海沿いを歩いた三日間で気づいた、もうひとつの時間
ゴールデンウィークに知らない街を歩いた記事を書きました。
五万歩。足にまめを作りながら歩き回って、「共感への渇き」に気づいた旅。あれから二ヶ月が経ちました。
今度は、海です。
行き先は湘南。海の日の連休を使って、海辺の時間を過ごしてみたかった。
前回は「知らない街を歩く」旅でした。今回は少し違います。
知らない街ではなく、知らない時間を過ごしてみたかったのです。
正直に言うと、会社員の生活に疲れていました。
自宅と職場の往復で過ぎていく日々。年齢とストレスだけが増していく日常。漠然と過ぎていく日々に「これでいいのだろうか」という疑問がなかなか頭から離れないのです。そして、いつか区切りをつけたいと思っていました。
いつからか、海辺の暮らしに惹かれるようになっていました。
きっかけは覚えていません。たぶん疲れた身体が大自然を求めていたからだと思います。毎日海沿いを歩く日々。今の日常では考えられない日々。そんな毎日を過ごせたら人生はどう変わるのだろうかという期待がどこかに潜んでいました。
海の日の連休。数日間、海辺で過ごしてみよう。
そう思って、ホテルを予約し、新幹線の切符を買いました。
人の声が消えて、波の音が残った
海の日の二日前、夜に湘南に着きました。
ビジネスホテルに荷物を置いて、湘南海岸公園周辺を歩きました。夜の海辺です。暗くて何も見えない。でも波の音だけがずっと聞こえていました。
都会の夜は、いろんな音が混ざってひとつの「騒音」になっています。ここでは波の音だけが、繰り返し繰り返し聞こえている。同じリズムのようで、少しずつずれている。
それを聞いているだけで、肩の力が少し抜けた気がしました。
到着した夜にはもう、ここの空気が都会とは違うことがわかりました。少しだけ湿っていて、かすかに潮の匂いがする。この匂いは、エアコンの効いたオフィスのどこにもなかったものです。
翌朝、歩き始めました。
前回の旅は知らない街の路地を歩く旅でした。今回は海沿いをひたすら歩く旅です。
湘南海岸公園から西へ、辻堂海岸のあたりを目指して歩き始めました。朝とはいえ、すでに暑い。七月の太陽は容赦がありません。アスファルトの上で、ミミズが干からびていました。影を探しても、影のほうが縮んで逃げていく。この暑さの中を歩くのかと、少しだけ後悔しました。
湘南海岸公園のあたりは、早朝だったためか人はまばらでした。何より新鮮だったのはサーファーが海で横一列に波を待っている光景。都会では絶対に見れない、湘南らしい一面。
時間が経つにつれ、人が増えてきます。海が近いのに、人の声のほうがずっと大きくて、波の音がかき消されています。昨夜あんなにはっきり聞こえた波が、今は人の声の下に埋もれている。
西へ歩き続けました。
二十分ほど歩いたあたりで、あることに気づきました。
人の声が、小さくなっている。
最初は気のせいかと思いました。でも確かに、声が引いていく。辻堂海岸のほうへ向かうにつれて、家族連れの歓声が遠ざかり、カップルの笑い声がまばらになり、気づけば聞こえてくるのは自分の足音と波の音だけになっていました。
波の音って、こんなに大きかったんだ。
ずっと鳴っていたはずです。湘南海岸公園でも鳴っていたはずです。人の声にかき消されて聞こえなかっただけで、波はずっとそこにあった。人の声という蓋が取れて、初めて耳に届いた音。
前回の旅では、知らない街を歩くと頭の中に「地図」が創られていく感覚がありました。あの角を曲がれば商店街に出る、この坂を上れば大通りに戻れる。歩くことで街が身体に刻まれていく面白さ。
海沿いを歩くのは、それとは根本的に違いました。
左に海、右に道。それだけです。地図を創る必要がない。方角を選ぶ必要がない。ただ、海沿いを歩く。その分、頭の中が静かでした。
街歩きでは思考が自由になった。海沿い歩きでは思考が静かになる。
同じ「歩く」なのに、見える景色も、頭の中身も、こんなに違う。
暑かった。ミミズが干からびるくらい暑かった。
でも不思議と、足は止まりませんでした。
同じ場所に何度も戻る旅
午後はホテルに戻りひと休憩。身体が休息を求めていました。
そして夕方、湘南海岸公園に再び足を延ばしました。
前回の旅は「どんどん知らない場所へ進んでいく旅」でした。今回は違います。同じ場所に何度も戻ります。この数日間で湘南海岸公園には五回通うことになるのですが、そのときはまだ知りませんでした。
日が傾くと、空気が変わります。あの容赦ない日差しが柔らかくなって、風の温度が一段下がる。首筋の汗が乾いていく。
防波堤に座って、海を見ていました。
夕焼けが始まりました。空の色がゆっくり変わっていく。オレンジから紫へ、紫から深い藍色へ。海面にその色が映って、波が動くたびに光が散る。
きれいでした。言葉にならないくらい。
前回の旅では、街の風景の美しさに「これを誰かと共有したい」と思いました。共感への渇き。でも今回は少し違いました。この夕焼けを見ながら、「共有したい」より先に、「ただ見ていたい」という気持ちが来たのです。
何もしたくない。何も考えたくない。ただ、空の色が変わっていくのを見ていたい。
