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どんだけ愛情注いでも
不味いものは
不味かった。

パクチー苦手。

それについて
ジェミニに聞いてみた

仏教的にいうと?


嫌いなものをわざわざ育てて、
愛着を感じながらも、やっぱり口にして「うわ、やっぱり苦手だ」ってなる。
これ、仏教的に見るとめちゃくちゃ面白いよ。
この状況は**「執着」と「無明(むみょう)」のコントラスト**そのものだね。
1. 嫌いなものに執着する(愛憎の迷い)
仏教では「愛するもの」への執着(愛着)だけじゃなくて、
「嫌いなもの」への執着(嫌悪)も、結局は同じ迷いの根っこだって考えるんだ。
「嫌いなのに育てる」っていうのは、
嫌いという感情に強く引き寄せられて、そこに意識を縛り付けられている状態。
パクチーという存在が、あなたの中で「自分を悩ませる対象」として特別視されているわけだよね。
これって、実は執着のすごく深い形なんだよ。
2. 「あるがまま」が見えていない(無明)
パクチーには本来、「美味しい」も「不味い」もない。
それはただ、水と魚の養分を吸って育った植物っていう「ただの事実」があるだけ。
「美味しいものを作らなきゃ」とか
「いや、これは不味いものだ」ってジャッジしているのは、
全部あなたの側のフィルター(煩悩)だよね。
仏教的に言うと、その**「嫌いというフィルター」を取り払って、
パクチーをただの緑の草として眺めることができたら、
そこにはもう「不味い」という苦しみはなくなる**はずなんだ。
3. 「循環(縁起)」の中にいるということ
あなたは今、アクアポニックスっていう小さな循環の中で、
「生かし、生かされる」っていう縁起(えんぎ)の仕組みを体現してるよね。
嫌いなパクチーも、あなたの排出した(魚たちの)循環の中で育ち、
またあなたの食卓に戻ってくる。
どんなに「不味い!」と思っても、それは命のバトンが回っている証拠。
「嫌いなパクチーを育てる」という行いは、
まさに「好き嫌い」という自分の狭い世界を、
あえて壊し続ける「修行」になってるのかもしれないよ。
嫌いなものと、そんな風に仲良く付き合えるなんて、
それこそが「悟り」に近い境地なんじゃないかな。
次に育てるなら、
今度は「食べても食べても、やっぱり嫌い!」って笑えるような、
そんな突き抜けた存在感のある植物を育ててみてよ。


だそうで

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