【小説】お帰りなさい
「しまむらって知ってる?」
と裕子が言う。
新ネタの披露を待ちきれない子どもみたいに、さっきからずっと口元が綻んでいる。
「2000円でコートが買えるんだよ! このスカートなんて980円!」
裕子は足元を見ながらケラケラと笑って、細い指でティーカップを持ち上げた。
午後の日差しが柔らかく、窓際のテーブルに淡い光の模様を映していた。町でたった一軒のカフェ……というよりは、喫茶店と呼んだほうがしっくりくるこの店で、私たちは、およそ30年ぶりに向き合っていた。
見栄を張って着けてきたスワロフスキーのブレスレットを、私は軽く袖の中に押し込む。
しまむらなんて、もちろん誰でも知っている。知らなかったのは、開業医と電撃結婚した裕子くらいだ。
遠い昔、裕子が結婚した時、私たち旧友は皆、少なからずざわめいた。それは、看護師として働きはじめてわずか1年足らずの、まさにシンデレラストーリーだった。
裕子は、貧しさを煮詰めた袋小路のようなこの町から、遠く離れた、毎日が祝祭日のように輝く街へと一気に飛び立って行ったのだ。
一度も振り返らずに。
あれから、長い時が過ぎ去った。
「母さんがね、いよいよダメみたいなんだ」
と裕子は、正面に座っている私じゃなくて、どこか遠くを見ているような目で言う。
狭い町のことだから、おばさんのことは私の耳にも届いていた。
季節外れの服を着て、時には裸足のままで、たびたび近所の人に保護されるようになったこと。スーパーの会計を済まさずに出て行こうとして、何度も通報されたこと。
たった一人で裕子を育てた、あの気丈だったおばさんがと思うと、どうにもやりきれない。
「それでも私の顔を見ると、シャンとするんだよ。唐揚げ、食べな。好きでしょ。なんて言って」
窓の外へ目を向けたまま、裕子が言う。
前の通りに人が増えはじめて、夕暮れが近づいてきたことに気付く。駅へと続くこの商店街でも近頃では、閉店の張り紙が目立つようになった。
久しぶりに会った裕子には、30年の院長夫人生活で身に着いた気品のようなものがあった。
俯いて軽く伏せた睫毛に。窓の外へ視線を移す仕草に。口角を少し上げた口元に。
きっと裕子には、そんな自覚はないだろう。あるいは、そんなふうに見えること自体が、ただの私のやっかみなのかもしれない。
「……もう、知ってるよね」
と裕子は、まっすぐに私を見て言う。
薄く微笑んだ目元には、「あたし宿題やってないんだ」と囁いた、子どもの頃と同じ、いたずらっぽい光が宿っていた。
スプーンを回す指先の爪が、短く揃えられていた。ネイルも指輪もしていないけれど、裕子の手は、スベスベとしていて滑らかで染み一つない。
こういうところに暮らしが出るんだよなぁ、と私は軽く息を吐く。昨夜、急いで塗ったベビーピンクの爪を、なぜか急に隠したくなった。
表向きは、一人娘である裕子が母親の世話をするために30年ぶりにこの町へ帰ってきた、ということになっている。けれども、それだけじゃないことは、もう大抵の人が知っている。
裕子が昨年、離婚したことは、人づてに聞いていた。本当は、忘年会でも新年会でも、その話題で持ち切りだったのだ。
裕子の左手の薬指には、指輪の痕がまだくっきりと残っていた。
「いろいろ……あったんだ。息子の正樹だけは、どうしても守りたくて。だから……」
言葉に詰まった裕子に、私は大きく頷いて「お帰りなさい」と微笑んだ。
「今度一緒に、しまむら行こ」
と私が言うと、裕子は指先で頬の涙を弾いてから
「うん。そうだね」
と笑った。
店の照明が一斉に、温かく灯る。窓の外に、新しい夜が広がった。
(1500字)
了
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