「ダジャレ退化論」誰がダジャレを殺したか
「ダジャレ」というコミュニケーションツール
はじめまして、うまいごすと申します。
読書が好きです。割と社畜寄りです。
そして、昔から「ダジャレ」なるものが苦手です。
「アルミ缶の上にあるミカン!」
「布団が吹っ飛んだ!」
「ジャイアン……ダメだ!!眠るな!!こんな雪山で……!眠ったら死ぬぞ……!!国に帰ったら結婚するんだろ?さっきまであんなに嬉しそうに放してくれたじゃあないか……皆で帰るって約束しただろう……!眠るな……眠……!
ジャイアン……死んじゃイヤーーーーーーン!!!!」
子どもの頃は、皆こぞって世の中に潜む「ダジャレ」を探しては掘り当て、鬼の首を取ったかのように友達にその釣果を無邪気に見せびらかして喜んでいた。
ご多分に漏れず自分もその発掘作業に夢中になった。でもなかなかコツがつかめず、即興でダジャレを言える人の事がカッコいいとさえ思っていた。
そんな平和で高尚な言葉遊びだったはずが、恐らく第二次性徴期の訪れと共に、まだ「ダジャレ」を好む者たちが冷ややかな視線を浴びるようになり始める。
以降は、意図せず会話にダジャレ要素が入ってしまうことすら「恥ずかしいこと」と認知され、ゆるい迫害(イジり)を受ける暗黒時代に突入する。
ダジャレを殺したのは誰か?
「ダジャレ」=「オヤジギャグ」とは、誰が言い始めたのだろうか?
似た言葉を重ねて面白おかしく話せば、その場の空気は少しだけゆるくなる。そんなコミュニケーション上のちょっとした調味料のはずじゃないか。そもそも使い方によっては便利なツールなはずなんだ。
ダジャレをさり気なくブッこむ事で、いい感じの空気を作ることができる。言った方も言われた方も、お互いをリスペクトして作り上げる共同作業の上に成り立つ、それこそオシャレなツールだったはずなんだ。
大人になってまで、ダジャレをかましたあとに鬼の首を取った様な顔をするスットコドッコイダジャレ武将が世の中にはびこった時代があったからそうなったんだ。
ダジャレを破壊したのは誰か?個人的には、先人達がヤリ逃げしたバブル時代の負の遺産なんだと思っている。
ダジャレではなく「言葉遊び」もしくは「言葉転がし」
自分はよくTwitter(現X)上でポストする際に、ちょっとした「言葉遊び」をします。
その一つが、自分が過去に読んだ作品のタイトルを少しもじって遊ぶ「#作品名を曖昧にしておやすみなさい」というシリーズ(439個位やって読み終えた作品のストックが切れたので、現在は休憩中)。
そのせいか、一時期「ダジャレが好きな人」「ダジャレが得意な人」として認知してもらっていた事がある、気がします。
しかしここでハッキリ言っておきたい。私はダジャレは「苦手」です。
そもそも私は即興でダジャレを言えるほど頭の回転が早くありません。むしろアドリブで気の利いたダジャレを言える人のことを尊敬してさえいます。
よしんば自分がダジャレを言えたとして、次の関門である「面白いダジャレ」になりません。ダジャレは知的でクールなユーモアな戯れなのです。
「#作品名を曖昧にしておやすみなさい」のシリーズは、今日はこの作品名でいこうと決めてからすぐ案がまとまらない。長いときは数時間考えている時さえありました。
これでいいのか?本当に?こんな誰もが考えるようなベタなやつでいいのか?引かれないだろうか?まぁ引かれてもいいけど…いや良くないだろ!考えろ、考えろ、自分!!
という感じで趣味の読書もせず時間を浪費して生み出してました。決してエレガントにアドリブでダジャレを放つ華麗な代物ではなく「頑張ってひねり出した言葉遊び」だった、という所が真実です。
でも、面白い(と自分が思える)言葉を連ねていきたいというのが自分の美学ではあるので、これからも、そういう感じにやっていきたい。
これからも、そういう感じでよろしくお願いいたします。
