記憶の海①須磨海岸で凪いだ時をたゆたえば
遠浅の海から波は砂浜を撫でるように寄せ、忍ぶように戻る。
初夏を思わせるある日の午後遅く、神戸の須磨海岸にいた。
半世紀ぶりだと気がついた。
小学4年生だった。
夏休みの自由課題として、私は須磨で民話の聞き書きをしていた。写真も撮って、本に綴じる。記者とかジャーナリストとかに憧れていた。
神戸の中でもなぜ須磨を選んだのかは、よく覚えていない。源氏物語や平家物語にも出てくるのだから、何かあると思ったのだろうか。
どちらにしてもやや背伸びした小学生は、できるだけ時代がかっていそうな家のベルを鳴らして、計画を説明し、話を聞いた。
1軒目ですでに親切にしてもらえて、「郷土史」みたいな本を出してきてくれた。コップに水滴がついた麦茶も一緒に。
イメージしていたような訥々とした語りとは違ったが、一生懸命メモをとった。
結局、2軒目、3軒目は空振りに終わり、1軒目で十分に話が聞けたことに感謝しつつ、そこで「行ってみるといいよ」と言われていた須磨海岸まで足を伸ばした。
須磨海岸は阪神間で唯一の海水浴場である。でも、記憶にある須磨海岸は、今よりもっと狭くて、砂は荒く固く不揃いで、浜もでこぼこしている。
小屋のような海の家が、海により近い位置を競うように張り出していた。床はおそらく座敷で、折りたたみ式の脚が錆びた低いテーブルが、並ぶだけ並べられていた。
夕方近くでも、砂浜はまだ人があふれていて、パラソルがひしめきあっていた。夏のレジャーといえば、海水浴とプールくらいしかなかった。
海にカメラを向けた。自分のカメラだった。子ども用のカメラが出始めたころ、かわいい服の代わりに買ってもらったのを覚えている。
ピント合わせも露出調整もなく、シャッターを押すだけのもの。フィルムを詰めた記憶はないので、カートリッジ式だったか。
全体が入らなかったので、右を向いて1カット、左を向いて1カット撮った。
夏休み後半に作った民話集は、祖母にもらって大事にしていた大判の橙色の千代紙を表紙にして、お菓子の箱に巻かれていた金色の紐で綴じた。
須磨海岸で撮った2枚の写真はセロテープで丁寧に貼り合わせて、最初のページに使った。
その後、私にとって神戸の海は、山側にあった学舎の教室から、光の粒が弾けるのを虚に眺めるだけだった時期を経て、遠いものになっていく。
やがて故郷そのものからも離れ、振り返ればずっと海のない街で暮らしている。
このところ、いくつかの事情があり、実家に足を向けることが増えた。
その際に折あって、半世紀ぶりに来た須磨海岸は、長い時間をかけて整備したとのことで、どこまでものびやかですこやかだ。
忘れたいことばかりだと毒づいて、敬遠していた故郷だけれど、この年齢になると、そんな毒気もあっさり抜けるらしい。
心はもはや痛みに鈍い。痛みが慈しみに置き換えられるのは錯覚だとしても、それすら許す。
記者やジャーナリストにはならなかったけれど、書いたり、撮ったり、本を作ったりする仕事をしている。服はあいかわらず無頓着で、それより大事にしているカメラがある。
薄暮の海岸の青い光の中を、もう運行を終えたはずの汽車が横切った。
唐突に始めてしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。たいへん恐縮です。昨日のことは忘れるのに昔のことは思い出す、60歳を過ぎてそんなことが増えてきました。子どものころ、おじいさん、おばあさんはどうして昔の話ばかりするのだろうと思ったものです。でも当時、それほど高齢に見えた方でも、いまの私くらいの年齢だったでしょう。しかも、困ったもので、自慢にもならないたわいないことを、他人に話したくなるようです。先日、ここに書いたことを、知り合ったばかりの方に脈絡もなく話してしまいました。当惑したお顔に、こちらもどうにも収拾がつかなくて、なんともきまり悪く、また申し訳ない思いをしました。そんな不測の事態を避けるためにも、ここに記しておくことにします。「成仏」という言葉が浮かびましたが、それはちょっと違うでしょうか。こんなつぶやきも受けとめてくれるnoteはありがたいかぎりです。須磨海岸をきっかけに、これまでに見た4つの海を思い出しました。海はどこか特別です。記憶に強い痕跡を残しています。そういえば、私の場合、山は思い出しません。「記憶の海」いくつか続きます。よろしければ、どうか。
トップ画像は、須磨海岸で撮影した「ビーチトレイン」です。いまや大人気の「須磨シー」こと「神戸須磨シーワールド」のオープンに合わせて運行が始まったとか。撮った時からサイアノプリントにしようと思っていました。サイアノ好きな方であれば気になる紙は、ホワイトワトソン水彩紙の300gです。
