、テツヤはおかわりがあることが嬉しかった。
そしてひと口。
「うわ! 苦い!」
マスターもヒロコも笑っていた。
「同じアイスコーヒーなのになんでこっちはこんなに苦いの」
ヒロコに聞くでもなく、マスターに聞くでもなく独り言のように呟いていた。
「君が最初に飲んだアイスコーヒーはカトウなんだ。今飲んでいるのがムトウなんだよ」
「カトウ? ムトウ? コーヒーを作ったのはおじさんじゃないんですか」
マスターとヒロコは顔を見合わせ、一瞬の間が空いて同時に笑いだした。
テツヤは訳が分からず、でも自分が笑われていることに少し腹を立てていた。
「なんだよ、なにがおかしいんだよ」
ひとしきり笑ったあとにヒロコが、
「ごめんごめん、カトウは砂糖が入っているという意味の加糖で、無糖は砂糖が入っていない意味ね」
テツヤの顔が真っ赤になる。
光サイフォンに照らされたような赤さだった。
「加糖と無糖の発音が変だったでしょ」
確かに言われてみればそうだ。
「あんたが無糖だと飲めないと思ったからマスターに加糖って伝えたの」
「最初、おじさんがコーヒーをつくるんじゃなくて、加藤さんがおれのコーヒーを作るんだと思った。でも結局おじさんがコーヒーをつくっていたからおかしいと思っていたんだ。でもムトウって名前も出てきたから訳が分からなくなった」
またヒロコは笑い出した。
「そんなに笑わなくていいだろ」
「ごめんごめん」
言いながらもヒロコは目じりを手で拭っていた。
「ちなみにぼくはおじさんじゃなくてマスターって呼んでくれていいよ。ぼくは加藤でも武藤でもないから」
テツヤは他に客がいないことを本当に助かったと思っていた。
「テツヤくんでいいかな? テツヤくんは無糖のコーヒー、飲めそうだったかな?」
「ちょっと苦すぎて。我慢したら飲めるかも」
「無理はしなくていいよ。加糖はおいしく飲めたんだ」
「でも」
「テツヤ君は今何年生かな」
「今5年生です」
「じゃあまだ無理に飲まなくても大丈夫。いずれ飲めるようになるよ」
「テツヤ、私のコーヒーもちょっと味見してみなよ。これはムトウさんだよ」
「ばかにするな!」
と言いながらもひと口すする。
苦くない。
少し甘くて、でもうめぼしみたいだ。
「甘いような気がするけど、なんかすっぱい感じもする」
「テツヤ! 失礼だよ!」
今度はヒロコの声が大きくなる。
「お母さん、大丈夫ですよ。テツヤ君、このすっぱい感じは酸味といって、コーヒー豆はもともとさくらんぼみたいな赤い実がついた果実の種なんだ。今テツヤ君が飲んだコーヒーは赤い実がついたまま乾燥するまで干していて、簡単に言うとその果実の味がコーヒー豆に染みこんでいるんだよ。ここまではわかるかい?」
「なんとなく」
「そのコーヒー豆をさっきも言ったけど、焼く時間を短くするんだ。そうすると甘さと酸味が特徴のコーヒーが出来上がるんだよ。ちなみにこの酸味は木苺やラズベリーみたいだと言われているんだ」
テツヤは遠足で山道を歩いていた時に、友達と木苺を取って食べたのを思い出した。
確かにこの甘酸っぱい感じが、この木苺に似ているかもしれない。
でも最初にうめぼしと思ったことと、今さら木苺に似ていると言うと、知ったようなことを言っていると母親に笑われそうなので言うのをやめた。
「コーヒーといっても色々な国や農園で味が違うから奥が深いんだよ」
テツヤはとりあえず頷くことにした。
知らない情報が多すぎて頭の中が整理できない。
そのあとテツヤは、マスターとヒロコが話をしているのをぼーっと聞いてい
た。
時計を見ると店に入って1時間近く経っていた。
「そろそろ帰ろうか」
ヒロコが会計をする。
「すごくおいしかったです。また寄せてもらいますね」
「ありがとうございます。テツヤ君はどうだった?」
「おいしかったです。でも頭がパンクしそう」
テツヤは頭をかきむしる仕草をしてみた。
マスターは微笑み、
「また来てくれると嬉しいな。外はまだ暑いから気を付けてね。」
ドアを開けると、強烈な西日が射していた。
ぎらぎらとした太陽に目がチカチカする。
自転車を漕ぎ出す。
ヒロコは電動自転車なのですいすい加速していく。
ヒロコの自転車に追いつくためペダルを強く踏みこむ。
すぐに汗が噴き出してきた。
家まではまだ15分ぐらいかかる。
帰ったらさっきスーパーで買ったコーラに、氷をたくさん入れて飲もう。
ソファに横になり、ゲームをしながらのコーラは格別だ。
テツヤはもう、コーヒーのことなど微塵も考えていなかった。