こういう時間が、自分には足りなかったんだと思いました。
都会にも美しいものはあります。磨かれたガラスのビルに反射する夕日。計算された間隔で並ぶ街路樹。それは洗練された美しさです。
海辺の美しさは、それとはまるで違いました。誰がデザインしたわけでもない。ただ太陽が沈んでいるだけで、空がこんな色になる。自然体の美しさ。その前にいると、こちらも力が抜けていく。
日が完全に沈むまで、そこを動きませんでした。
ただ、やはり観光地のためか、人が続々と増えてきました。自然の美しさとは裏腹に私の心はざわつき始めました。静けさが徐々に失われていく中で私はホテルに戻りました。
海の日。朝五時に目が覚めました。
目覚ましはかけていません。前日にリラックスできたためか、窓から差し込む朝日に、体が自然と起きました。「起きなきゃ」じゃなくて「起きよう」でした。この違いは小さいようで、実は大きい。平日の朝は「起きなきゃ」でしか始まらない。ここでは「起きよう」が自然に来る。
朝の湘南海岸公園は別の場所でした。人がほとんどいない。空気がまだひんやりとしていて、昨日ミミズが干からびていたアスファルトも、まだそこまで熱くない。同じ場所なのに、時間が変わるだけでこんなに違う。
朝焼けを見ました。
昨日の夕焼けとは、ぜんぶ違う色でした。夕焼けは終わっていく色。朝焼けは始まっていく色。水平線のあたりから薄い光が広がって、空が少しずつ明るくなっていく。世界がゆっくり目を覚ましていく、その時間に立ち会っている感覚。
夕焼けにも、朝焼けにも、台本がありません。毎日違う色で、毎日違う形で、誰に見せるためでもなく、ただそこにある。この「ただある」ということの豊かさを、私は都会でずっと忘れていた気がします。
昼前にサザンビーチちがさきまで足を延ばしました。
湘南海岸公園よりは少し静かで、もっと地元の空気が漂っている場所でした。サーファーが何人も海に入っていて、波を待っている姿をビーチから眺めていました。
波を待つ。来たら乗る。落ちたらまた待つ。
その繰り返しを、文庫本を膝に載せたまま、ずっと見ていました。読書はあまり進みませんでした。本より海のほうが面白かった。
ここにいる時間には台本がないんです。次に何をすべきか誰も決めていない。波がいつ来るかもわからない。わからないまま待っている。そのことが、不安ではなく心地よい。
会社にいると、五分後の予定まで決まっています。会議の時間、提出の期限、昼休みの長さ。時間は常に誰かに管理されていて、自分のものではない。
ここでは、時間が自分に返ってきている気がしました。使っても使わなくてもいい時間。何に使うかを自分で決められる時間。
余白、という言葉が浮かびました。
その夜、再びサザンビーチを訪れました。
夜のビーチは、初日に湘南海岸公園で聴いた波の音とは少し違いました。同じ海のはずなのに、場所が変わると波の声が変わる。ここの波はもう少し穏やかで、砂浜に染み込むように寄せては返していました。
昼間サーファーで賑わっていた海が、夜にはこんなに静かになる。人がいなくなった砂浜に座って、暗い海をぼんやり眺めていました。何も見えないのに、ずっと見ていられる。見ているのは海ではなく、時間そのものだったのかもしれません。
訪れる場所、という発見
数日間、湘南で過ごしてみて、ひとつわかったことがあります。
ここは、私にとって「住む場所」ではなく「訪れる場所」でした。
期待していた海辺での生活。ああいう暮らしに自分も溶け込めると思っていました。でも実際に過ごしてみると、少し違った。海は美しかった。夕焼けも朝焼けも間違いなく美しかった。でも、夕焼けに見入っていたら観光客が増えてざわつき始めたように、ここには「賑やかさ」もセットでついてくる。私が求めていた静けさは、ここにもあったけれど、ずっとあるわけではなかった。
期待外れかというと、そうではありません。
「ここに住みたい」という漠然とした憧れが、「ここに会いに来たい」に変わった。それは居場所をひとつ見つけたのと同じことだと思います。訪れる場所として湘南を知れたこと。それだけで、来た意味がありました。
そしてもうひとつ、海の日の夜にホテルまで歩いていた時に気づいたことがあります。
自分が本当に探しているのは、もう少し静かな場所なのかもしれない。
海の静けさは、大きな静けさでした。波の音は穏やかだけど力強い。水平線はどこまでも広くて、開放的で、でも少しだけ落ち着かない。もしかしたら湖のそばとか、緑の深い場所とか、もっと小さくて深い静けさのほうが、今の自分には合うのかもしれない。
静けさにも、種類がある。
前回の旅では「共感への渇き」に気づきました。今回は「余白」を知り、そして「静けさの種類」に気づきました。
次はどんな場所を歩いて、どんな静けさに出会うのだろう。
そして明日、帰る前に湘南海岸公園を訪れます。この休み最後の海辺。どこかで都会を求めている自分もいます。戻ったら戻ったで、いつもの街の空気にほっとするんだと思います。
でも、身体のどこかにはきっと、波の音が残っている。
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