noteは街ってよく聞くけれど、私にとっては列車かもしれない
やあ、こんにちは。「noteは街」っていう言葉を聞いたことがあるかい?note株式会社のCEO加藤さんが、インターネット上のプラットフォームが街のようだと感じたことから生まれたキャッチフレーズらしい。
人がたくさん集まって何かを表現するだけじゃなくて、記事を売ったり買ったりできる交易活動も含めて、そんな風に呼び始めたのかもしれない。商業主義を否定した、はてなブログという村との差別化もあったのかもね。
でも、私は街っていう表現にちょっと違和感を感じてるんだ。確かにnoteには何年も毎日コツコツと文章を書いてる人たちが存在している。でも、そんな風に根をおろして、ずっと定住できる人はほんの僅かだ。
ほとんどの人は旅人で、ある日ふといなくなってしまう。たいていの方は3ヶ月から半年を過ぎたあたりから姿を見なくなる。noteを始めて1年は人がやって来ていなくなる、その繰り返しを眺めては呆然としていた。これはちょっとスパンが早過ぎる。
私はかなり昔からインターネットに作品を貼っては感想をいただいたり、感想を書き込んだりしながら暮らしてきた。まだインターネットで掲示板とかがメインだった時代からだ。だいたい皆1年以上まったりといたし、ジャンルをうつる時は挨拶などした。私の観測範囲では人々は2、3年くらいの間、同じコミュニティで活動していた。
そんなのどかな感覚で幾つかの場所を住み歩いてnoteにやって来たから、このスピード感に全然ついていけなかった。街ってもしかして住む場所じゃないのかい。やって来ては去っていく人を寂しく見送りながら、ある程度割り切ることを覚えた。
だから、今はnoteにいる人たちを同じ列車に偶然、乗り合わせた人たちのようにとらえている。タイミングが合えば一緒に乗り合わせ、顔見知りになってコメントでたまに言葉を交わしたりもする。それでも、目的地はそれぞれ違う。
少し心を交わしても、各々のタイミングでnote列車を降りて去っていく。皆、様々な事情があって、ちがう場所へと旅立っていくのだ。いなくなってしまったとしても、その温かな交流は心に残り、書き続ける原動力の欠片になる。
遥か彼方でその星が消えてしまっても、その光は記事という形で時を越えて届く。それくらい諸行無常の気持ちでいかないと「どうせ皆どっかに行っちゃうんだ」と床に体操座りしてウジウジすることになる。
出会えた偶然に感謝しながら、皆の旅の無事を願う。そして、今も書いている人を探しに行こう。そうやって出会いと別れを繰り返しながらnoteで文章を書き残していく。いつか誰かに届きますように。それじゃあ、そろそろ失礼するよ。
